第5話
夜明け前。
「……ねぇ」
ソファの横に座り込んだ雛女の声に起こされる。
「おなかすいた。のどもかわいたの。紅茶いれて。苦くないなら緑茶でもいいから」
甘えたことを言ってくる声は夜中みたいな泣き声じゃなかった。
「キッチンの使い方わかんない。お湯、わかして。お風呂も入りたい。着るものかして。下着買ってきて」
要求を聞きながら目を開く。あいかわらずリビングのソファの上。フェザーの掛け布団を押しやって起き上がる。自分で身に着けた覚えのない寝巻きを着ていて、絡み付いている腕は今回はなかった。室内を見回すが居ない。
「お風呂入ってるわ」
雛女はだから、俺を起こしたらしい。バスルームは二つあるがどっちも居間から遠い。広すぎる家は誰が居るか居ないか、居ても何処で何をしているのか分からない。俺の実家がそうだったように。
「……、メニュー」
壁のモニターに向かって声を掛ける。灰色に沈んでいた画面に色が戻って、俺の写真でなく一階にテナントで入っている24時間営業のカフェの夜間メニューが表示される。7時になれば近くの系列ホテルからモーニングのケータリングもできるが、この時間に頼めるのはこれだけ。
「えっ、なに、え?」
「すきなの選んでろ」
言い置いて起き上がる。居間から出てダイニングというより食事室と呼ぶ方が似合いの、8人掛けテーブルが鎮座ましました空間を通り過ぎる。給仕用の小部屋の壁に作り付けの冷蔵庫からハートランドビールの瓶を取り出し栓を抜く。少し冷えすぎの中身に歩きながら行儀わるく直接口をつける。吹き抜けまで来てやっと水音が聞こえてくる。
ノックは聞こえないだろうと思って浴室のドアを開けた。広い脱衣所と寝そべれるくらい大きな化粧台、空のクローク。仕切りの内扉は曇りガラスで、ジャグジーに漬かった人影が透けて見える。
ドアを開けたとたんに驚いてこっちを向いたそれが、声を掛けると、ザバザバ、水滴を撒き散らしながら飛び出して来る。
「コーヒーいるか?」
フルヌードに微動もせず尋ねる。
「え、あ……。うん」
意味をよく理解しないままなんとなく頷くのに、
「じゃあ頼んどく」
答えてパウダールームを出ようとする。何もなしでは離れられなかった。腕を掴まれ振り向く。そのすぐ後で自分がずぶ濡れだと気がついたらしく、抱き寄せようとする動きは寸前で止まった。
「あ、の……。あのさ……」
間近で正面から眺めるとつくづく若い。言葉を捜しきれずに困っている相手が何を伝えたいかは分かってる。水がしたたるどころか弾くような肌の若さに怯んで、昨夜、俺は自分からあわせた。
俺なりに理由は色々ある。誘拐の被害者が生存戦略として犯人との間に心理的なつながりを築こうとする
これ以上の
敵対関係を一旦、解消しておいた方がいいという判断の根拠は色々ある。あるけど面倒くさいから、覚えたての青臭い衝動を真っ直ぐぶつけられて辟易しながらもほだされた、経験豊富な年増にありがちの降参でいい。
「……ありがとう」
「あの、さ……」
「湯冷めするぞ」
手を振りほどいて注文しに戻る。リビングまでの往復はそれだけでコーヒーが煎れられるくらい遠い。
「小倉餡とソフトクリームのパンケーキに、エビとアボガドのサンドイッチ。イチジクとリンゴとリコッタチーズと生ハムのサラダ。ミネストローネスープにも粉チーズ振って、紅茶はポットで、あったかいミルクとジャムもつけて」
リビングでは雛女がすき放題のオーダー中。食べきれるのかと思ったが止めないで置いた。食べ物をずらり並べて飢餓感を癒したいんだろう。音声に反応したオーダーシステムが品名を次々にモニターに映し出す。
「コーンスープとコーヒー二つ。以上」
追加を出してオーダーを終了する。瓶の残りのハートランドビールを飲み干しソファの背面を立てる。ビールは手っ取り早い栄養補給になるが久々のアルコールは効いた。掛布団を畳んでクッションと並べ、自室に戻って簡単にシャワーを浴び、シャツとスラックスに着替えたタイミングでインターホンが鳴る。
「テーブルの上に頼む」
