009. 夏の狼
子供の頃の話だ。
夏休みになると、よく母方の実家に泊りに行った。家族全員で行くこともあれば、母と私の二人だけで行くこともあった。母の実家は田舎にあって、家の外は田んぼだらけ、同じ年ごろの子供はおらず、遊び相手もいないので、よく祖父に連れられ家の裏山で遊ばせてもらったものだった。
その年、父も母も仕事で来られず、私一人で祖父母の家を訪れた。
田舎の駅まで一人で向かうのは心細かったが、駅から家までは祖父が迎えに来てくれて、古い軽トラの助手席に座って、家までの道のりを眺めるのは存外嫌いなものではなかった。
その年はどういうわけか、祖父も祖母も地域の行事や農作業で忙しく、私は家で一人遊ぶことが多かった。
持ってきた宿題は早々に終わってしまって、祖父母の家にテレビゲームなどがあるわけでもない。日がな一日ぼんやりとテレビを見て、課題図書をうんざりした気持ちで眺めるだけ。
やがて家の中にいることに飽きてしまって、家の近くだけ、という約束の下、外で遊ぶ許可を取り付けた。
最初はあてもなく田んぼをふらついたり、祖母が育てている庭の植物を眺めたり、自宅の周辺では見られない大きさの昆虫を追いかけたりしたものだったが。
それも飽きてしまって、うろうろ、うろうろ歩いている内、いつの間にか裏山の麓までたどり着いていた。
一人で山には入っちゃいけんよ、と、祖父に何度も何度も忠告されていたものの。
昨年、祖父と昆虫採りをしたことを思い出した私は、ちょっとくらいならいいだろう、と思ったのだ。年に一度とはいえ、毎年入っている山だったし、多少、道も覚えているだろう、と。
お分かりの通り、昆虫を探すのに夢中になった私は、気が付いたら日が暮れていて、帰りの道がわからなくなっていた。
周囲は背の高い木々で囲まれていて、あちらこちらから色々な音が聞こえてくる。昆虫の音、風で葉がこすれる音。少し遠くから、川の流れるような水の音。
日中は心地よい音も、暗くなると途端に恐ろしいものに思えて――特に虫の音が――歩けなくなった私はその場に蹲った。迷子になったらうろつかずにその場にいろ、と言われたことを思い出したのだ。
それと同時に、祖父母との約束を二つも破って山に入ったことに、とんでもない罪悪感と、見つけて貰えないかもしれない恐怖心でいっぱいになっていた。見つけて貰えずに、一生、ここから動けなかったらどうしよう、と。
その時だった。
背後からがさりと音がして、ぐるるる、という獣の声がした。
山に危険な動物がいるという話は聞いたことがなかったが、暗闇の中できく獣の声ほど恐ろしいものはない。
先ほどまで恐怖で動けなかったはずなのに、瞬間私の体はばねのように跳ね起きて、大慌てで走り出した。うわぁああ、と、悲鳴も上げたかもしれない。
がむしゃらに走って逃げているのに、時には後ろから、時には前の方から、ぐるるる、と、低く唸るような獣の声が付きまとって、私は泣きながら走り続けた。
けれど不思議なことに、転んでも、息切れて立ち止まっても、獣の声がそれ以上近づいてくることはなく、何の獣なのか、姿を見ることもできなかった。
体感ではひどく長く走っていたが、実際の時間にして恐らく十分ほど。子供が行ける範囲などたかが知れていて、結局私は山の麓で迷っていただけなのだが、泣き叫びながら走り続けていると、とうとう誰かの持つ明かりを見つけた。
私を探しに来た祖父だった。
祖父の姿を見つけて一目散に駆け寄る。祖父は大きな手で私を抱きとめると、「心配したぞ!」と大きい声で叱りながら、強く、強く抱きしめてくれた。
祖父に促されて家に戻る道すがら、私は最後にどうしても気になって、山の方を盗み見た。
一体何の獣が追いかけてきて、家までついて来やしないかと心配だったのだ。
一瞬。
月光に照らされて見えたのは、白く美しい、大きな狼、だった、ように思う。
じっとこちらを見下ろした狼は、ぐるる、と一つ鳴いただけで、すぐに山へ戻っていった。
夏になるとあの狼を思い出す。
(20220410/21:00-21:45/お題:思い出の狼)
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