第一章 ダリアとメイドのトリー
第1話 わたくしのお嬢様は
大きな満月の下、ダリアお嬢様に初めてお会いしたあの日、その深い色彩の双眸に映りこむ清廉な輝きを、異様にまぶしく感じたのを、今でも覚えております。あれは……月光だけでは到底生み出すことのできない、奇跡だったのだと思います。
その輝きに、そのたおやかな御手に、導かれて見上げた先には、このお屋敷がございました。星の形のニオイスミレに囲まれた、夢のように愛らしい、まるでドールハウスのような。
優しく降り注ぐ窓々からの明かりが、真夜中のみを味方とするこの身に痛く染みわたり、ああわたくしは選ばれ、受け入れられ、そして必要とされているのだと喜び、涙いたしました。
あの日に頂いた御言葉は、きっと生涯忘れることはないと自負しております。
あれから十余年、わたくしことトリシア・ナイトウォークは、お屋敷とお嬢様の御心を整えるメイドとして、日々忙殺されております。なにせどこかの優秀なメイド風情が、お嬢様の才能を高く高く評価するに終わらず、お嬢様へ仕事の斡旋に奔走しているのですから。
まあ、好きでやってるんですけどね。
そんなわけで、お嬢様が担当されているお仕事と、その日程の管理は、全てわたくし持ちとなっております。これから訪れるお客人も全て把握済み。今日は御日柄もよく、絶好のお洗濯日和ですね。
いくら人目の少ない森の奥といえども、物干し竿にそのまま干すなんて無粋かつ無防備なことはいたしません。あまり広くはなくとも、わたくしども女性の使用人が丁寧に作った中庭に、しっかりと目隠したる蔓薔薇を柵状に成長させ、お嬢様専用の衣装や下着類を、お日様の下で干しています。
え? 二階から見下ろせば、丸見え? ご心配なく。蔓薔薇と柵で天井もしっかりこさえております。繊細なお衣装には、日焼けによる黄ばみや色落ちが大敵ですので。
「メイド長!」
中庭へと続く戸口のベルが鳴り響き、小さな双眼鏡を片手に部下が走ってきました。なにぶん人手不足ですので、どんなに仕事上の地位が上がっても、屋敷の全員で家事をこなさないと終わらないのです。
「どうかしました?」
「森の入り口から馬車が一台、向かってきております」
彼女の袖口は濡れていました。食器洗いしながら、見張りも兼ねていたようです。せめてあともう一人、人手があれば、見張りが家事の片手間に双眼鏡をのぞきこむなんて忙しない事態が、防げるのですが。
「おかしいですね、今日の来客はあと二時間は先ですのに。どのような特徴の馬車ですか? 場合によっては迎撃します」
「馬の
なんと言うこと。お嬢様になんの連絡もなしに、あの御方は……。
本当にお嬢様の、お父上なのでしょうか。あの御方はお嬢様の軟禁生活を、未だに解かれておりません。
「そうですか、旦那様の馬車が……これは慎重に、かつ丁重におもてなしをせねばなりません。旦那様の好みは把握していますね?」
「はい。茶葉とお菓子は、いつでもお出しできます」
「よろしい。では持ち場に戻ってください。玄関先でのお出迎えは、わたくしが承ります」
旦那様関係のご用事は、いつもぴりりと空気が張りつめ、緊張いたします。
お嬢様に来賓の報告をいたしますのも、わたくしの役目。何度経験しても、この心苦しさには慣れません。
お嬢様が激しくお怒りになるお姿は、誰も一度も目撃しておりません。いつもどこか遠い先を見通しているかのような、余裕と気品を備えた淑女なのです。ときおり寂しげな目を空へと向けている横顔をお見かけすることはございますが、慌てた素振りも、泣いたお顔も、誰にもお見せになったことはございません。
いいえ、これからもそんなお顔は、絶対にお嬢様にはさせません。
意を決して、目の前の扉へと向き合います。暖かみのあるベージュ色の木材にニスを塗られた艶やかなこの扉の奥で、きっとお嬢様も窓辺に腰掛け、物憂げに外の景色をご覧になっているのでしょう。
