036. 酸っぱいスープ

 札幌市内といっても都会じみているのは駅のあるエリアくらいで、区が変われば平気で田畑が広がるし、山もあれば川もある。

 ごくごく限られた周辺でしか生活しないのなら、市電だのバスだのでどうにか移動できてしまうものだが、区を跨ぐとなるとそうもいかない。車の免許は必須だし、自家用車があればなおいい。

 親の車に乗るのは久しぶりだった。

 たまには帰って来なさいよ、と親からの連絡は度々受けていたものの、気軽に帰れる距離じゃなく聞き流すことが多かった。実家に泊まれば宿泊費は必要ないが、交通費だって馬鹿みたいに高いし、日帰りで行き来できる場所でもない。そう簡単に休める職場でもなくて、つい、帰省を疎かにしていた。

「随分変わったでしょ」

 助手席に座る母が言う。運転は父がしていた。道外に飛び出していった私は、形ばかりの免許証を持ってはいるが、運転経験なんて数えるほどしかなくて、家族内の運転はもっぱら父の仕事だった。黙り込んだ私に母は会話をするのを諦めたようで、その代わり、「あんた、結構懐いてたものね」と寂しそうな声を上げた。


 数年前に買い替えたらしい、軽自動車は少し窮屈だ。

 子供の頃はもう少し大きな車で、夏休みになるとこうして三人でドライブに出かけた。向かう先は決まって区の離れた祖母の家で、祖母の家で遊ぶこともあれば、祖母を連れてどこかに遠出することもあった。

 車が小さく感じるのは、きっと車の大きさのせいだけではないだろう。運転席に父、助手席に母。後部座席はいつも私と祖母が並んで座っていた。


(れんちゃん、手遊び歌知ってる?)

(ずっと座ってるの、退屈よねぇ、しりとりしようか)

(学校でもうそんなことまで勉強してるの。れんちゃんも大きくなったねぇ)


 ぐ、と目を瞑ると、いつかの日、祖母が柔らかな声で私に話しかけた言葉、ひとつひとつが耳に浮かぶようだった。

(電話、どれくらいしてなかったっけ)

 思い出せないな、と思って窓に体を傾ける。ぐんぐんと通り過ぎていく景色は、昔と変わらない道のりのはずなのに、どこか全然違う町のように思わせた。


 子供の頃、車に乗って祖母の家に向かうまで。

 夕飯の席に良く出されたスープの味を思い出して、しょっちゅう酸っぱい顔をしていたのを思い出す。

 私はあのスープが少し苦手で、でも母も父も(勿論祖母も)美味しそうに食べるものだから、いつも不思議に思っていた。「酸っぱいスープ」と言えば祖母は苦笑しながら、れんちゃんはちょっと苦手なのよね、と少しだけ量を少なく装ってくれる。スープは苦手だったが、祖母とのやり取りは好きだった。


 通り過ぎる町並みに、不意に口の中が酸っぱくなる。

 母が「お葬式は13時からだから」と事務的な言葉を述べた。式の後は親族だけで会食がある。私は「うん」と小さく答えた。


 あのスープは出る? と、問いかけそうになって止める。


(20220622/01:00-01:15/お題:ロシア式のババァ)


 祖母の血管が盛り上がった、薄い手のひらで装ってくれたスープ。具材は時々で違ったけれど、いつもキャベツが沢山入っていて、酸っぱい味がした。なんで酸っぱくしちゃうのか、問うた子供の私に、祖母は伝統料理なのよ、と優しく笑うだけだった。


 車が進む度、子供の思い出が取り残されていくような感覚だった。

 なんとなく見覚えのあるような、ないような、変わってしまったような、全く変わらないような。覚えていないだけかもしれない。あのスープを、祖母がなんと呼んでいたのか思い出せない。私の中では「酸っぱいスープ」でしかなかったから。

「もうすぐ着くぞ」

 父の声に居住まいを正した。

 だらしなく窓に靠れかかっていたので、黒いジャケットの襟が崩れてしまっていた。そっと直して、傍らの鞄を手に取る。

 その、位置に。


(もっと、帰って来ればよかったな……)


 祖母の座る幻影を見て、首を振った。この車でそんな思い出は存在しないのに。

 やがて車は祖母の家をするりと通り越し、見知らぬ道に進んでいく。私と同じく黒い服に身を包んだ母が、「そういえば」と助手席から顔を覗かせた。

「おばあちゃん、最期にあんたのこと、呼んでたのよ」

 そう、と、口から零れた言葉はそれだけで。

 ぐ、と手に力を入れる。私の顔を見て、母は何も言わずに前を向いた。

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