玄関でなく勝手口が自動で開錠され顔を合わせることなくデリバリーの皿や飲み物が並べられる。そして入室した配達者が退室するまで食事室のドアはロックされる。食器を取りに来るときも同じようにすればいいから面倒がない。雛女は呆れた様子で部屋の前で俺を待っていた。
「なにこのイエ。なにこの好き放題な贅沢。アタシがひどい目に合ってる時、ずっとこんな優雅に暮らしてたの?」
贅沢なのは否定しないが優雅とは言い難い。体調が悪いと凝ったものは食べられない。開き直っていまやっと、なにか口に入れようという気になってる。
絹毛布を巻き付けた上に裾の長いシャツを着せてやる。小柄な女は裾が膝の上まで隠れた。体に巻いた毛布を外して、薄手のバスタオルを肩に掛けるとまぁ、なんとなく格好がつかないでもない。
「アナタはイマイチだわ。その服、いつものオーダーじゃないでしょ」
ないとも。着替えは身丈のあう既製品がひととおり揃ってたが、俺の手足がそもそも日本の既製品にあってない。袖のボタンは留めずにあけっぱなし。まえに住んでいた街の馴染みの仕立て屋で、採寸して仮縫いして試着して専用の型紙作ってもらってた店の服とは違う。
「シャツの袖丈があってないのってカッコわるーい」
男物のシャツの裾から可愛い膝を出した雛女が非難がましく言う。同感だが今まではそれどころじゃなかった。食事室に移動し、て陶器の大皿に並べられた食べ物の正面に雛女が座る。テーブルと椅子が大きいからチョコンという感じがふだんより若く見える。俺も向かいに座った。髪を大雑把に乾かした若い男が、なんだかオドオドしながら食事室に入ってくる。
「……いただきます」
待っていた雛女は目をそらして、小さな声で呟く。最初は遠慮がちに、でもパンケーキを一口たべたとたんにもりもりと食いだす。
「食べる?わけてあげる。美味しいよ。アタシを床に放り出したまんまでずいぶん頑張ってお疲れでしょ?甘いもの疲労回復にいいよ」
「その品揃えで甘いものから食べだす順番が信じられない」
嫌味を返してやりはしたが、マグカップに入ったコーンスープも甘さという意味じゃ似たようなもの。ビールで冷えた腹にゆっくりおとしていきながら、雛女が並べた料理、特にイチジクがうまそうに見えた。
「あげる」
視線に気づいた雛女が取り皿にパンケーキとアイスと餡、サラダの上に飾られた果物を並べて、フォークを添えて差し出してくる。客に給仕をしなれた手つきは慣れていて仕草がきれいだ。が、俺はいらないとかぶりを振る。
「ダイエットしてるの?やめたほうがいいわ。細すぎるのも見目が悪いわよ。アナタただでさえ痩せ気味なのにいま、ちょっと病的だし」
俺の隣でコーヒーに口をつけてた若い男がギクリと肩を揺らす。
「よわってるから
食べない理由を答えたのはとりわけてくれた好意を無にすることの侘び。皿ごと隣の若い男にまわす。その後で、あれこいつ甘いもの食べるんだったかなと考えた。そういうことをそういえば何も知らない。
「食養生派よね。田舎のおじいちゃんみたい」
「田舎のおじいちゃんだ。そんな言葉知ってる時点でオマエも田舎のおばあちゃんだぞ。……知ってるか?」
若い男の方を向いて話を振る。驚いた顔で頭を横に振る。言葉でなくしぐさの返事だったのは果物を口に入れていたから。
「冷たいビールごくごく飲んどいてイマサラ」
「酒が入ってるものは腹こわさないんだ」
「うそぉー」
「俺の一身上に関してはウソじゃない。炭酸も腹を壊すからビールしか飲まない」
「思い込みの好き嫌いじゃないの?」
「かもな」
少しぬるくなったコーヒーをゆっくり飲み干して、
「……寝る」
二人を置いて立ち上がる。大丈夫そうだという気がした。先住猫と新入りの迷い猫の相性を確認したような気持ちで。
「喧嘩するなよ」
それでも一応の牽制をしておいた。
「アタシはしないけど、そこの人にアタシを苛めるなって言ってよ。あと、服と下着買って」
「女の下着は複雑すぎる。自分で通販しろ」
「そこの人、アタシを嫌い嫌いって言うけど、そっちこそどうかと思うの。紳士的じゃないわ。アナタみたいな上玉をあんなに雑に抱くなんてマトモなオトコじゃない」
隣で若いのがますます強張る。
「オマエの値踏みは若造にゃ厳しすぎる」
「庇っちゃって。経験値たかい玄人に教えてもらえなくなったのも良し悪しよね。
