第29話   敗走し、去ってゆく馬車②

 お嬢様のお屋敷は、壁紙の薄緑色と、焦げ茶色に塗料を統一された数々の柱と、素朴な扉たち、深緑色の絨毯に、緑のドレスとふわふわのシュガーブラウンカラーのお嬢様の髪が、とてもよく映えます。


 しかし本日は、お嬢様自らのご希望により、道化色のピンクをまとってカレン様とご対峙なさいました。お嬢様の後ろ姿と、髪を飾る古びたピンクのリボンが、特別異質な物に映ります。


 それだけ本日起きた出来事が、大変なものであったのだと思い知らされます。何か大きな事件を解決したとき、その技量と度量ある者の放つ異質さが、日常の風景に際立ってしまうせいでしょうか、わたくしはお嬢様を敬愛すると同時に、容赦なく解決してゆく割り切り方には畏怖さえも覚えます。もしもわたくしがカレン様と対峙したならば、双方ともに感情的になり、お茶をぶっかけていたのは、わたくしのほうだったかもしれません。


 カレン様のしでかした事は、決して許されるものではないはずです……サロンや世間に公表してやりたい気持ちが、この胸にくすぶります。やはり大事なお嬢様にお茶をかけたことが、許せないのだと思います。未だ興奮覚めやらぬわたくしと違って、いつも通りの足取りで先を行くお嬢様。感情の切り替え方の冷淡さにも、尊敬の念を隠せません。


 別荘地の家具類は、おそらく戻ってはこないでしょう。あの酔っぱらいのおじちゃんは、別荘の塗装の他にも、家具の解体作業に使われたはずです。その口封じに、高価で度数の高いお酒を提供されていたのでしょう。どんな美酒でも、アルコールの度数が高ければ、ガバガバと飲むのは難しいので、彼を長く囲むことができます。ザルには効果がありませんが、彼の泥酔ぶりを見るに、あまりお酒に強くはないようですね。


 クリスティーナさんは、どういうわけだか一向に姿を見せることなく、撤退してゆく馬車たちにすら置いていかれてしまいました。置いていかれても困るのですが。本当にどこに行ったんでしょうか。部下に指示して屋敷のお手洗い等を捜索させましたが、どこにもいないんです。


「トリー。着替える前に、お兄様のご容体を確認したいわ」


 お嬢様は濡れたスカートのまま、ベンジャミン様がお休みになっている客室へと足をお運びに。わたくし個人的な意見を申し上げますと、ここまで大事に看病されるほどのお人には思えません。ですが、お嬢様のご意向を組み、お部屋まで同行いたしました。


 お屋敷に三つある客室のうち、一番手前側に、ベンジャミン様は横たわっておりました。過度な肥満による無呼吸性症候群を防ぐために、顎の下に綿棒を挟まれております。お嬢様のお話では、非常に繊細でドカ食い癖のある殿方だそうですけど、お嬢様に優しいお言葉の一つもおかけできない殿方を気遣う気持ちは、微塵も沸きません。


 布団越しに大きく上下するお腹を見守りながら、お嬢様がほっとしているのが気配で伝わりました。


「ひとまず、お兄様については心配する必要はなさそうだね。失恋のショックで食べ続けないように、見張ってくれる誰かがいればいいけれど」


「見張って、これなんだと思います。旦那様は、いささかご子息に甘いような気がいたします。このままでは、いつか糖尿病などの病を患ってしまわれるかと。今一度旦那様と話し合う機会が、ベンジャミン様には必要なのだと思います」


「ふふ、お父様と面と向かって話し合うだなんて、お兄様にはできないだろうね」


 そうでしょうね……。お嬢様の兄弟姉妹には、問題を抱える方々が多い気がいたします。一番上のお姉様は、買い物依存症です。あらゆる高級品を購入しては、返品する毎日だと存じ上げております。返品されるだけ、まだ症状は軽いほうなのかもしれません。


