2.戦車葬の執行

 ――北海道北広島きたひろしま市、葬儀スタジアム。


 北広島市は札幌と千歳のほぼ中央に位置する街。あの国の領土となった直後から優先的に除染が進められ、いまでは放射能汚染の恐れがなくなった数少ない土地であった。ガスマスクなしに暮らせる街は貴重で、いかに望もうとも日本人が住むことは許されなかった。


 私は黒のワンピースとストッキングを身に着け、息子と娘には黒の子ども用フォーマルを着せて夫の葬儀に臨んだ。娘の手にはタオル地のぬいぐるみ。生前、夫がプレゼントしたひらたい白ウサギ。幼い娘が小さな手で握りしめるのにちょうど良い大きさだ。


 葬儀に参列する者の数は約三千人。遺族と弔問客だけで、その数となった。今日は五名の葬儀が執り行われるのだそうだ。そのうちの誰かがネットかテレビかで知られる芸能人らしいが、正直、私は興味がない。


 葬儀スタジアムの形状はサッカースタジアムにそっくりで、設備もまた似かよっていた。フィールドの四方を階段状の観客席スタンドが取り囲んでおり、観客席からは巨大なディスプレイが望める。私たち親子は、白いプラスチックのプレートに「遺族席」と書かれた区画に並んで座った。


 施設の要所要所には、葬儀の情景を本国へ送信する360度カメラが設置されている。その数は過剰とも思える2048台。VRゴーグルでの高解像度再生を想定した数だ。

 サッカーコートと大きく違うところは、フィールドの床面が厚い強化コンクリートで覆われていたこと。遺体を吊るクレーンや、セレモニーを執行する戦車の重量に耐えられるよう、充分な強度を見越した設計である。


 スタジアムを埋め尽くす三千の参列者が見守る中、葬儀が始まった。


 最初の亡骸なきがらがクレーンで吊り下げられ宙を移動してゆく。いま大空に浮かんでいるむくろは夫のものではない。逆さまになった見知らぬ男性の死体が、両のくるぶしを革ベルトでくくられ、両の腕をバンザイするようにだらんと垂らした姿で吊り下げられている。

 そんな光景を見ているうち、私は誰の作とも知らない詩を唐突に思い出した。


 亡骸なきがらそらに浮かんだ孤独な鬼子おにご

 くるぶし吊られ さかしまに舞う


 詩にうたわれた鬼子とはミノムシのこと。青空をバックにクレーンの長いブームで吊り下げられている遺体は、確かにミノムシに見える。燃えるようなオレンジ色のブームで遺骸が空中に吊られ、逆さまになっている情景は、まったく詩にあるとおりだ。


 これはおごそかなアクロバット。

 クレーンの旋回台がゆっくりと回転し、死者は雲一つない碧空を背景とし、風に揺られながら水平の弧を描く。クレーンのオペレータは慎重に位置取りを終えると、スルスルと亡骸を降ろし、白いコンクリートパネルの上に静かに横たえた。パネルと死体の完璧な配置、熟練オペレータの腕は確かだ。


 生乾きのコンクリートベッドに安置された屍骸が直射日光に曝される。大型ディスプレイに大写しされたのは、やせ細った男の顔。これから起こる災難を予期しているのか、死斑の浮く枯れた顔貌には怯えが刻まれていた。おそらく轢潰れきかい葬を希望したのは彼自身ではなく、市民権の獲得を切望した家族の方だろう。死者の表情を目にした私は、彼と家族の間で起こったドラマをうっすらと察し、故人と遺族、その双方を気の毒に思った。


「お母さん見て、戦車!」

 隣に座った五歳の息子のやわらかい手が私の腿をたたいて注意をうながした。


 参列者が固唾をのんで見守る中、重苦しいエンジン音を轟かせ、フィールドに姿を現した濃緑色の戦車。Уралウラルの愛称で呼ばれるT-72だ。それは最新型でこそないものの、極東のこの地ではいまだ現役を務める主力戦車であった。


 傲然ごうぜんと前方に突き出した凶悪な125mm滑腔砲が真っ先に目を惹く。しかし葬儀の執行人はあくまでも41.5トンの圧倒的重量と、ゴツゴツと地を噛む武骨なキャタピラである。T-72は遺体が寝かされたパネルの手前まで進んで、おもむろに停止した。


 本国の軍服で麗々しく身を飾った葬儀委員長が、観覧席にしつらえた檀上から右手を高く掲げる。それはかつてドイツの独裁者が得意としたポーズに似ていた。本国人が最も嫌っているはずのポーズ。その皮肉な合図をもって戦車葬セレモニーが執行された。


 低く這いつくばった鋼鉄のカブトムシが、12気筒ディーゼルエンジンの咆哮をあげる。格子状のパターンをもつ無限軌道キャタピラが、輪にしたリボンのように回転し、フィールドの路面を噛みながら前進した。スピードはモデラート。速すぎず遅すぎず、節度をもって。

 左の履帯りたいがパネルの10センチの厚みに当たるが、戦車は苦も無く段差を乗り越え、鋼鉄の履帯がキュラキュラと摩擦音を立てながら遺骸の上を渡り抜けてゆく。キャタピラの端から真紅の血液が噴き出し、履帯の下でバリンボリンと鈍く湿った音が鳴る。見知らぬ男の骨が砕ける音。彼の全身は、握りこぶしほどの薄さへと押し潰され、生乾きのホワイトコンクリートへと埋め込まれてゆく。戦車が通り過ぎた後のわだちは、遠目でも赤色と肉色のまだらに染まっていることがわかった。


