第3話
夜景が一番きれいな時間の帰宅。高層階専用のシースルーエレベーターに乗った若い男はぼんやりとそれを眺めた。
最上階を占領したビル
指紋照合がなければ停止しないエレベーターから玄関へ、網膜照合の玄関のアプローチからドアへ、掌紋照合のドアを開いたホール、二重三重の施錠を通り越す。そうして広がる空間は大きな部屋に区切られている。曲線のはめ込み窓から外が見えるリビングはカーテンが開け放されてヘッドライトの河の流れと光に満ちた街がよく見える。
少し感傷的な気持ちになる。滅多にしない夜間の外出をしたせいだ。さっきまで足元の光の中に居た。馴染みのないクラブで複雑な関係の男に言うつもりのないことまで訴えてしまった。思いがけないことを口走った。自分が不安定だという自覚はある。でもどうすればいいか分からない。
夜景の手前、ソファに埋もれるようにして不安定の原因は眠っている。夜景が目に染みる心の動揺はその人影のせいだったかもしれない。そっと近づく。本当に寝ているのかふりをしているかは分からない。
痩せた。
若い男は持っていた細長い紙箱を鼻梁の際立つ顔の前に置く。
「お土産。あなたの前の彼氏から」
クチが勝手に動いて微妙なウソをついた。持って帰れと言われたけれど買ったのは自分で、預かった訳ではない。でも自分からだというより喜ばれる気がした。そんなふうな、自分自身の不可解な心の動きに慣れていなくてくるしい。
シンプルなプリントの箱を置いたときも土産と言ったときも無反応だった睫が、最後の一言で薄く開く。人間には見えないだろう薄闇の中のかすかな動きが若い男の目には見える。視力は殆ど変わらないが夜目はずいぶん効くようになった。身動きにつられて白い喉近くで細い鎖と二枚のタグが揺れる。
身柄を拘束したときに身体検査をしなかったから本部まで着けたまま連れて来てしまった。チタンの鎖は切断するには特殊な工具が必要ではずせないまま、タグのGPSに素手では剥がせないほど強力な磁石を貼り付けることで電波の発信を無効化している。
一年から三年で電池の寿命が切れ位置情報の発信機能は失われる。けれど本来の目的、身元と所有権の明示は果たし続ける。
「元気そうだった。そっちは持って帰れなかった」
美形は返事をしないまま、ゆっくり起き上がり箱に手を伸ばす。
「あかり」
若い男が言うと音声リモコンが反応して照明が点灯。目を傷めないよう徐々に明るくなっていく室内。それにともなって自動でガラス窓のカーテンが閉まる。部屋と外との明るさを感知して外から覗かれないようにという設定は、同じ高さのビルと200メートルほど離れている立地ではあまり意味がないけれど。
紙箱を開封した手は中の瓶の紙包装を確認して箱に戻そうとする。
「呑まない?」
尋ねる。俯くだけ。声を聞いたことはこの数ヶ月ほとんどない。背中から抱きしめる。ビクついて全身が強張る。防御の姿勢でカラダを丸め、両手で自分のシャツとスラックスの前をぎゅっと掴む。脱がされることに抵抗する態度は言葉がはなくとも十分、性交に同意していないことを表明している。
「ちょっと酔ってくれると嬉しいんだけど。あなたの彼氏にも本部でも怒られたし、夕べのせん盲怖かったからもう
意識混濁していた時のことを言われて肩が揺れる。嫌そうなのは顔を見なくても分かる。
「本部で供血体、噛んできた」
確保されている
「不味くて吐きそうになるの我慢したんだけど、あなた褒めてはくれないね」
痩せて眠ってばかりなのはクスリの副作用か吸血のし過ぎか
「抱くのは、ダメだった」
好悪ではなく物理的に不可能だった。欲情していなくとも舐めてぬらせばなんとかなる女性体と違ってオスは海綿体が充血しないとまったく役に立たない。今はこうやって背中から抱きしめて、手を重ね指をぎゅっとしているだけで息苦しくなるのに。
「クスリも一応、飲んでみたんだけど、人間の
抱きしめている人の負担を減らすために欲望を解消しようとした。けれども結局、その欲は代用がきかないのだと思い知っただけ。かれがえがないことを自覚するのが怖い。それは自分のほうだけだと思えば一方的な弱みになる。
