雪女
平中なごん
一 雪山の怪
これは、ユキさん(仮名)からお聞きしたお話です……。
体験者の名前は仮にシゲルさんとでもしておきましょう。
シゲルさん、登山が趣味で学生時代からよく山登りに行っていたんですが、大学を卒業して就職した企業にもやはり山好きな上司がいて、すぐに意気投合するとちょくちょく一緒に登るようになったんですね。
それは、この山好きな上司――仮にミノさんとしておきますが、このミノさんと何度目かの雪山登山をした時に起こりました……。
二人が向かったのは東北の豪雪地帯にある山で、別に知られていない秘境というわけではなかったのですが、逆にそれほど人気のある山というわけでもなく、行った時期も時期でしたので他に登山者の姿も見えませんでした。
おりしもその日は未明まで吹雪いていたらしく、辺りは降り積もった新雪で、まさに一面の真っ白な銀世界だったそうです。
まだ足跡一つついていないまっさらな新雪の上を、ザク……ザク……と用心深く登山靴で踏みしめながら、シゲルさんとミノさんはいつものように山を登って行きます。
雪国に住んでいる人だったらよくわかると思うんですが、誰も足跡をつけていない雪の上を一番最初に歩くのって、なんだか申し訳ないような罪悪感を少し覚えつつも、開拓者にでもなったような気分で、とにかくとっても爽快なものなんですね。
「いやあ、新雪の山ってやっぱりいいですねえ~」
吹雪の後の抜けるような青空の下、よりいっそうの爽快感を味わいながら、前を行くシゲルさんは背後のミノさんにそう声をかけます。
「新雪かあ……あんまり新雪の山には入らない方がいいんだけどなあ……」
ところが、ふと立ち止まったミノさんは昂揚気味のシゲルさんとは正反対に、なぜだか気乗りしないような様子でそう呟くんですね。
「え? なんでですか? こんなに気持ちいいのに?」
当然、その言葉の真意が理解できず、シゲルさんも立ち止まると怪訝な顔で訊いてみました。
「なあに大丈夫ですよ。装備もちゃんとしてるし、油断しなければ危険はないですよ」
尋ねながら、シゲルさんは登山家の常識からそう考えたんですね。新雪は正しい道がわかりづらくなるし、
「いや、そういうことじゃないんだよ。そういうことじゃ……ああいや、変なこと言っちまったな。忘れてくれ……さ、急ごう。日暮れまでに登頂できなくなるぞ?」
でも、ミノさんは何か反論したげな口ぶりをしながらもそれ以上言うことはやめ、話をはぐらかすとシゲルさんを追い越す勢いで再び歩き始めます。
「……あ、はい!」
なにか腑に落ちないミノさんの態度に小首を傾げながらも、彼に促されて自身も登山を再開したシゲルさんは、雪山の清々しさにそんな些細なこともすぐに忘れて、存分に銀世界を楽しみながら夕方には山頂へと到り着きました。
そして、その夜は山頂を少し下った所にある山小屋で一泊することにしたんですね。
山小屋とはいっても経営者が切り盛りしているような本格的なものではなく、誰でも自由に使っていい、いわば避難小屋みたいな無人の小さなものです。
それでも、建物はしっかりできているし、毛布なども常備されていて、食糧や燃料も不可なく持ってきているベテラン登山家の二人からすれば、それだけでも充分過ぎるほどの施設なんですね。
その山小屋へと入り、ようやく重たい装備を解くことのできたシゲルさん達は、雪を鍋にかけてお湯を作り、それでコーヒーを淹れてお茶にしたり、インスタントラーメンを作って夕食にしたりして、今日の登山や仕事のこと、その他あれこれと談笑しながら、いつものように夜は楽しく更けていきました。
明日はまた日の出から下山ですからね。これまたいつもの如く、二人は早くから寝袋に入り、疲れもあってかすぐに眠ってしまいました。
ところが、深夜のことです……。
日付も変わって午前一時近くだったといいます。
ふと、シゲルさんは目を覚ましてしまったんですね。普段はこんなことなく、朝までぐっすりなんですが、なぜ今夜に限って夜中に目を覚ましてしまったのか? その理由はすぐにわかりました。
