022. 赤茶色の向こうの世界

 適温にした湯をとぽとぽとカップに注いだ。

 温めていたカップは、その身の中で瞬く間に赤茶色を広げると、ふわり、ほのかに甘い香りが漂ってくる。

 ポットを持つ手は震えていた。そろり、そろりとテーブルに置く。少しでも音を立ててしまったら、全てが台無しになるのではないかと恐ろしかった。

 カップを見つめる。赤茶色の液体は、注ぎ入れたお湯の反動で少しだけ揺れている。ただ飲むだけなら、ここにミルクを入れたほうが美味しいだろうと知っている。甘やかで、芳醇な、本来そういう香りを持っているのだと理解していた。知識としての話だ。

「お願いします、今晩も、どうか、」

 自分のささやきの情けない事。それでも、私の手は震えたまま、ポットからそろりと外す。触れる程度の暖かさを保つ、ティーカップに手を触れる。

 祈るような気持だった。

 そっと、カップを持ち上げる。ぼんやりと、溶かすように私の顔を映し込んだ液面が、ゆらゆら、ゆらゆら、揺れていた。湯気が揺蕩う。カップを持った右手のあたりから、ぼんやりと温かさが広がっていく。

 揺れる液面をじっと見ていた。香りも何も、感じられないまま。

 睨みつけるように見ていると、やがてぐにゃりと視界が歪んで、その液面の上に“ここ”とは違う場所が映し出される。

 ああ、と、声を上げた。成功した。今晩も、彼を見ることが出来る。

 安堵したのは一瞬で、ぐにゃり、ぐにゃりと歪む視界のまま、私は食い入るように液面だけを見つめていた。

 ティーカップの紅茶は飲まれないまま、私をじっと、見つめ返している。





 噂を聞いたのだ。

 詮無い噂。いつもだったら笑って聞き流してしまうような。否、笑いにすらならなかったかもしれない。

 荒唐無稽なその噂に、縋るように手を伸ばしたのは自分がその状況に陥ってからの事だった。天啓のように、そうであるべきだと定められた運命のように、ふと、脳裏に浮かび上がったのだ。まだ、隣に彼がいて、私は和やかに貴婦人たちと談笑をしていればよくて、世界が色づいていたころ。


 月のない夜に、紅茶をいれると自分の望む世界が見える。


 誰が始めたのか、おとぎ話のようなそれに縋った。彼がいなくなってしまったから。

 いない、わけではないことを知っている。しっかりしなければならなかった。私が、私こそが家門を護る唯一になってしまったのだと、理解していたのだ。

 けれど、一人で立っていられるほど私は強くなかったし、何かに、あるいは一人逝ってしまった彼の亡骸に、縋りついて泣いていたかった。


 最初に紅茶を入れたのは執事だった。


 とぽとぽと湯を落とす。ふわりと広がる赤茶色に、期待よりも不安と、諦めの方が大きいまま、顔を覗き込んだ。彼は単に、眠れぬ私を安らげようとしたに過ぎない。これはよく眠れる紅茶ですから、奥様、さあ、どうぞ、と、優しい顔で。彼は執事で、部下であったが、私にとっては父のような存在だった。

 彼らに優しくされる度、私は自分の無力さに打ちひしがれる。

 それでも、その優しさを無碍にする度胸も、プライドも、何も残っていやしなくて、私はそれに甘んじている。

 紅茶は甘く美味しかった。

 一口、啜る、その液面に。

 ひどい顔をしたものだなあ、と、映り込んだ自分を見て思っていたのだ。なんとまあ、ひどい顔だこと。

 それがぐにゃりと歪んでいって、液面に見覚えのある顔が映った時。

 はっとして、カップを落とした。幻覚を見たと思ったのだ。


 確かに、いた、彼が笑って、私を見ていた。


 何かを言おうとしていた。取りつかれたように二杯目を入れるのに、ためらいはなかった。


(20220509/00:30-00:45/お題:紅茶とエデン)


 もう一度、それが“噂”の通りなら。

 執事はもういなかった。紅茶を入れてすぐに下がって、だからあの液面に浮かんだ彼の顔を、見たのが本当に現実だったのかどうか、確認する術がない。

 震える手で紅茶を入れた。今度は自分の手で。

 幸い執事の残したポットは未だ残っていた。落としたカップを再び拾う。先ほど零れた紅茶が、じわじわ、じわじわと絨毯に染みを作っていた。

(ああ、神よ)

 祈るように、カップに注ぐ。とぽとぽと、静かな音を立てて。

 そうして覗き込んだ液面に、再び映り込んだ私の顔は、死人のように蒼白の色をして。


 歪む赤茶色のその向こうに、ゆらゆら、ゆらゆら、視界が歪む。ぐにゃり、まるで吐きそうなほど。

 やがて見えた彼の輪郭に、あ、と声を上げることもできず。

 私は食い入るようにカップを見ていた、太陽が昇るまで。


 それから月のない夜は一人きり、カップに向かって祈りを捧げている。どうか今晩も会えますように、少しだけでも、見えますようにと縋るように。


(意味のないことだと知ってはいても、)

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