040. そんなら僕と、恋愛しますか

「駄目だ無理だ書けないならいっそ死のう」

「まてまてまてまて」

 憂鬱な顔で俯いたのはボブヘアの女性でありました。

 小さな体を一層縮こませている彼女は、ただでさえ白い顔から血の気を消して、今にも震えだしそうです。耐え切れず顔を覆った掌は、顔と同じくらい小さく子供の様でありましたが、その指がいくつもいくつも重なってできたペンダコで節くれだっているのを、研二はよくよく知っているのでした。

「多恵ちゃん、何がそんなにダメなんだ」

 この場には研二の他に三人の男女がおりました。

 先ほどから震えるばかりで鬱々とした言葉を吐く多恵と、その多恵をなだめるように背中を摩る、リン。リンは長い黒髪を首のあたりで一つにまとめて、申し訳なさそうに研二の事を見つめます。

「研さん、そんな気にしなくていいのよ、多恵ったら、いつもの事なんだから」

 そうだぜ、と同意するのが、研二の隣に座る長身の男、豊でありました。豊は長身を誤魔化すようにくるりと丸めた背中のまま、研二の方を向き直り、「うまい飯くえりゃ多恵ちゃんも元気んなるさ」と適当なことを言います。

「そうは言ったって、放っておくわけにもいかんだろう」

「うう……私は本当に皆さんに迷惑ばっかりかけて……やっぱり駄目だ……もう無理なんだ……」

 とうとうさめざめと泣き始めた多恵を困った様子で、リンが「ああ、もう」と苦笑の息を溢します。

 兎に角、と、研二は広げられた原稿の一枚を手にしました。

「どこで詰まってるんだい。教えてくれよ、いつものように、皆で意見を出しゃあいいだろう」

 それで、おそるおそる、多恵の顔が上がりました。


 男女四人が暮らしているのは、古い民家でした。

 駆け出しの漫画家たちが集まって暮らし、皆有名になっていったように、この家には駆けだしの小説家が互いに切磋琢磨して暮らしています。

 四人とも、実力でいえば五分でしょうか、とれた新人賞の数も同じ。その新人賞の知名度も同じ。売れた本の数も大体同じ。今は全員、辛うじて担当編集がついている状態でしたが、決して人気作家ではないために、互いに研鑽し合うことで不安を拭っていたのでした。

 どこが詰まってるんだい、と問うた研二に、多恵は恐る恐る途切れた一文を示しました。

 多恵の得意とするのは男女の恋愛話で、女性視点で描かれる繊細な文章は、それなりの女性読者を虜にしているようです。研二の得意とする、歴史小説とは毛色が全く違うので、役に立つことはあまりないのですが、それでも多恵が文章に行き詰まり死を吐き出す度、研二は根気強くその理由を問うのでした。

「主人公のマリが、相手役のユウイチの裏切りに耐え忍ぶ、気持ちがよくわからなくて……」

 多恵は度々、自分で作った話の道筋ながら、感情に入れないのだと嘆きます。リンが困ったように「多恵はほんとに、なんで恋愛小説を書いてるんだか」と苦笑しました。

「だって、しょうがないじゃない。恋愛したことないんだもの」

 それで、多恵が返事をするのはいつも決まった文句でした。


(20220627/00:30-00:45/お題:情熱的な小説家たち)


 ふむ、と、研二は考えます。

 多恵が言い訳のように「恋愛したことないんだもの」と言うのは、いつものことでありました。実際、多恵のような小柄で可愛らしい女性は、どこへ行っても男性の目を惹くだろうと思うのですが、多恵のこれまでの環境などを考えると、そういうわけでもないようでした。

 研二たち四人は、同じ出版社でデビューをした、という縁で繋がった関係です。付き合いは今年で五年ほどになりますが、幼少期から知っているような間柄ではありません。大まかに互いの経歴を聞いてはいるものの、踏み込んで話す者は誰もおらず、聞こうともしなかったのです。

 それでも、多恵だけは違いました。というのも、二年ほど前、多恵の育ての親だという女性が、多恵を連れ戻しに来たことがあったからです。今は和解をし、多恵は自由になっていますが、当時多恵は奉公先から脱走してきたような状態で、いつ連れ戻されてもおかしくなかったのです。

(まあ、確かに多恵ちゃんは、恋愛なんぞにうつつを抜かしていられる環境じゃなかっただろうしなぁ)

 ただ、男女のあれやこれやといった噂話だけは、奉公先でよく耳にして、書き留めていたらしく。多恵は恋愛経験でなしに、そうして見聞きした話をもとに、新たな話を創作しているのでした。

「よし、そんなら」

 それで、ふと、研二は思いつきます。声を上げると、多恵も、リンも、豊も研二の方を向きました。

「恋愛してみりゃぁいい」

 研二は多恵の示した途切れた一文をなぞりながら、わかんないなら経験してみりゃあいい、と断言します。驚いたように、リンが「研さん、」と声を漏らします。

「あんた、それって……」

 心なし、リンの顔が僅かに赤くなったようでした。研二はそれで、自分がなんてことを言ったのかと気が付きました。

(これじゃ、まるで、告白しているみたいだ)

 実際、研二は多恵に淡い恋心を抱いて――いるわけではありませんでしたが、少し気になる女性であることは確かでした。同じく一緒に暮らすリンと並べて、リンよりもなお、多恵の事を気にかけてしまう自分がいるのです。勿論、そのような差は出ぬように、いつだって最新の注意を払っていましたが。

「はっはっはっは、こりゃぁいい」

 唐突に笑い出した豊が、ぽん、と研二の背中を叩きます。大して多恵は、驚きに固まったまま、研二の顔をまじまじと見つめ返しておりました。

 研二は少しばかり後悔しながら――後先考えずに、思ったことをぽろりと口にしてしまったことを――それでもなお、言ってしまったからには、と腹を括ります。にやにやと笑ったままの豊も、どことなく期待の眼差しを向けるリンも、今は思考の外へと追いやりました。

 多恵だけを、見つめます。多恵の頬が僅かに赤く色づきました。先ほどは死んだように青白かったのに、漸く少し、生気に満ちたような。

「……そんなら僕と、恋愛しますか?」

 もう一度、今度ははっきりと。

 問えば多恵の視線はうろうろと彷徨って、研二はその答えを、受賞連絡を待っていた時よりも緊張した面持ちで、待つばかりなのでした。

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