他には何一つ音のしない、しん…と静まり返った夜の雪山……その静寂の中に…ザッ……ザッ……と何者かが雪を踏み分けて歩く、不気味な足跡が聞こえているんです。
…ザッ……ザッ……ザッ……ザッ……。
辺りが静かなせいなのか? 足音のわりにはやけに大きく聞こえてきます……いや、大きく響いてえるのは静かなためばかりじゃありません。その足音に耳を
…ザッ……ザッ…ザッ…ザッザッ…と、どうやらその足音は、複数人が雪の上を、しかも、止まることなく歩き回っているものなんですね。
それに、足音は一方向からではなく、四方八方から聞こえてきているので、どうも小屋の周りを回っているようなんですよ。
ただならぬその様子にシゲルさんが飛び起きると、やはり足音で目が覚めたらしく、となりに寝ていたミノさんも寝袋を抜け出し、すでに窓から外を覗っていました。
「ミノさん…?」
「シッ…! ヤツらに気づかれる。やっぱり新雪の山には登るもんじゃないな……」
尋ねるシゲルさんに、ミノさんは険しい表情で外を見つめたまま、昼間言っていたあの台詞を口に彼を嗜めます。
「わっ! な、なんだこれ……!?」
そこで、同じように窓へ近づき、半開きになったカーテンの隙間から訝しげに外を覗いたシゲルさんは、その光景に思わず声をあげてしまいました。
なぜならば、山小屋の周りに降り積もったふかふかの新雪の上には、大人数の人間でなければとてもつけられないような、大量の足跡がひしめいていたからです。
……いや、目の錯覚なのか? それはどんどん目の前で増えていっているような気さえします。
「み、ミノさん、これっていったい……?」
「な、だから言ったろ? 新雪が降り積もった後に山へ登るとな、ああして普段は見えないもんが見えちまうんだよ……山で遭難したヤツらなのかなんなのか……」
咄嗟に口を押さえ、今度は声を
「……っ!」
ですが、そんなミノさんが不意に目を大きく見開き、口を半開きにしたままその顔を硬直させました。
「……ミノさん? ……ひっ…!」
彼の変化につられ、シゲルさんも再び窓の外へと視線を向けると、またしても恐ろしいものをそこに見てしまったんです。
小屋からは2、3mほど離れた場所、無数の足跡がつけられた雪の上に、女が一人、立っているんです……。
どうやらもともとは登山用の赤いヤッケを着ていたらしいのですが、その表面は白い霜と氷に覆い尽くされ、長い黒髪も血の気の失せた顔も蒼白く凍りつくと、全身、雪像みたいに真っ白な恰好をしているようにも見えます。
……そう。それはまるで、民話や小泉八雲の『怪談』で語られている、あの〝雪女〟を彷彿とさせるような姿をしているんです!
「あ、あ、あれ、な、なんなんですか!?」
「俺だって知らねえよ! 俺達はなんにも見ていない。なんにも見なかったんだ! いいな!?」
驚いてまたしても尋ねるシゲルさんでしたが、ミノさんはそう言って怒鳴り散らしながら、半開きのカーテンをシャ…っと乱暴に閉め、入口のドアに駆け寄って鍵のかかっているのをガチャガチャ確かめると、さっさと寝袋に入って丸まってしまいます。
一人、窓辺に取り残されたシゲルさんも、慌ててその後を追うようにして、自分の寝袋に飛び込むと目を瞑ることにしました。
おそらくミノさんもそうだったんでしょうが、ぜったいにあの女には関わってはいけない……そう、本能的に感じたんですね。
……そうだ。なにも聞いていないし、なにも見なかったことにすれば、それはなにも起きていないのと同じことだ……このまま明るくなるまで目を閉じていれば、きっと何事もなかったかのようにいつもの朝が迎えられるはずだ……。
そう、シゲルさんは自分に言い聞かせ、ミノさん同様、早く眠ってしまおうと必死に目を閉じました。
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