 一連の葬儀手順が終わっても、スタジアムの巨大ディスプレイは黒く押し黙ったままだった。本国の視聴者による採点が遅れているのだ。時間がかかるのは良い兆候ではない。星を獲得するほどの作品ならば、瞬時に結果が出されるからだ。会場に半ばあきらめの空気が漂いはじめる。


 参列者が見つめる巨大なディスプレイに、遺体が貼りついたコンクリートパネルが大写しになった。パネルを真上からとらえた映像。日本で映し出される画像の大半にはボカシが入り、参列者ならびに配信視聴者への配慮がなされている。ところが、あちらではそのまま未加工の映像を放送するらしい。

 なぜなら、あの国において戦車葬は刺激にあふれた遊びエンターテイメントだから。


――異常だ。

 私は身震いする。


 死者をもてあそぶ感性は、とうてい理解できない。これが狩猟民族の嗜好なのだろうか。私たちのように自然を友とし、台風や地震といった手ひどい仕打ちをも従容しょうようと受け入れてきた農耕民族が、彼らすなわち自然を敵とし、狩りを行い、全身血に塗れながら獲物をほふってきた民族の思考を理解できないのは当然かも。


 私たちが思う『残酷』と彼らがイメージする『残酷』とは、そもそも異なる表象にひもづいているとしたら……。たとえ言葉の外面そとづらは似ていても、それは成り立ちが違う言葉。互いに理解しあうことは根本的に不可能じゃないかしら。


 彼らの残酷さは、先の侵略戦争でためらうことなく使用された核ミサイルという暴力によって証明されているし。無数の核爆発がまき散らした放射性物質は、北海道を汚染しつくしてしまった。その忌まわしい土地、北海道を離れ、かの国へ移住すること。それが占領された民である私たちが熱望するゴール。


 支配者たる彼らは血と肉のエンターテイメントを求め、私たち占領された民は安全な土地で暮らす権利を欲している。その結果、いびつな需給関係が形成され死者の尊厳をポーカーチップとした葬儀ギャンブルが始まった。いつの頃からか、より生々しい刺激が求められるようになり、死者のどす黒い血に炭酸ガスを流して鮮赤色へと変貌させる『ならわし』ができた。それは厳粛であるべき葬儀セレモニーが本来の意味を失って暴走をはじめた証拠でしょう。


 私が思いにふけっていると、葬儀スタジアムに採点終了のチャイムが鳴り響いた。

 いっせいに場内が静まる。


 スタジアムのディスプレイに巨大なゴシック文字が浮かび上がり、赤く点滅した。


отходыオトホーディ(廃棄)』


 痩せた遺体から飛びしぶいた血の量が少なかったのだ。本国の視聴者からの評価は『廃棄』。スタジアムの参列者がざわめく中、ひときわ高い悲鳴があがった。おそらく彼の遺族の絶望の叫びだろう。


 けん引車両がフィールドを手際よく走り回り、遺体が貼りついたコンクリートパネルを引きずって場外の廃棄場へと去ってゆく。遺骸をステージへ上げたときのような丁重さはなく、つぶれた害虫を捨てるかのような雑な扱いだった。『廃棄』と採点された遺体はコンクリート屑とともに地中へ捨てられ、遺族の元には戻らない。名もなき者であろうと、著名人であろうと区別なくゴミとなる。それが戦車葬の冷酷なルールだ。


 参列者が見つめる中、葬儀は進行してゆく。

 戦車は淡々と遺体を轢潰し、ホワイトコンクリートに圧着していく。


 これまでの評価はすべて『廃棄』。本国でセレモニーを楽しむ視聴者の審美眼は、実に厳しい。彼らが興奮して採点ボタンを連打するような芸術は、そう簡単には生まれないのだ。


 5人の被葬者のうち、夫の順番は最後だった。

 私は子どもたちを抱き寄せる。息子が鳥の雛のように震えていた。私は大空にある夫の最期の姿を目に焼きつけようと試みる。あせればあせるほど涙があふれてピントが合わない。苛酷な現実を妄想でむりやりねじ伏せてみた。


――それはヌリカベ。かつて日本にはヌリカベという妖怪がいたという。生乾きのホワイトセメントを塗りこめた巨大なパネルは現代のヌリカベ。死体を喰らうアートのキャンバス。ベテランのクレーンオペレータは、見事な手技で夫の遺体をヌリカベのど真ん中にセットして……


 そこまでだった。

 戦車の排気音に妄想が破れ、猛烈な吐き気がこみ上げる。


 ひょうきんな妖怪を思い浮かべることで、どうにか自分の気持ちを誤魔化そうとしてみたけれどダメだった。まったく虚しい抵抗だった。見ず知らずの他人の轢潰れきかいには耐えられても、いざ夫が葬列者の注目の下、にえとしてステージに置かれてみれば、それはもうムリなのだ。その光景を直視できないことが分かった。


 病院で看護師がジョークのように「死体は痛みを感じないから」と言うのを聞いた。しかしそれは大きな間違いだ。


 見守る私たちが、死者の代わりにを感じるのだ。


 私は固く目を閉じ両手で耳を覆って、うつむいた。外界との感覚を遮断しながら、私は逡巡しゅんじゅんする。彼の妻だからこそ嘔吐をこらえてでも見届けるべきなのか。これは夫を送る厳粛な葬儀ではないのか。私は、病院のベッドで夫が見せた弱々しいサムアップを脳裡で何度も反芻はんすうし、なおも迷い続ける。


 私の迷いを破るように耳をふさいだ手のひらを通して、場内のウォォという野太い大歓声が聴こえてきた。私のすぐ近くから「こんなの初めてだ!」と叫ぶ男の声がする。

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