第28話 敗走し、去ってゆく馬車①
その後のカレン様はメイドたちに速やかに片付けを命じて、驚くほど迅速に撤退していきました。お茶も何もかも残さず回収していったあたり、本当に毒でも混入させていたのでしょうか。証拠が残ると、後々まずいですものね。
ベンジャミン様は椅子に座ったままショックで白目を向いておりましたので、お嬢様のお屋敷内へ、男手を呼んで搬送いたしました。お嬢様に挨拶の一つも言えないお人です、目の前の舌戦に気絶してしまうのも、仕方ないのかもしれません。
曇って日差しが柔らかくなった空の下で、お嬢様はカレン様が去っていった方角を、ぼんやりと眺めていらっしゃいました。
「お嬢様、お着替えをいたしますので、お部屋に……」
わたくしはお声がけしながら、お嬢様に歩み寄りました。お嬢様のスカートの、ミントティーがかかった箇所を注視します。ほとんど透明なお茶ですから、シミにはならないかもしれませんが、下手をしたらお嬢様の手やお顔に、お湯がかかっていたかもと想像すると、ぞっといたします。
じつは練習の段階で、わたくしはカレン様が激昂のあまりにお嬢様に危害を加えることを危惧しておりました。お嬢様にも、そう申し上げたのですが、「そのときは、ちゃんと避けるよ」なんて自信満々におっしゃるものですから、それ以上はわたくしも言えませんでした。運動が不得意なお嬢様が、窓から飛び出すのも何度も練習いたしましたし、まあ、大丈夫かな……と、その時は思ったのです。
しかし今、こうしてドレスを汚されたお嬢様を目の前にすると、割れた食器のごとく胸が痛みます。だってお嬢様は、何も悪くないのですから。
いつか、あの日わたくしが全力でお嬢様をお止めしていれば良かったと、後悔する日が来てしまうかもしれない……そう思うと、すごく不安になります。
「お嬢様、差し出がましいことを承知で申し上げます……我々が王命を受けて動いていることを、早々にカレン様に打ち明けてしまえば、今回のような大舌戦を繰り広げなくてもよろしかったのでは」
王命。
侯爵家カレン・テイラーが敗走したのは、公爵家ナイトウォークの復興が、この国の陛下からのご命令であるからです。ナイトウォーク家最後の当主は、現陛下の伯父上。今この場に、カレン様よりも高位な立場の者は存在しませんが、彼女のわがままが通じないほど大事な用事を抱えている人間が、ここに一人いらっしゃいます。
「ありがとう、トリー。あなたが心配してくれていたこと、ずっと伝わっていました。私も、あなたを冷や冷やさせているんだろうと思うと、少し悲しかった」
振り向いたお嬢様は、下がり眉毛で微笑んでいました。
「でも、あれだけ私に言い負かされたんだもの、カレン様の新米メイドたちも、気が晴れたことでしょう」
「お嬢様……」
「きっと今頃、鼻歌でも歌いながら帰る支度でも考えているかもしれないわ」
「ここから別荘までは、二日か、丸一日はかかります。ですがメイドたちにとっては、さぞ胸がすいた旅路になることでしょう」
あの大きな男物の鞄を背負っていたメイドさんも、これで許してくださらないでしょうか。もう意味不明な仕事に苦戦しなくてよろしいですし、なんなら今回の件で転職を視野に入れてくれるかもしれません。
「ベンジャミンお兄様も今は寝込んでいるけれど、そのうち元気になるでしょう。純情なお兄様をもて遊んだお礼は、きっちりお返ししましたし、私も大満足です」
「それならば、舌戦した甲斐がありましたね」
「ふふ、そうね。でも危なかったわ。今回はたまたま運が良かった。カレン様が取っていた対策は完璧だったし、彼女からはなんの詩も読み取れなかった」
「そ、そんな、ご謙遜が過ぎます、お嬢様……詩が無くても、危機を脱したではありませんか」
わたくしは、たった今吐いた言葉とは裏腹に……たしかに運によるところが大きかったことを、認めざるを得ませんでした。舌戦の相手は、世話になっている知人の別荘の中身を、丸ごと捨てる神経の持ち主です、これは、よほど立場が上であることを知らしめたい恥知らずか……お嬢様の特技を警戒する者しか、成し得ないこと。
わたくしはお嬢様の才能を世に広めた大勢のうちの、一人です。お嬢様のお人柄と才能が、正当に評価されてほしかったから。一方的な賛美化を望む、わたくしのただのエゴです。しかし今、相手側に対策を取られる原因にもなってしまい、申し訳なさに胸が苦しくなります。
「お嬢様がカレン様に対策を取られたのは、わたくしのせいです。それを今更、この無力な手では帳消しにはできません。しかし、機転を効かせて窮地を脱したのは、運ばかりではありません。お嬢様のお人柄、そのものの結果が出たのだと、わたくしは思います」
「……。ふふ、人柄なんて、ちっとも良くないよ。私も昔は、カレン様みたいな部分があったから、今回のことで彼女が少しでも丸くなってくれることを祈るよ」
「ええ? お嬢様には十年以上お仕えしておりますが、カレン様のような横暴さは、一度だってお見受けしたことがございません」
傷心中の人間を演じて、テーブルクロスを引き倒して他人のドレスを汚すような女性と同じだなんて、たとえお嬢様でも口にして良い冗談と悪い冗談がございます!
わたくしの怒気が伝わってしまったのでしょうか、お嬢様が困ったような笑顔でした。
「ふふふ、ちょっと難しい話だったわね。それじゃ、着替えましょうか。濡れたスカートが冷たくなってきたわ」
「かしこまりました。温かいお茶も用意させます」
もちろん、お茶の支度はマリアンヌさんにお願いしましょう。彼女を育てるのは苦労の連続でしたもの、その成果をお嬢様にご覧になって頂きたいのです。本格的な採用の際の、ご参考にもなるかと思います。
お嬢様が歩きだしました。このままお屋敷まで歩みを進めるのかと思いきや、くるりと
「着替え終わるまで、少しだけ待っていてくれると嬉しいわ〜!」
何もいない森の木々に向かってお話するそのお姿は、普段見慣れないピンクのお召し物も相まって、なんとも不思議な光景に見えました。ですが、お嬢様の選ぶ道に無意味な事など存在しません。
「お嬢様、そちらに何かいらっしゃるのですか?」
「森のお友達に、お菓子をあげる約束をしたの。カレン様の大声で、怖がらせてしまったから」
「ああ、鳥が飛び立っておりましたね……」
窓辺に訪れる小鳥たちに、お嬢様がお菓子を砕いて撒いているのを、朝の走り込みの際に見かけることがありました。
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