「ダリアお嬢様、メイド長のトリシアです。今、お時間よろしいでしょうか」
……お声掛けしても、しばらく待たされるのは、いつものことなのですが、今回はわりとすぐに部屋奥から可憐な笑い声が。よかった、お元気そうですね。
「トリーはいつもいつも、真面目に自己紹介してくれますのね」
いつまでも幼く純粋な少女と聴き紛う、この独特な声色は、ある種の才能だと思われます。
「べつに名乗らなくたって、あなたの声を聞けば誰だかわかりますのに」
「いいえ。お嬢様を前にして、くだけた態度は取れません。皆に示しがつきません故」
「ふふ、わかったわ、それでいいよ〜、じゃなかった、それでよろしくってよ」
お嬢様は、窓の景色をご確認されていないのでしょうか。それとも、ハロルド様を乗せた馬車は、引き返されてしまわれたのでしょうか。
「失礼いたします、ダリアお嬢様」
金縁の付いたドアノブに手をのばし、指をかけ、そっと回します。
お嬢様の私物や家屋全てを、お嬢様そのものとして扱っております故、どんなに焦っていても、粗雑にはいたしません。
押し開けた扉の先には、柔らかな花の香りが広がり、レース飾りが付いた桃色の椅子に腰掛けるダリアお嬢様の姿がありました。いくらお手入れして差し上げても、ボリューム溢れるブラウンシュガー色の毛髪はふっくらと波打っていて、わたくしの立ち位置ですとお嬢様の鼻先とツンととがった唇の先しか見えません。緑色のベロア生地のドレスには雪のようなレースがたっぷりと縫い込まれていて、スカートの下から伸びるスラリとした両足は丁寧に踵をそろえて、緑色のロウヒールに包まれております。
ちょうどお茶を楽しまれている最中だったようで、ミニテーブルの上にはお嬢様のお気に入りのカップとソーサーがありました。そのすぐ横では、細かな花の編み目が特徴的なカーテンが風になびき、窓からはバルコニーと、近づいてくる白い馬車が見えました。
お屋敷で働くようになって、まだ日の浅かったある日のこと、お嬢様の気の毒なお立場を、わたくしは知ることとなりました。由緒ある伯爵家の七女として生を受けて間もなく、不便極まりないこの森の奥地へと追放され、わずかな使用人たちと静かに日々をお過ごしになっていると、当時のメイド長からうかがったときの衝撃は、なかなか薄らぐことがありませんでした。
このままでは、その才と美貌をもてあますだけの日々……そんなの、あまりにももったいなく思いました。
だってダリアお嬢様には……素晴らしい才能がおありなのですから。
お嬢様は物憂げにミニテーブルの茶器に、視線を落としました。
「忙しいあなたがここへ来たのは、窓から見えるこの
窓枠を額縁に見立てて、お嬢様の絵画鑑賞はいつも青空と森の中。今日は一点の異物が描かれており、それは現実味を帯びながら蹄鉄の音を大きくしていきました。
少しその音を妙に感じたのは、お嬢様も同じだったようです。馬の足音と車輪の回転音が、いつもより軽いのです。旦那様は私物の多い御方で、馬と馬車をいじめることに長けているはず、それなのに今日は。
「お父様ではありませんのね」
「確認して参ります。お嬢様はどうか、このままお部屋で」
「私に用があるお客様なら、私が直々にお相手するわ。うちの馬車を借りてまでいらっしゃったのだもの、どんな用件なのか気になりますわ」
そう言って振り向いたお嬢様は、骨董品の中に混ざる緑色の小瓶のような輝きを放つ双眸をにっこりと細めて、微笑んでいらっしゃいました。
ですが、やはり、得体の知れない来客といきなりご対面していただくわけにはまいりません。その旨をよーくご説明し、何とかお嬢様を説き伏せて、お部屋で待機していただくことに成功しました。
やはり優秀さでわたくしの右に出る者は、いないようです。
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