033. 水槽の中
水槽の中の魚は、然もそこが自由だと言わんばかりに揺蕩ていた。
水族館の巨大水槽に、人が群がっている。はしゃぐ子供となだめる親。肩を寄せ合って魚を眺める恋人たち。隣で手を繋ぐ男は、近くで見なくていいの? と私の背中をちょいと押した。
背の高い男の顔を見上げるのに、私はうんと首を傾けなければならなかった。薄暗い水族館で、男の顔は良く見えない。ただ笑っていると思しき口元が、もう一度、「近くに行っていいんだよ」と背中を押した。
繋いだ手を離すのに幾らか不安が残ることを、不快に思って顔を逸らす。言葉の通りに足を踏み出せば、男は寛容なフリをして、今度は強く私の背中を押し出した。弾き出されるようにして、私の足が二歩、三歩。
目の前の巨大水槽で、魚たちは自由気ままに泳いでいる。止まれぬ性質を持っているから、ぐるぐる旋回し続ける魚群。縦横無尽にゆったりと泳ぐ大きな魚。それぞれの名前など知らない。私にとっては同じだった。
(こいつらは、ここにいて幸せなんだろうか)
館内放送が「エサの時間」を告げていた。水槽の上部から白い粉のようなエサが舞い降りてきて、ゆらゆら、ゆらゆら、エサを求めて魚たちがそっと群がる。
はくはくと口を開閉するその姿に、妙な既視感を覚えて私はぐっと瞼を閉じた。
仲睦まじい夫婦が穏やかに会話をしている。兄弟だろう、弟が兄に魚について尋ねる声が耳についた。
優しく語り掛けてくれる存在を、肩を寄せ合い私の幸せを願ってくれる存在を、私は持たない。ぐるぐると回り続ける魚のように、そうしなければならないことに従って、無為に今を生きるだけだ。
「リア、楽しんでいるかい」
いつの間にか隣にやってきた、男の声が静かに問うた。まるであの家族のように、私たちも同じものなのだと誤魔化すように。
楽しんでいます、と、心にもない言葉を吐き出す。声は震えていなかった。薄暗い館内で、表情が読み取りづらくてよかったと心から思う。
水槽の魚は自由などではないだろう。彼らはそこを自由な海だと錯覚をして、「エサの時間」が無くなれば、きちんと生きていくことだってままならないのに。
(まあ、私も同じか)
嘆息は聞き留めたようだった。男が再び手を伸ばす。リア、と、私の名前を小さく呼んで。
その声にどこか寂しさが残るのに、気づかなければよかったと私はいつも後悔している。
(20220612/23:30-23:45/お題:肌寒い魚)
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