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041. そういう奴ほど怒ると怖い
増田隆は怒らない。
待ち合わせで四時間ほど待たされた時も、渾身の出来だと喜んでいた美術の課題にバケツの水がかかってしまった時も、友人の一人に手酷く裏切られた時も、残念そうに眉尻を下げて「仕方ないね」と一言で終えてしまった。
何をされても怒らないので、周囲からは菩薩の増田なんて大層なあだ名で呼ばれている。あんまり怒らないので、増田と親しい何人かが代わりに怒るほどである。もちろん、あまりにも怒らなさすぎる増田に対しても、「もっと怒れ」と怒っている。
高木はひくついた眉を堪えるのに懸命だった。目の前の増田の顔が、いつもの残念そうな顔ではなくて、何か、奇妙な感じに歪んでいる。高木は増田のそんな姿を初めて見た。ぐっと唇を噛みしめて、眉根を寄せている。顰め面というのが正しいかもしれない、実際、高木が増田の状況だったなら、顰め面どころではなく絶叫していたかもしれない。
「……それ、大丈夫?」
何とか口を歪めながら問いかけると、増田は低い声で「大丈夫に見えるか?」と問うた。高木は大人しく首を振る。とてもではないが、大丈夫ではない。
しょろしょろという水音は漸く止まったところだった。「あらぁごめんなさいねえ」という、朗らかな声が聞こえる。何言ってんだこいつ、とは、高木も増田も同時に思ったことだろう。
せっかく天気がいいので、と、一緒にランニングをしていた。
目的地であった自然公園までたどり着いたため、自販機で水を買って小休憩をしていたのだ。この後は折り返しつつ近くのスーパー銭湯で汗を流す予定だった。増田の家の近所にできたスーパー銭湯は、新しくてきれいだし、設備が充実していて暇つぶしに丁度良い。
それで、談笑しながらのんびり木陰で水分補給をしていたのだが。
その女生がいつの間にやってきたのかは知らなかった。人間ではない、てってっという足音が聞こえていたので、犬の散歩をしている人が近くにいる、という意識はあった。増田もその程度の意識だったと思う。
気にしていなかった増田が、突然「うわっ」と悲鳴を上げたのは。その女性の連れていた犬が、増田の片足に向けておしっこをかけ始めたからだった。
当然、飛びのく増田。なぜか中断してまで追いかける犬。止もせず朗らかに「あらあら」なんて笑う女性。状況がわからず呆然とする高木。
この状況を観察していた誰かがいたなら、非常にシュールな光景だっただろう。謝罪とは到底言えない女性の言葉に、増田の眉がひくついた。
「失礼ですが」
高木は固唾を飲んで増田の様子を見守る。あの菩薩の増田が、聞いたこともない、硬く、怖い声を出している。増田の様子に気づいた女性が、不思議そうな顔で増田の事を見つめ返した。
「おたくの犬が俺に何をしたか、見てましたよね?」
女性の顔が引きつる。え、ええ、とは、震えた声だった。
(20220627/00:30-00:45/お題:絶望的な尿)
どうやっても追いかけてくる犬から逃れるのを諦め、甘んじて犬のおしっこを受けた増田が、引き攣った笑みを浮かべている。満足そうに増田の周囲をぐるぐる回る犬については、屈みこんで優しい手つきでさわさわと撫でてやった。犬には怒っていないらしい。
それにしたって、普通であれば悲鳴を上げて激怒するところ、だと思うのだが。犬に怒鳴りつける人だっているかもしれない。高木は急に乾いた喉をごくりと鳴らした。
「う、うちのメリーちゃん、あなたの事が随分気に入ったみたいだったから……ご、ごめんなさいね?」
「それだけですか?」
なおも、女性はとんちんかんな謝罪を言う。増田の顔が一層深みを増したようだった。単純に、怖い。ギリギリ笑みと呼べる程度の顔面で、瞳は全く笑っていない。気配が重くて、女性がぶるぶると震えはじめた。
「俺だからよかったものを。他の人だったら、こうはいかないですよね?」
言いながら、増田は自分におしっこをかけた犬を優しい手つきで抱え上げた。ひっと女性が悲鳴を上げる。メリーちゃん、とは悲鳴じみた声だった。悲鳴を上げるべきは増田の方だろう、と、高木は思ったが、そんなことを考えないと自分も恐ろしくて震えてしまいそうだ。
「この子、蹴られてたかもしれませんし。放り投げられてたかも。怒鳴られるだけだって、この子からしたら恐ろしいですよね?」
「あっ……」
怒るところはそこなのか? とも、高木は思った。おしっこをことそのものにはあまり怒っていないらしい。どちらかと言えば、それを悪いと思っていない、女性について怒っている。
(まあ、そりゃあそうだろうけど)
女性の前に犬を差し出した増田が、「弁償も謝罪も必要ありません」ときっぱりと言い放つ。とうとう笑みすら消した増田の顔は、形容しがたいほど壮絶なものになっていた。高木はうっかり直視してしまって、慌てて視線を逸らす。怒り狂った神がいるならきっとあんな顔だろう、と思う。鬼や悪魔の方がわかりやすく恐ろしくてマシだったかもしれない。増田は丁寧な物腰を崩さなかった。
「この子、あなたなんかに飼われていて、本当に可哀そうな犬ですね」
ただ、一言。
それだけを告げて犬を手渡す。女性は何も言えないまま犬を受け取ると、呆然と立ち尽くしたまま。「高木、悪いけど」とこちらを向いた増田に、高木は「いやいや」と首を振った。
「さっさと行こう、洗っちまわないと、気持ち悪いだろ」
公園内の水場を差して提案する。どうせ銭湯で着替えるが、とりあえずは水洗いしてしまった方がいいだろう。流れるものとも思えないが、ないよりはましである。
「洗ってる間にとりあえずの着替えを買ってきてやる。Lサイズ?」
問えば増田は頷いた。それから「ありがとう」とふにゃりと笑ったその顔は、もう先ほどの恐ろしい面影を消し去っていて。
(こっっっえー……)
高木はむしろ、引き攣る顔を誤魔化すのに必死だった。増田はもう怒っていないらしい、いや、怒っているかも知れないが。
「……お前、ちゃんと怒れたんだな」
ぼそりと呟いた声は水音でかき消された。増田はいつもの残念そうな顔をして、「気に入ってたシューズだったんだけどなあ」と、そんなことを宣った。
(前言撤回、やっぱこいつ怒ってねえ!)
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