戦車葬 ~ほとばしる死が命をつなぐ~・改稿版

柴田 恭太朗

1.二つのオプション

 病院のベッドに横たわった夫の指が、ふるえながらカタログの上をってゆく。指のふるえは衰弱のためか、日ごとに現実味をおびる恐怖のせいか。


 やせ細った指の行く先を、私と看護師がベッドのかたわらから見つめる。私は彼の爪が伸びて薄汚れていることが気になった。しかし、いまはそれどころではない。夫・英彦は人生最後の、重大かつ神聖な決断をくだす儀式の最中なのだ。


 夫の震える人差し指が、使い古されたカタログに印刷された太いゴシック文字の上で止まった。


『戦車葬』


 黄ばんだ紙にそう記されている。彼は指先でゆっくりと二度、文字を叩いた。仏頂面のでっぷりと太った看護師は、夫の選択を確認すると当然とばかりに小さくうなずき、事務的な口調でこう尋ねた。


ちますか、それともきますか」


 それはあくまでも形式的な問いだった。戦車葬の制度がはじまって、かれこれ五年経つ現在、もう撃たれることを望む者などいないからだ。古びた病院で、塗装のはげたベッドに横たわる夫の顔には、どす黒い死相が浮かんでいる。おそらく彼はもう指を動かす力も残っていないのだろう。シワが寄りシミの目立つシーツでさええきった彼の気力を表しているようだ。


「撃つのか、轢くのか。どちらか選んでください」


 看護師の口調が早くなった。明らかにいる。夫が選択すべき答えはひとつしかない、彼女はそう確信しているからだ。

 意を決した私は大きく息を吸い、病院の陰鬱な雰囲気に気圧されないようお腹に力を込めると、夫の代わりに看護師に回答を告げた。


「轢いてください」


 私はつとめて冷静な声を出したつもりだが、うわずってしまった。やるせないみじめな気分になる。その答えを得て満足そうにうなずいた看護師と真正面から眼が合った。彼女の赤ら顔の中で光る落ちくぼんだ瞳は、冷酷な青灰色。シワひとつない白衣に身を包んだ四十しじゅうがらみの中年女は流暢りゅうちょうに日本語を話したが、体躯たいくは太くたくましい。あの国の血を引いているのだろう。


 そもそも建物こそ老朽化しているものの、汚染されていない清浄な空気で満たされている病院施設で働けるのは、あの国の市民権をもった人間ならばこそ。例外があるとすれば、夫のように本人の意志確認ができる重体の患者だけなのだ。それ以外の患者は残念ながら『戦車葬』の恩恵に浴することはできない。


 死の床にある夫が自由意思のもとで選んだ『戦車葬』のルールには、看護師の言うように二種類のオプションがある。主力戦車の125mm榴弾りゅうだんで遺体を撃ち、ひつぎもろとも木っ端微塵に粉砕するか、あるいは戦車の強靭な履帯キャタピラで亡骸をつぶすか。そのいずれかを選択できた。


 不人気の『榴弾葬』は、高価な戦車砲弾の代金が個人負担として請求される上、見た目の派手さはあるものの、遺体はただ粉々の肉片や骨片となって宙に爆散するだけである。どの葬儀も絵面が単調で、芸術性・偶然性に欠けるため本国でのニーズを失って久しい。私たち占領された民にとって、『評価されない葬儀』はまったく意味をなさないゆえ榴弾葬が選ばれることは皆無である。


 一方、『轢潰れきかい葬』の葬儀代は無料だった。なぜなら本国のテレビ局が葬儀の模様をエンターテイメントとして放映するからだ。すべての費用はテレビ局が得る収益金で賄われる。ただし、重要なのは費用ではない、それはあくまでオマケ的なメリットでしかなかった。


「奥さんはご存じのことと思いますが……」

 赤ら顔の看護師は戦車葬の案内パンフレットを手に取り、私に開いて見せた。パンフレットは、ひんぱんに使用されているのだろう、四隅がすり減ってクタクタになっている。白衣の中年女は、ほつれたこめかみの毛をボールペンの尻で神経質にかき上げながら告知を開始した。


「ご主人様の葬儀シーンは逐一、本国のテレビで放映されます。視聴者から寄せられる評価次第で、ご遺体が廃棄物として処理されることがありますし、またその一方で……」

 看護師は言葉を切り、ボンレスハムのように太い腕の先にある、これまた太いソーセージのような指でパンフレットをめくり、見開きページを示した。そこに印刷されていたのは一枚の写真。目に飛び込んできた一面のまがまがしい『赤』に喉が詰まり呼吸が苦しくなる。


