第22話 事態は深刻
扉がドコドコとドラムロールされ、わたくしは心身ともに青筋が立つのを感じながら寝台を下りました。冬よりはマシの冷たい床に、裸足をつけて、眠くて閉じてしまいそうな目をこすりながら、扉の前に立ちました。
「どなたですか?」
「トリシアさ〜ん! 起きてください、トリシアさ〜ん!」
「起きてますよ。皆様お休みなのですから、声を抑えてください、マリアンヌさん」
真夜中のトイレに同行してくれと泣きつかれたのは、人生で初めてです。大勢に監禁されかけたことが、よほど怖かったのでしょうか。
仕方なく、ついて行きましたとも。室内用の靴を履いて、ろうそくの乗った燭台を片手に。
「はぁ〜、すっきりした! トリシアさん、ついて来てくれてありがとうございました! 朝ご飯すっごくすっごく、楽しみにしてますからね!」
「もう真夜中ですから、静かにしてください。それと、あなたには数日後、ここを去ってもらいます」
「ええ!? なんでですか?」
「お嬢様へのご依頼料金、あなたに支払える当てがあるのですか?」
マリアンヌさんの呆然としているお顔の、目鼻の陰影が、ろうそくに照らされて不気味に揺れています。
「依頼、料金……? なんでそんなのが必要なんですか? カレン様が困ってるんですよ? だから助けてくれてるんでしょ?」
この場合は自己中心的と言うよりも、カレン様中心的……。無理もないのでしょう。サロンやお屋敷では、全てがカレン様を北極星にして回っていたのでしょうから、そんな世界しか知らずに育ったのなら、カレン様の一大事に周囲が無償で働くのはマリアンヌさんにとって当たり前のことなんでしょうね。
「お嬢様が動いたのは、カレン様のためではありません。デイドリーム家に厄介事が舞い込んできたからです。今現在も、とても放置できる状況ではありません。その解決に、お嬢様が全力を上げているだけなのです」
「トリシアさんは、カレン様のこと、嫌いなんですかぁ?」
「はい、お嬢様を追いかけ回したお人ですから。身分が対等ならば、わたくしが蹴り飛ばして差し上げたでしょう」
「蹴っ!?」
「もうすぐお嬢様が、全てを審判なさいます。そうなれば、あなたは依頼人でもなんでもありませんし、支払いも用意していないのでしょう? では、このお屋敷に置いておく理由は残っていません。新しい職場を、一緒に探してあげますから、今日はもう寝なさ――」
「キャアアアア!!」
「大騒ぎしない!」
「だって、だって〜!! カレン様のこと嫌いって言った〜!! 蹴るって言った〜!!」
「ちょっとそこに座りなさい」
ぴょんぴょん跳ねて大騒ぎする彼女の肩を片手でガシッと掴んで、無理やり床に座らせておとなしくさせました。だんだんと落ち着いてきた頃を見計らって、肩から手を離しました。
わたくしも、そばに座ります。
「あなたのこと、ほんの少しですが理解しているつもりです。ご自分が今抱いている欲求を大声で周りに伝え、欲求そのままに動いたり、人を頼ったり、泣いたり、喚いたり……そうするようにカレン様から、お願いされてきたのでしょう?」
マリアンヌさんが、きょとーんとした顔でわたくしを見上げていました。ろうそくの灯りが彼女の大きな両目に照らし出されて、心底不思議そうにわたくしを観察する様子が、まるで何もわからないままの子犬のように思えました。
「はい、あたし、お願いされました。その通りにしたら、みんな笑ってくれましたし、カレン様も喜んでくださいました。それで、あたし、もっと喜んでほしくって、いっぱい泣いて笑って、嫌なことは嫌だって全力で拒否して、カレン様を振った殿下にも、めいっぱい抗議したんです。きっとまた、カレン様もみんなも笑顔になってくれるって、信じて……たのに……」
声が震えだしたと気づいたときには、彼女は顔を覆って泣いていました。情緒の落差が激し過ぎです。
「マリアンヌさん、これからはどんなに偉い人からお願いされても、あなたの周りの人たちを真似て行動してください。そうすれば、いつかあなたなりに加減というものが理解できます」
「どういうことですかぁ?」
「がんばってくださいませ。いつか理解できるその日まで。では、おやすみなさい」
「あたしお腹すきましたぁ!」
「おやすみなさい! 勝手に厨房に入ってもダメですからね!」
「え〜!!?」
駄々をこねる彼女を客間の扉の中に押し込めるまでに、かなりの時間を有しました。
あ〜もう、ほんっと疲れました。
早く寝ませんと。明日も早いのですから。
朝方に仕事仲間から、夜中の騒音の苦情が出た際には、めいっぱいマリアンヌさんのせいにしてやりましょう、本当のことですし。
……お嬢様まで、起こしてはいない、ですよね……?
