ニ 霜まみれの女

 ところが、それからあまり時を置かずして、バタン! と入口のドアが勢いよく開いたんです。確かに鍵をかけたはずなのに、そんなのおかまいなしにです。


 そのドアが開くのと同時に、スゥー…と冷たい空気が小屋の中へ吹き込んできます。


 もともと小屋の中だって、お世辞にも温かいとは言えない室温だったんですが、はるかにそれを下回る、まるで吹雪の中にでもいるかのような、凍えるほどの冷気に室内は徐々に徐々に蝕まれていきます。


「……!?」


 そして、ガタガタと寝袋の中で震えるシゲルさん達は、何かが足元に立っている気配を感じました。


 目は固く瞑っていますし、そちらを見てもいないはずなのですが、それがなんであるのかが不思議と二人にはわかるんです……それは、間違いなくあの外にいた〝雪女〟――全身真っ白に凍りついたあの女の気配なんですね。


 その女の気配が、すー…と足音一つ立てることなく、床を滑るようにしてミノさんの枕元へと向かいます。


「…なんまんだぶぅ……なんまんだぶぅ……」


 意識だけをそちらへ向けて耳を澄ませると、震える声でミノさんは、そうして念仏を必死に小声で唱えています。


「…なんまんだぶぅ……なんまんだぶぅ……なんまんだぶぅ……なんまんだぶぅ……」


 どうにも気になって、シゲルさんは恐る恐る薄目を開けると、けして気づかれないよう、こっそりとなりのミノさんの方を覗ってみました。


「……!」


 その瞬間、シゲルさんは心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖を感じ、口から出そうになった悲鳴をなんとか飲み込みました。


 瞼を固く閉ざし、必死に念仏を唱えるミノさんの顔の目と鼻の先で、四つん這いになったあの白い女がその顔をまじまじと覗き込んでいたんです。


「………………」


 今にも触れ合ってしまうほどの距離にまで顔を近づけ、女はカッと見開いた眼でただただミノさんの硬直した顔をじっと見つめています。


「ひ、ひいぃぃっ…!」


 あまりの恐怖に堪らずミノさんは掠れた声で悲鳴を漏らしてしまいました。


 すると、相変わらずミノさんのことを見つめたまま、女はフッ…とその顔に息を吹きかけたんです。


「………………」


 女に息をかけられたミノさんはなぜだか急に押し黙ってしまい、念仏を唱える声もまったく聞こえなくなってしまいました。


 静かになったミノさんを心配するシゲルさんでしたが、他人ひとの心配をしているような場合じゃありません。


 ミノさんが静かになると、今度はシゲルさんの方へ女は近づいて来たんです。


「………………」


 やはり、物音一つ立てずに近づいてきた白い女は、再び必死に目を瞑るシゲルさんの顔をミノさんの時と同じように無言で覗き込みます。


 シゲルさん、堪えがたいその恐怖にじっと堪えながら、藁をもすがる思いでミノさんみたいに念仏を唱えようとしますが、いくら喉に力を込めても声がでません……思わず叫びそうになっても、その声すら恐怖に押し潰されて出せないんです。


「………………」


 寝袋の中で、ガタガタと硬直した体を小刻みに震わせながら、ただただ女の視線に堪え続けるシゲルさんでしたが、何も言葉を発しなかったのがむしろ幸いしてか? しばらくすると女は何もせずに、また静かにシゲルさんの枕元から離れていきました。


 そのまま女の気配は小屋の中からも消え去り、ほっと安心したシゲルさんは、気を失うようにして眠ってしまったそうです。


 次に気がついた時には、窓のカーテン越しに明るい日の光が薄暗い小屋の中へも差し込んできており、外はもうすっかり朝になっていました。


 あれは夢だったんだろうか……? いや、なんだか今でもまだ夢の中にいるような心持ちで、寝袋から這い出したシゲルさんは窓に近づくと、カーテンを少し開けて外の様子を確認してみました。


「……!」


 すると、やっぱり降り積もった新雪の上にはたくさんの足跡が残っているんです。あの女の姿は見えませんし、今は足音も聞こえないんですが、昨夜のことは夢じゃなかったんですね。


 夢じゃないとわかると、急にシゲルさんはミノさんのことが気になりました。


「ミノさん!? ミノさん起きて…ひっ!」


 慌ててミノさんの方へ駆け寄り、声をかけようとしたシゲルさんは、思わずギョっとして息を飲みました……ミノさん、目を見開いたまま、その顔は凍りついて霜まみれになっていたんです。


 そう……昨夜のあの女と同じように、霜で顔が真っ白になっていたんですよ。


「ミノさん!? …冷っ! ……し、死んでる……」


 震える指でその顔に触れてみると、まさに見た目同様、それは氷に触れたかのような冷たさです。


 ミノさん、寝袋の上からでもわかるくらい、全身ガチガチに凍りついて、もうすでに事切れていたんです……。


 あの時、女が息を吹きかけたからなんでしょうか? ……この雪山で遭難死した女性なのか? それとも、あの無数の足跡をつけた者達の象徴的存在なのか? ……いずれにしろ、もしも自分もミノさんのように、あのまま冷たい息をかけられていたとしたら……。


 外気温のせいばかりでなく、シゲルさんは背筋にゾクっと冷たいものを感じると、ガタガタとまた体に震えがきて止まらなかったそうです。


 その後、逃げるように山を降りたシゲルさんは地元警察へ連絡し、不審死ではありましたが外傷も何もなかったため、ミノさんは犯罪性のない不注意による凍死ということで片付けられました。


 ただ、事情聴取の折に警察が……


「まあ、あの山・・・ならなんの不思議もないさ……」


 と、なにやら意味深な言葉をポロっと口から漏らしたのが、シゲルさんとしてはどうにも気になって仕方なかったとのことです――。

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