 お嬢様は、自室へ戻るとおっしゃいました。わたくしもお着替えのために追従いたします。


 道中、厨房で夕食の下拵えを手伝うマリアンヌさんに、お茶の用意を指示しておきました。


 元気なお返事とともに、マリアンヌさんが笑っていたのが印象に残ります。カレン様に何が起きたのか、あまり理解していないご様子で、救われました……。


 あの嘘の多い肖像画たちに見下ろされながら、お嬢様とわたくしは静かな廊下を、渡っていきます。


「きみは、あのマリアンヌちゃんをよくあそこまで仕上げてくれた。日中すごく忙しいのに、本当によくやってくれたよ」


「いいえ、大したことは何も……マリアンヌさんの努力によるところもありますし」


「その努力を引き出すやる気を、彼女に芽生えさせたのも、トリーなんでしょ? うちのメイドたちが教えてくれたよ」


「まあ、あの子たちったら」


 仕事仲間から、そのような評価をもらっていただなんて、なんだか嬉しいものですね。口うるさいメイド長として、疎まれているのも覚悟の上でしたから。


「カレン様のお屋敷のメイドたちは、今まではマリアンヌちゃんという哀れな道化を見下すことで、『あの子よりはマシだ』って思いながら自尊心を保っていたんだろう。けれど、サロンでの事件でマリアンヌちゃんをクビにしちゃったせいで、メイドたちの心が崩壊し始めたんだ。ほんと、なんの事件も起きなくて良かったよ」


「道化がいてもいなくても、もともと良い職場環境ではありませんでしたから、メイドたちがそれをはっきりと自覚し始めてしまうことは……そうですね、崩壊に繋がります。今まではマリアンヌさんの奇行がひどくて、環境のひどさに目が向かなかったのですね」


「マリアンヌちゃんをクビにせず、そのままずっと抱え込んでいれば、この事件が私たちの耳に届くまでに、かなりの時間がかかったはずだよ。そのかんに、ベンジャミンお兄様は勇気を出してカレン様に贈り物をしていたかもしれないし、カレン様は私のもとに突然やってきて、なんの事前説明もないままに、私に毒入りのお茶を飲ませることに成功していたかもしれない」


「危なかったのですね……」


「マリアンヌちゃんが馬車でここまで来てくれて、本当に助かった。彼女の忠誠心は、本物だったよ」


 お部屋まで到着いたしました。扉を開閉する使用人を配置するお屋敷もありますが、うちは人手不足なのと、お嬢様が扉の開閉を好むお人柄なので、今のところ見張りの兵士一人が廊下にポツンと立っている程度です。


「それとまぁ、カレン様が余裕がなくてプライド高い性格だってのは、初対面のお茶会で私を追いかけたときに明確になったよね」


「え?」


「今まで自分が開催したサロンを、断った人なんて、誰一人いなかったんだよ。自分が用意したお茶なんだから、絶対に飲んでくれるはず……それを私がニヤッと笑って、逃げちゃったから、許せなくて追いかけてきたんだ」


「ああ、あの時はびっくりいたしましたね……ハイヒールとドレスで追いかけてくるだなんて、今までどのような人生を歩まれたら、お茶の一杯程度で客人を責められるのでしょうか。目上の身分の淑女ならば、どっしりと構えてソファに深く腰掛けていればよかったものを」


 マリアンヌさんの道化っぷりを見逃す演技はできても、実際に侮辱を受けた際の見逃し方が、わからなかったのですね。普段から使用人たちを大切になさっていれば、こんな事を計画しなくても、次期大公殿下との婚約も、サロンでの人気も、欲しいままだったでしょうに。


 ん……? なんでしょう、この違和感。


 次期大公殿下は、国同士の繋がりを強固にする機会を失ってでも、なぜカレン様との婚約を破棄したのですか? サロンという大衆の前ではなく、書面で破棄すればよろしいのに、なぜ「べたべたした」という些細な理由で、カレン様が開催するサロンで激昂して見せたのでしょうか。まるでパフォーマンスです。マリアンヌさんの話によると、周囲も認めるラブラブカップルだったそうで、べたべたなんて、当たり前の距離感だったのではないですか?

 そのカレン様は、なぜここへ来てベンジャミン様を計画的に落としにかかったのですか? なぜダリアお嬢様への対策をしっかりと取ってまで、別荘に住んでいたのですか???


 あまりにも……あまりにも、不自然な点が多すぎます!


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