雛女が何かを言いかけたのを、俺は視線で止めた。俺はオトコとしては、達者な玄人に心をこめて筆卸してもらった。100年ぶりでもまあ上手だったとか褒めてくれようとしたみたいだが、隣の若いのにそのことを思い出させるのは危険だ。
「おやすみ。ヘンなこと教わるなよ」
言いながら若いのの肩を掴んだのは追って来られないためのまじない。
「……うん」
素直な若造は、まぁまぁ可愛かった。
俺の部屋、ということになっているバスルームつきの寝室はフローリングというより床張り。だだっ広い一間を衝立で仕切って寝間と居間に分けているところも、薔薇の香りがするからローズウッドとも呼ばれてる紫檀の内装も実家のむかしの部屋と同じ。当時も高価だったが今どきはさらに高いだろう。
テーブルは濃淡の違う紫檀で
もっとも、電灯も今よりずっと暗かった時代に育った身として暗めの部屋は落ち着く。新築以来、誰も使っていない部屋の木香も悪くない。ただ出会う前からこんな檻を用意されていた執着は少し怖い。とっくの昔におわったことを、忘れさせないと怨念を抱かれている気がする。
悪いことはたくさんした。死んでご
そうして期待されているのはより『悪いこと』。
もうそろそろ、うんざりなんだがとため息をつきながら眠った。
背中から、またぎゅっとされて、目が覚めて。
「遠出して来る。夜には帰る。あなたの家から着替えとって来る。他にもなにか要る?」
それを聞きたくて俺を起こしたらしい。
俺の『家』が前に暮らしていた街のマンションのことなら、ここから車なら片道で8時間はかかる。
「行きは新幹線で行くから。欲しいものとかは?」
やけに可愛らしくなったお坊ちゃんがうなじに懐きながら尋ねてくる。
「あなたが呼び寄せた子が昼に寿司頼むって言ってるけど、どうする?」
尋ねられて笑ってしまう。よく食う女だ。なら一緒に巻寿司頼んでくれ。あと、あの子の食費は出す。
「いいよ、そんなの。……食費とかいうなら……」
若い男が言いよどむ。俺を喰ってる代金は、そういえばもらってない。
「所長からの差し入れ、そこに置いてる。あと、ごめん、手首に着けるよ」
言われながら左手を掴まれる。何かと思ったらデジタル腕時計。いや、位置情報どころか心電図に体温、睡眠や心拍数、会話通信まで可能なスマートウォッチ。
「本部と繋がってる。あなたのことが、ずいぶん心配みたいだ。彼女と同じ部屋に入れないように設定してるから、食事は別々にとって」
抵抗しないで装着されておいた。室内の電子キー設定も別に不満はない。それより気になることがある。
ほんとにオマエ自分で行くのか?一人で?
「うん」
自宅じゃない、事務所の場所は?
「知ってる。でもそこ捜索入ったから、たいしたもの残ってないと思う」
もともとたいしたものは残してない。ただ、オーブン電子レンジの中にクッキー焼くような天板が入ってて。
「お菓子作るんだ。意外」
作るか。料理も殆どしない。せいぜいが茶を煎れて夜食のシリアルバーを齧るくらい。前に一緒に暮らしていた男は野営慣れしていて、魚も捌けりゃ鳥も羽をむしるところから処理できる、ナンなら大豆から豆腐も作れるという妙に家事能力の高いやつだったが。
そうじゃなくその天板の下面にガムテで、アルミホイルに包んだ俺のスマホ張り付けて隠してる。
「……外装だけにして持ってたのは?」
お前らに壊して見せるための
「やることが玄人だよね、あなた」
玄人だとも。俺が玄人じゃなくて誰が
見つかってなければとってきてくれ。
「うん」
素直な返事と一緒に顔を寄せられて肘を上げる。反対側にそむけてくちづけを拒む。
「ケチ」
うるさい。何もかも好きにさせられるか。順番間違ったことはまだ許してない。
それが条件なら持って帰らなくていい。
「持って帰るよ。他は?」
高速途中で、ちゃんと休憩しろ。
「うん。行って来ます」
もう一度ぎゅっとされて若い男が離れる。毛布が引き上げられて髪に触れられて、どうにも、なんだか。
勘違いしたりされたりしそうでため息をついた。
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