うなじに顔を押し付けて髪のにおいを嗅ぐ。ほんの少しの汗の気配に腰の奥に火花が散るほど興奮して、じゅくっと、指先から体液が滲み出す。
欲しい相手を虜にするために手指の爪の根元、皮膚腺が変化した毒腺から分泌される液体は神経高揚させ肉体を弛緩させる。快楽を受ける感覚を鋭敏にして、かつ吸血と性交の苦痛を麻痺させる媚薬効果。アップ系・ダウン系双方の長所だけを備えた、いわば完璧なセックスドラッグ。
けれどそれにも相性がある。体質的なものもあるし、注入される側の精神状態も大きく作用する。脈のないオンナを無理に犯すことは可能でもその気にさせるのは物凄く難しい。
とろとろ体液を流しながら尖る左の指先を、シャツの前を掴んだ左手の上から包み込むように指間部に射ち込む。押さえ込んだ肩が衣服ごしにも熱を持ったことが伝わってくる。
「ふ、」
快感に呻いたのは射ち込んだ若い男の方。反射で逃れようとするカラダをソファに押さえつけて擬似の感覚を堪能する。相性がいいとこの前処理で相手は蕩けて無抵抗になって、あとはどうでも、好きなように出来る。……らしい。
若い男にとっては
「ひとくち」
滑りそうなほどだらだら、右手の爪から体液がにじんでいる。
「クチの中、すごい苦い。ひとくちだけ」
哀願には拒絶さえ与えられなかった。右手の人差し指を鼓動に近い突起に射ち込む。かなり思い切り深々と。思い知らせたかった。
「あなたね、もう……」
いまの
他人の機嫌をとったことがない。富裕である事や成績優秀であったこととは無関係に、他人の存在や気持ちを気に止めない気質だった。知能が高かったせいで共感を偽装することは出来たが自分以外はいつも透明な膜ごしに存在した。
「噛まないから。ちょっとだけ」
シャツを脱がせる。ソファに仰向けに押し倒す。顔を背けられて傷つく。ぎゅっと閉じた目元が少し赤い。形のいい唇に生唾を呑む。
昨日からずっと正気でいられない。薬物の副作用でせん盲を起こしていただけ、正気でなかったことは百も承知だがそんな理屈を吹き飛ばす衝撃だった。優しく咥えられて愛されて幸福で狂いそう。吐き出しても体を離しても時間が経過しても戦慄は消えず全身に纏わりついている。
爪を刺した傷からにじむ血を舐めながら、生まれ変わったというよりもいま生まれたというような感覚を反芻しては浸った。
ある程度の苦痛を繰り返すと、不意に意識を失うことがある。尋問あるいは拷問に対抗する防衛機制。力の抜けた身体は扱いにくくて犯そうとすれば苦労しただろうが抱きしめているぶんには支障がない。嫌がられることなく存分に腋のにおいを嗅ぎながら戯れていたところに来訪者を知らせるチャイムが鳴って、甘い夢から苦い現実に引き戻される。
「……はい」
嫌々、声を出すと自動で音声が繋がる。
『地下駐車場だ。受け取りに来たまえ』
不愉快な相手が嫌な荷物を持ってきた。ああ嫌だイヤダと思いながら、半裸で肌を堪能していた衣服をざっと整える。腕の中からソファに戻した相手は意識がないが、少し寒いらしくてふるっと震えた。そのまましゃがみこみそうなほど愛しい。でもしゃがんではいられない。脱がせたシャツを肩に掛けてやってから部屋を出た。
エレベータで地下二階へ直行。登録した車両しか入れない専用スペースに停まっている黒塗りは私用車でなく本部の公用車。降りてきた所長の秘書は顎をしゃくり、後部座席に転がった『荷物』を運べと態度で指示。
「神林氏の希望で身のまわりの世話をさせるための移動だ。君の指揮監督下に入るが出向扱いで所有権は本部にある。壊したり殺したりしないように」
本部で言われたことを繰り返される。はい、と大人しく返答する。他人に指図されることにも慣れていないし不愉快でもあるが、上位者に対するあるべき態度の演技くらいはできる。所長の友人に対して丁寧な言葉を話すこの秘書に、微妙な疑いと警戒を抱いてたいそう不快でも。
拘束服を着せられて転がされていたのは小柄な女だが大嫌いなせいで重い。触りたくなどないのに肩に担いで住まいに運び込まなければならないのは災厄だ。表情を殺して歩き出そうとした横に、秘書に並ばれてえっ、となってしまう。手には助手席から持ち出した大きな紙袋が二つ。
