三 あの日の話

 この一件があってからというもの、シゲルさんは趣味だった登山も一切しなくなり、また、この話を誰かにすると何か悪いことが起きるような気がしたので、一度も他人ひとに話すことなく十数年の月日が過ぎました。


 その間にシゲルさんも結婚して男の子が一人生まれ、郊外にマイホームを建てて住むようになったのですが、そうして家族三人、いつものように楽しく過ごしていた冬のある日のことです……。


 仕事から帰ってきたシゲルさんは、リビングにあるこたつで夕食をとろうとしたのですが、その日は朝から雪が降り続いていて、こたつに入ると、引き戸の大きなガラス窓越しに雪の降り積もった庭先がとてもよく見えました。


 真っ暗な夜の闇を背景に、足跡一つない、まっさらな新雪の降り積もった庭がぼんやりと浮かび上がっています。


「そういえば、あの日もこんな新雪の降り積もった後だったな……」


 その幻想的な光景にシゲルさんはふと、あの雪山での恐ろしい出来事のことを思い出しました。


 ずっと誰にも話すことなく、シゲルさん自身ももうすっかり忘れ去っていたのですが、真っ白い新雪の広がるその様を見ると、不思議とあの日の記憶が蘇ってきたんです。


「あの日ってなんのこと?」


 ちょうどその時、夕飯の鍋を手にした奥さんがやって来て、庭を眺めるシゲルさんに尋ねました。


「……んん? ああいや、夢だったのかもしれないんだけどさ。昔ちょっと雪山で不思議な体験をしたんだ――」


 あれからもう十年以上経ちますし、恐怖心も薄れていたシゲルさんは、いい加減、もう話してもいいだろうと、あの夜の体験について隈なく奥さんに語って聞かせたそうです。


「――今、思い返すと、あの足跡はなにか獣のつけたものだったのかもしれないし、ミノさんは隙間風に晒されて凍死したのかもしれない。それくらいに小屋の中も寒かったから、あんな悪夢をみただけなのかもしれないんだけどな……ま、そんな昔の夢のような思い出話さ……」


 話をそう締めくくり、遠い日を懐かしむかのようにシゲルさんが微笑みを浮かべたその時です。


「寒っ……」


 不意に、室内の温度が下がったんです……まるで、あの夜の山小屋で感じた凍てつくほどの寒さのように……。


「……ひっ!」


 その寒さに身震いした後、傍らに立つ奥さんを見上げたシゲルさんは思わず顔を引きらせました。


 それまでは確かに奥さんだったはずなのに、いつの間にかそれは、あの全身凍りついた霜塗れの白い女に変わっていたんです。


「……う、うわあぁぁぁぁーっ!」


 数瞬の後、シゲルさんは絶叫をあげながら、庭に面した引き戸を開けると転がるようにして外へと逃げ出しました。


 そのまま、庭の新雪を無茶苦茶に踏み荒らして家を飛び出して行ったシゲルさんですが……次の日の朝、遠く離れたとなり町の公園で、降り積もった新雪の下から凍死体となって発見されたそうです……。


 じつは、この話をお聞きしたユキさんというのはシゲルさんの奥さんなんですね。


 だから、これは茂さんが亡くなる前日の夜、ユキさんが旦那さんから聞いた体験談をもとに推測を加えて復元したものなんですが、彼が家を飛び出す際に見たものについて、どうして奥さんのユキさんにもわかったのか? という疑問が残るかと思います。


 じつはユキさん、この時、何者かに取り憑かれたような感覚に襲われたそうなんですが、朦朧としながらも意識を失ったわけではなく、旦那さんの肩越しにガラス窓に映る自分の姿を見たようなんですね。


 その姿は、まさに顔も髪の毛も全身霜に覆われた、真っ白に凍りつく女のものだったそうです……。


                          (雪女 了)

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雪女 平中なごん @HiranakaNagon

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