第9話 ダリアお嬢様の特異な能力
さて、用事が済みましたら、速やかに帰路に就かなくてはなりません。なにせダリア様のお屋敷は、人手が足りないのですから。おまけにメイド長が長期不在とあっては、部下に示しが付きませんし、彼らだけでは片付かない問題もすぐに山と積もっていきます。今頃どのようなごたごたが起こっているやら。
あらかた屋敷の新人たちには仕事を教えていますから、なんとかやっていると信じたいところですが、早く帰るに越したことはございません。
「あら、こんなところにブラシが寝転んで」
お嬢様が、おじいさんの足下に転がる馬用のブラシを、ひょいと両手でお拾いに。これにおじいさんが驚きます。
「ああ、ダリアさん、それは古いですので。馬の毛も引っかかっていて、汚れていますから。どうか私に。お預かりいたします」
おじいさんが不器用に、ブラシを受け取ろうと両手をお嬢様へ差し出しました。ごつごつしていて、傷跡の多い手でした。
お嬢様はニヤリと口角をあげると、その手にブラシを、大事にしっかりと両手で手渡しました。
『ある者は 子供を乗せ
ある者は 薪を積み
ある者は 花嫁を運び
ある者は 剣携える騎士へ献上いたしました』
「ん?」
『争いの 絶えぬ朝
彼らは知性ある財産であり
足であり 兵器でした
今 再び 平和訪れて
彼らを 友と呼ぶ朝に 生涯をかける このひとときを
幸福に感じております』
おじいさんはしみじみと目を閉じて、ブラシを胸にしっかりと
「まさしく今の私と、馬のことですな。文学に関しては疎いですが、なんとも良い詩です」
「確かに古いブラシですけれど、人の手の曲線によく馴染む形に削ってありましたわ。これなら長時間片手にしていても、疲れにくそう。それにブラシの毛も新しく取り替えられるように、各部品を外せるようにお作りになったのね」
「自慢の一品です。若い頃から、馬具を集めたり作ったりするのが好きでしてな」
お嬢様と牧場主のご老人が、朗らかに言葉を交わしています。帰宅時間を気にするのは、もう少し先にしましょうか。
わたくしは先の戦争のことは、書物でしか存じません。彼の経歴も、その誉れも、全て人づてに耳にしただけです。彼は馬が好きだったのでしょう、そして、多くの馬の戦死を目撃したのでしょう。それらを己の罪と責め、今ここに隠れて名馬を育てているのでしょうか。
深入りは、いたしません。わたくしは雇われの、一メイドですので。
我々は馬車でお屋敷へと戻ってまいりました。はい、約束をすっぽかされたマシュマロ大作家先生は、出直す伝言を、留守番に預けておいてくださいました。聞き分けの良い人で助かります。そもそも、この程度でごねるお客人ならば、お嬢様もネタの提供などなさらなかったでしょう。向こうからネタをくれと泣きついてきたのですし。
お嬢様の部屋で、緑のケープの紐をほどき、洗濯に出すために畳んでいると、
「たくさんの有力な情報が、得られましたわね」
鏡台の前に座るお嬢様の、鏡の中のお顔が口角を上げていらっしゃいました。わたくしはマリアンヌさんもこの部屋へ呼ぶようにと、お嬢様から命令を受け、誠に不本意ながら、未だ身元をはっきり証明できる物が一切ない当人を呼んでまいりました。
「はーい! なんでしょうか!」
「侯爵家が治める領地は、ここからとても遠くて、移動用に駿馬を得たとしても、かなりの遠出になる覚悟をする必要がありましたわ。しかし今、カレン様はお心の傷を癒すために、我がデイドリーム家の領地でご養生なさっているんですってね」
「あ、はい。そうなんです」
返事をするマリアンヌさんには、牧場主に届いた旦那様の手紙を読ませてはおりません。わたくしとお嬢様だけが、黙読したのです。にも関わらず、手紙の内容をあっさり真実だと認めたマリアンヌさんの、身元が少しだけ明らかになりました。
彼女は本当に、療養中のカレン様のそばに仕えていたのです。すぐ最近まで。
「マリアンヌちゃんは、カレン様の養生先から馬車を一台、勝手に借りて、お父様のもとを訪ねて来ましたのね?」
「あ、はい! そうなんです。カレン様からクビ宣言を受けてしまって以来、あたし頭に血が上っちゃって、本当はすぐにお屋敷を出なきゃならなかったんですけど、養生先まで、こっそり付いて行きまして……」
ええ!? クビになったことを恨んで、主人につきまとっていたのですか???
「それで、やっぱりバレちゃいまして、それで、そのままカレン様と口論になって、外に飛び出しちゃって……。ずっとあの馬車さんには、お世話になっていました」
ああ、馬車から来たと繰り返していたのは、旦那様のお屋敷にも、お嬢様のお屋敷にも、馬車で来たという意味だったのですか。
って、あんな表現でわかりますか! マリアンヌさんって頭かなり悪いのでは?
それに、
「でも〜、お馬のおじいさんのもとにハロルド様からの手紙が来たのは、三日前って話でしたよね? あれ? 二日前だっけ? ……まあいいや。カレン様はとっても忙しいですから、もう自分の領地に移動してるかも」
「あら、行ってみないことには、わからなくてよ。ところで、マリアンヌちゃんはカレン様にお会いしたい?」
「……」
先ほどまでダリアお嬢様に被るほど勢いよくしゃべっていた娘が、口をつぐんで、だんまりしました。てっきり、お会いしたいと即答するものだと思っていましたので、少し意外に感じました。
「そう、じゃあ無理強いはしませんわ。私はねマリアンヌちゃん、お父様がカレン様にどのような態度で接しているのかが気がかりですから、こっそりお会いしようと思ってますの。カレン様のお心の傷が、ますます悪化していたら、大変ですものね?」
「あの、あたし、ハロルド様みたいなステキな人が、カレン様にひどいことをするとは、思えないんですけど……」
「
「あああああのあのあのあの! あたしも一緒に連れてってください! なんだかカレン様がすっごくすっごく心配になってきましたー!」
聞き分けの良い人で助かります。優柔不断で
ダリアお嬢様が、ほっとしたように肩をすくめました。
「よかった。マリアンヌちゃんがいてくれたほうが、いろいろと動きやすいと思ってたから」
「へえ?」
「カレン様と、次期大公殿下、どちらも私は肖像画でしかお姿を拝見していませんの。お父様のお屋敷に、飾ってあります」
「あ、そっか、ダリアさんは軟禁されてますもんね〜」
な、なんですか! その馴れ馴れしい態度は。
「マリアンヌさん! お屋敷の中では、お嬢様のことは様付けでお呼びしなさい!」
「あ、はい! トリシア様!」
「わたくしに対してではありません、ダリアお嬢様にです」
「あ、ごめんなさい! ダリア様!」
なぜわたくしに向かって頭を下げるんですか。彼女はパニックを起こすと、右も左もわからなくなる傾向があるようです。
「そう言うわけで、マリアンヌちゃん、私がカレン様にお会いするときは、周りで働く人のお名前や、彼らがどんな感じの人なのかを、随時紹介していただけると助かるわ」
「はい! お任せくださいダリア様!」
頼りにされたのが、よほど嬉しかったのか、マリアンヌさんの声がキンキンに高くなっていて耳が痛いです。はたして彼女にカレン様の身の回りの紹介を頼んで、大丈夫なんでしょうか。長らく共に働いていた同僚の名前すらも、間違えて覚えていそうです。
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