011. そんなもの、引き裂いてしまえ

 何日もかけて資料を集めて、何日も徹夜をして仕上げた論文は、わが子のように愛おしいものだ。

 四六時中論文の事を考えていたものだから、思考はすっかり擦り切れて、頭も体もフラフラな状態。書き上げて力尽きて一晩ゆっくりは眠ったけれど、一晩くらいで体調が復活するでもなし、フラフラなまま教授に提出してしまおうと、研究室を訪ねた。

 そんな状態だったので、当然、思考も上手く回っておらず。

 研究室に教授はいなかった。今日は非番の日だったらしい。そういえば毎週木曜日は大学に来ていないって言ってたな、と、何故か研究室にいた学生の説明を聞きながら思い出した。

 その人が本当に学生なのかどうかは知らない。ただ自分と同じくらいの年ごろに見えただけだ。

「代わりに見てあげようか?」

 先に添削してあげる、と、その人が差し出した手に、何も考えず綴じた論文を乗せてしまったのは、やはり思考が上手く働いていないせいだった。

 あとは、徹夜明けでフラフラなじょうたいで、きちんと読み返しも更なる推敲もできていなかったから、添削してもらえるならそれはそれでありがたい、と思ったのもあった。きっと誤字脱字も多いだろうから。

 中で待てば? とその人が言うので、内心、「勝手に入っていいのかな」と不安に思いつつ、指示に従った。研究室の奥まで踏み込んだのは初めての事で、家主不在の後ろめたさが急に背中を這い上ってくる。

 そわそわと、気持ちが落ち着かない。緊張感が余計に体調を悪くさせたようだった。

 それで。

「……うーん」

 ぱらぱらと、流し読みくらいの速度で論文を捲っていたその人が、曖昧な笑みを浮かべてこちらを見た。感触が良くない。何かしでかしただろうかと身構えた。

「君、これ、本当に出すの?」

 それから、研究室の棚の方に進んでいく。脈略のない行動に首を傾げながら、「そのつもりだったけど」と頷いた。

 何かを探している風だったその人が、分厚いファイルを見つけて引っ張り出した。ラベルが何も貼られていない。少し黄ばんだ様子のある、古いファイルだった。

「古い論文だけど、よく見つけたね」

 そのまま、ファイルに閉じられていた一冊の論文を手渡ししてくれる。

 先ほどその人が読んだのと同じくらいの速度で、渡されたものを読んだ。綺麗な文字が並んでいる。ぱらぱら速度で捲っていくのは、疲れ切った脳では些か負担の大きい処理だったが。

「古い論文だったのに、よくわかりましたね」

 最後の一文字まで、“先ほど渡した論文と同じ”なのを確認して、肩を竦めて見せた。勿論、さっき渡した論文の方が、誤字脱字は多いだろう。もっと時間があったなら、もう少し文章を整えたのだけれど。

 論文の冊子を返すと、その人は苦笑しながらファイルに綴じなおして、こちらに向き直ったまま。渡した論文は返って来ない。あれほど苦労して作り上げた論文だったが。

「ごめんね、こういうの、死ぬほど許せないから」

 笑顔を浮かべて、その人は論文を持つ手に力を入れた。数十枚に渡る厚い論文が、見かけにわからない強靭な力でぐっと亀裂が入る。驚いて、その様子を見ていた。

 びりびり、なんて軽い音ではなくて。

 ぶちぶちとちぎれるような音と共に、目の前で、完成したばかりの論文が引き裂かれていった。

 悲鳴を上げるでも、泣き叫ぶでもなく。

 ああ、やっぱり駄目だったか――と、わが子のように愛おしく思った論文だったが、抱いた感情は薄暗かった。

 後ろめたさが強くなっていく。同時に、どこかでスカっと抜けたような心地がした。


(20220413/00:15-00:30/お題:汚れた失敗)

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