帰れよ、と思ったのが顔に出たかもしれない。
「神林氏に面会する。様子を見て来いという所長の指示だ。あまりに弱っておられれば本部で身柄を引き取らせていただく」
「……ッ!」
そんなことは、夕方に顔を出した本部では聞かなかった。
不意打ちはわざとだ。偽装や準備が出来ないように。拉致や誘拐をしないように。前もって聞いていれば平静でいられなかっただろう。いま現在のように。
「眠っています。今日はこのまま寝せたいので出来れば起こさないでください」
努力して口を開く。声が震えたのは仕方がない。
「状況しだいだ」
「つれて帰るンなら、コレ帰りは自分で持って降りてください」
憎まれ口を、思わずたたく。秘書は苦笑もせずに聞き流した。
エレベータを降りても到着地点は遠い。網膜や指紋ではない声紋認証で幾つものドアを開ける。連れ込んだ女の子なら珍しがってくれる最新式の自動装置も硬派の秘書は呆れた表情を浮かべるだけ。老人や病人でもないのに自分でしない理由が分からないと横顔に書いてある。
それでも部屋の広さには少し表情が動く。自動空調で快適、天井が高くて床面積だけでなく空間全体が広い。玄関を声紋解錠したので全自動設定になっていて、一面にガラスのはめ込まれた広間に足を踏み入れた途端、感知器が作動して自動で室内は少しずつ明るくなっていく。
「やめろ」
仰向けで眠っている人が眩しさで目を覚まさないよう、少し焦った声で明度を止める。薄暗いままの部屋からの夜景は帰宅時よりも明かりを減らしている。いかにも盛り上がっていそうな時間の不意の来訪が改めて嫌味だ。
肩の荷物をさっさと床に下ろす。
「鎮静剤を打っている。拘束服と猿轡を脱がせたまえ。そのまま暴れさせると窒息してしまう」
秘書官は紙袋をソファのサイドテーブル置きながら言った。そうしてそこにある紙箱におやという表情。世間に少しは有名で、やんごとない方も愛飲しておられるという麦焼酎。粋な好みは世間知らずの子供部屋に似つかわしくない。
「神林氏のお好みか。さすがいいご趣味だ」
秘書は言いながら右の手袋を脱ぐ。指先で簡単に掛けたシャツの間から首筋に触れて脈拍と体温を見ている。若い男は不埒をされないよう横目で見張りながら、それでも自分の気持ちが和むのをもてあました。
嫌いな相手が好きな人を褒めた。たったそれだけ。なのになぜだがこの秘書のことをいいヤツかもしれないと心が動いている。単純を通り越して馬鹿馬鹿しい。けれど本当に動いたのだ。発生した事実は消しがたい。
心という目に見えないものがほぼ物理的に存在することを思い知る。
「体温脈拍正常。呼吸安定、投薬の様子なし。日常生活に関して気を使っていない訳でもなさそうで、今回は処分を猶予する」
土産に持たされた紙箱はだいぶ点数を稼いだらしい。
「だがくれぐれも扱いは丁寧に。我々としても危険を冒して次の交配者を選択したいわけではない。だが、君と一緒においておくことがより危険となれば、その手段をとらざるを得ない」
代わりに相手を宛がうぞ、と脅されてふいる。
「わかりました」
「それは所長から神林氏への差し入れだ。必ず渡すように」
言い置いて嫌な男は退室。嫌な荷物と一緒に残される。
「うー、うぅー」
怖い秘書が居なくなった途端、呻きだす女性体の同族がうざい。
「外してやるけど騒ぐなよ。オマエのこと嫌いなんだ。うるさくしたら舌切る」
切り落としたところで数日もすれば再生する。少なくともその間は静かだろう。
「そこの人にもゼッタイ触るな。オレ本当にオマエのこと嫌いなんだ。その人にナンかしたら手足切り落とすからな」
言いながら結ばれた紐を解く。俯く顔を見て、あれ、と。
「う……、っ、うぇ……」
さわぐなと言ったからだろう。唇をかみ締めて嗚咽する、顔立ちが少し。ほんの少しだけ。
「ひ……、っく。う、ぅ……」
震える唇は毒のような朱が塗られてない。肉付きが薄く、形が整いすぎて薄情に見える口元が少しだけ。
似ていた。
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