「このパネルのように芸術性が認められれば、特別な栄誉を得る場合もあります。めったにないですが」

 私は見開きの鮮やかなカラー写真に意識が引き寄せられ、看護師の言葉の後半は耳に入ってこなかった。


 そこにあったのは、飛び散る血しぶき。

 ページ一面が生々しい赤い血糊で覆われていた。


 写真をよくよく見れば、被写体は肌理きめの細かいホワイトセメントでできた長方形のパネル。それは人体より二回りほど大きい縦長のキャンバスだった。その上に描かれているのは、斜めに走るコントラスト鮮やかな血しぶき。その赤い液体がほとばしった痕跡は、たおやかな一輪の花を思わせた。セメントパネルの上で、斜めにスッと細く長く伸びる茎と、その先端で開く花弁。偶然が造形した優美なシルエット。グロテスクかつ流麗な形状がもつ不可思議な魅力。まさに芸術と呼ぶにふさわしい斑紋であった。


 キャタピラが通過した軌道の跡は薄くセメントで塗り固められているため、遺体そのものはわだちの痕跡とともに巧妙に隠蔽いんぺいされている。ただ、主力戦車のキャタピラにつぶされ、飛び散った故人の赤い名残だけが、特殊薬品の効果でもって、今もなお色褪いろあせることなく鮮やかに描き留められていた。


――Восточныеヴォストーチネャ орхидеиオルヒデイ


 それは『極東の蘭』と称される有名なискусстваイスクーストヴァ(芸術品)。彼らが芸術と呼ぶ、厚さ10センチの偏平へんぺいな死体が詰まったコンクリートパネルは、誰でも自由に鑑賞できるようにと、札幌中央駅のコンコースに常時展示されている。ただ、その赤い染みの前で足を停める日本人はおらず、みなパネルから目を背けるように、そそくさと足早に通り過ぎた。


「この『極東の蘭』は本国の視聴者から最高得点である『星3つ』の評価を獲得しました。その意味がお分かりですか?」

 看護師は彼女自身の戦利品トロフィーであるかのように、ツヤツヤと勝ち誇った顔を私に向けた。

「星3つ。つまり3人分の市民権を得たのですね!」

 私は感極まった声で分かりきったことを答え、白々しいゲームに付き合う。


「ご名答。ご主人を除くと、えーと家族は3人? 4人?」

「3名です。息子と娘、それに私」

「素晴らしい、全員市民になれますよ。ま、過去に一度しかないですが」

 告知義務を果たした彼女は、満足げにパンと音を立ててパンフレットを閉じた。


 そこまで目をつぶったまま無言で聞いていた夫は、つらそうに身じろぎし、右手で弱々しいサムアップをして見せた。何か言いたげに、ひび割れ乾いた唇が動いている。私は彼の言葉を聞き取ろうと口もとに耳を寄せた。

Спасибоスパシーバ(ありがとう)」

 それは私が耳にした夫の最期の声、そのまま臨終の言葉となった。


 私はショックだった。

 夫が亡くなったからではない、それに関してはとうに覚悟ができていた。夫がいまわの際、あの国の言葉を選んだことに私はたいそう驚き、困惑した。せめて最期の言葉ぐらい日本語で伝えてほしかった。


 看護師にせかされるまま、私はあわただしく戦車葬の諸手続きを済ませた。手続きが終わると、追い出されるようにして病院を出る。もちろん、清浄な病院内でガスマスクを着用することは忘れない。大気中の放射線を含むチリから身を守るためだ。


 帰途、プラタナスの並木をフワフワとおぼつかない足取りで歩くうち、夫の気持ちが私の心に静かに降り積もるように届いた。あれはきっと、本国の言語を使うことで彼なりの決意を表明したのだ。残された私たち3人をあの国の市民にする、汚染されていない土地へ送り届けるという強い願い。夫の言葉にはその執念がこめられていた。


 それからどのように家へ戻ったのか記憶がない。ガスマスクのせいで酸欠になっていたのかもしれない。我に返ったとき、私は玄関のドアを開けていた。帰宅の気配を察し、泣きじゃくりながら飛びついてきた幼い妹と兄。三歳と五歳で留守番をする間、さぞかし心細い思いで母の帰りを待ちわびていたのだろう。私は子どもらの華奢な体を、いつもより一層きつく抱きしめた。


 その二日後、夫の戦車葬を迎えた。

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