お優しい人ですもの、うるさくて目が覚めてしまっても、何もおっしゃらないかもしれません。しかし、それに甘んじてしまうのは従者の名折れ。ここは、お嬢様の寝室にそっと近づいて、起きているかだけでも、確認しなければ。もしも、ご起床になっているのならば、温かい飲み物、たとえばホットミルクでも、ご提案してみましょう。わたくしの抱いた罪悪感は、その程度では消えそうにありませんが。
片手にした燭台のろうそくが、思ったよりも短くなっていることに気が付きました。それと同時に、ダリアお嬢様のお父様である、ハロルド伯爵の姿が頭に浮かびます。
人里離れたこの森の中で、我々が生活してゆくためには、旦那様からの支援が必要不可欠です。ときおり、物資を多量に詰め込まれた馬車が走ってきては、この屋敷を物で満たしていきます。華美な包装などはされていませんが、中身はどれも質が良くて、それを手にして棚や備蓄庫にしまうたびに、これは本当に旦那様が指示して用意した物なんでしょうかと、疑問に思ってきました。
旦那様は、お嬢様を本気で疎んでいらっしゃるのでしょうか。たまにこの屋敷の応接間にいらっしゃいますが、ダリアお嬢様とお過ごしになる時間は妙に大人びていて、社交辞令のような、もっと悪くたとえるならば、お嬢様は彼に対しても、一度も子供らしい側面を見せないのでした。それでも、お二人が声を荒げたり、いがみあっている姿を見たことはありません。大人同士の友人同士、そのようなご関係に見えるのは、良くないことなのでしょうか、わたくしの気にしすぎなのでしょうか。
このろうそくも、長い物が備蓄庫にあります。新しく取り替えなくては、窓の少ないこの屋敷では月明かりすら味方してくれません。
暗い廊下を、心許ない範囲のみ照らしながら進んでいくと、前方に、大きく揺らめく力強い灯火が見えてきました。真新しいろうそくを刺した手燭を掲げて、ご家族の肖像画を眺めるあの横顔は、
「お嬢様……」
つんと尖らせた唇の先が、炎に照らされてくっきりと目立ちます。お嬢様の目鼻立ちはとても際立っていて、微動だにされないと等身大のお人形のようにも見えます。
わたくしの声に、お嬢様の口角が上がります。
「ふふふ、真夜中でも元気な子ね」
「起こしてしまいましたか?」
「いいえ。ここでずっと考え事してたから、寝ていなかったわ」
アンティークグリーンの双眸が、ゆっくりとまばたきしながら、わたくしを見つめました。その顔には笑みが浮かび、昼間の現実離れした喧噪も、真夜中の大騒ぎも、全て遠い過去のような錯覚さえ覚えます。
「あの子のこと、これからどうしましょうね」
「外部から植え付けられた非常識ならば、まだ間に合います。マリアンヌさんを辛抱強く更正してくれる職場を、見つけて差し上げなくては」
「初めて会ったあなたも、家事など一切できなくて、周囲を戸惑わせてばかりいたわね」
「そ、そうですか? 彼女よりはマシだったと思いますが」
「ふふ、そうね、まだあなたのほうがマシだったわね」
優しく見守る聖母のように微笑んでいらっしゃいますが、内心では絶対にからかっていらっしゃるのが、よくわかります。このお屋敷に雇われてばかりの頃は、手の洗い方すらよくわかっていませんでしたから。
恥ずかしい過去から目を背けるついでに、壁に掛けられた巨大な額縁の中へと、手燭を向けました。
「ご家族の、肖像画ですね」
男性は、とても勇ましく。女性はとても穏やかで儚げに描かれています。画家に何度も描き直させたのでしょう。もはや原型を留めておりません。
「気の毒な、ベンジャミンお兄様」
お嬢様がため息をつく音が、静かな廊下に響いて聞こえました。
「ねえトリー、デイドリーム家は今、カレン様の手によってとても深刻な事態に陥っているわ。このままでは、我が家が潰されてしまう」
「……そこまで恐ろしい状況なのですか? わたくしには、何が起きているのやら、さっぱり……」
「カレン様はお兄様を愛していないわ。それどころか、都合の良い隠れ蓑よりももっどひどい扱いをしています。お兄様には申し訳ないけれど、人生初の大失恋を覚悟してもらいましょう。トリー、段取りがまとまり次第、あなたに説明しますわ」
「どんな事でも、我々デイドリーム家の使用人は総力を上げてお支えいたします、お嬢様」
お嬢様の浮かべた表情は、少しだけ困っていて、けれども嬉しそうにも見えました。
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