020. 偽りの夫婦

 ガシャン、と激しい音が響いて、男の客が怒鳴りながら席を立った。

「ふざけるな! なんで俺がそんなことをしなきゃいけないんだ!」

 強い口調にびくりと肩が跳ねたが、私は柱の影からそっと席の方を盗み見るにとどめる。あちらのテーブルは私の担当エリアではない。食べ終わった皿の回収と、床に転げ落ちたフォークを片付けに向かわなければならない同僚が、ひどく顔を青ざめさせて私の方を見た。

「そっちこそふざけないでしょ! あなたのそういうところ、ほんとに信じらんない! ここをどこだと思ってるの!?」

 怒鳴りつけたのは男だけではない。

 対面に座っていた女の客も、負けじと強い言葉を吐いて立ち上がった。ガチャガチャッとやはり鋭い音が響き渡って、こちらはフォークが転がり落ちる。同僚が再度私の方に顔を向けたが、私は気づかなかったふりをした。

「お前こそ、そんな大声で本当にはしたない女だな! それでも俺の妻か!?」

「そのあんたが求婚したんじゃない! 自分の好きな人と結婚できなかったからって、あたしの所為にしないでくれる!?」

 この夫妻が果たして何故激しく口論をしているのか、ずっと張り付いて会話を聞いていたわけではないので、当然、私も同僚も知る由もない。ただ、おおよそ原因からはかけ離れたものに発展していると思われた。

 厨房の方から、調理担当の同僚がぬっと顔を出してくる。早く食器を下げて来い、という合図らしい。同僚がもう一度私を見て、ついにそっと右の袖の端を掴んだ。

「俺は、お前がどうしてもっていうから結婚してやったんだ! もういい、お前の顔なんて見たくない!」

 男が乱暴な様子で椅子の上の鞄をひっつかんだ。そのまま、転がるフォークを踏みつけんばかりの勢いで、ずんずんとレジの方へ進んでいく。仕方なく、私は盆を持ってテーブルの方へ向かった。袖を掴んだ手を振り払われた同僚が、はっと絶望したような顔をする。テーブルの代わりにレジに行かねばなるまいと思ったらしいが、さすがに先ほどのやり取りはバックヤードにも響いている。レジ前にはすでに店長が待機していた。

「お済みの食器をお下げ致します」

 レジの方を確認しながら、荒々しく座りなおした女にひと声かけて食器を回収した。彼らは互いに怒鳴り散らしているのであって、店員にその怒りをぶつけるような人たちではない。それは同僚も良く知っているだろうに。

 女は私の顔を見て申し訳なさそうに笑みを浮かべた。「いつもごめんなさいね、煩いでしょう」時折聞く謝罪を今日も聞きながら、「慣れてますから」と笑んで答える。

 転がったフォークとナイフもしっかり拾って食器を回収し終えると、一礼をしてテーブルを離れた。間もなく彼女も退店するだろう。戻ってきた私を、安堵した表情の同僚が「ありがとう」と迎え入れた。


 あの夫婦、本当は片時も離れたくないほど互いの事が大好きなのに、恥ずかしいからって毎度毎度あんな風に退店している。

 常連客で、店側も承知の上でのパフォーマンスみたいなものだ。最近ではこれを楽しみに時間を合わせる客もいるくらい。


「そろそろ慣れてもいいのに」


 すっかり慣れきってしまった私が言うのも変な話だが。


(20220504/23:45-00:00/お題:マンネリな演技)


 遠くへ向かう夫婦の背中が、するりと二つ近寄るのを見とめて、私は「そろそろ飽きたなあ」と呟いた。

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