リアリティ・カルタシス

第20話 高畑深春と言う患者

私、北野綾乃(きたの あやの)が担当している患者は、まだ若い男の子だ。一年も前から入院しているが容体は改善していない。


「高畑深春。18歳。男。趣味はスケッチ。彼には毎日、学校のことは妄想だと言っているが、今のところ理解していない。毎朝の声かけを徹底してくれ。」


最初、深春くんの主治医の新堂(しんどう)先生からそう説明された時は、彼がどのくらい酷い病状なのか把握できなかった。だけど、今となっては痛いほど理解できている。なぜならば彼が私が自己紹介をした日から、一年たった今日までで私を認知した日は一度もないからだ。話しかけたら答えるけれど、学校の先生だと思っている。それぐらいに彼の病状は酷かった。


原因は、学校でのいじめ。

元々美術部員だっとことがきっかけで、モデル探しと称して生徒、先生に構わず声をかけていたらしい。それがきっかけで学校では「変質者」と呼ばれていた。だが、不良少年の彼女にモデルを頼んだことがきっかけで、ヤンキーグループに目をつけられ、いじめが始まったらしい。集団リンチの様なもので暴力は勿論、時には性的ないじめも受けていたという。親が体のあざから異変に気づき、いじめが明るみになった頃には、もうすでに彼の精神は壊れていた。入院した事は勿論、いじめの事も覚えておらず、何回話をしてもスケッチのことしか話さなかった。県が主催していた美術コンクールの事を話していたことから、それが彼が高校2年生の時に受けたものだと判明し、彼の記憶が高校2年生のいじめが起きる直前で止まっていると分かった。

彼は何回説明しても、私達を先生だと思い込み、病院を学校だと思い込んでいた。私の仕事は深春君の看護と記憶を現実に戻してあげることだった。それは毎朝の検診から始まった。


「深春くん、入りますよ。」


数回ノックしてからドアをゆっくり開ける。

彼はいつもベットの上に座っている。私はいつもの調子で声をかけた。


「深春くん、おはよう」


深春くんは今、気づいたと言った顔をしてこちらを見た。私が「おはよう」ともう一度言うと、


「おはようございます、先生。」


とだけ、返してくれる。ちなみに彼の場合、私を先生と読んでいるのは«病院の先生»という意味ではない。«学校の先生»という意味だ。彼はここを学校だと思い込んでいる。それはいじめがあった記憶だけがすっぽりと抜けた、彼が自分を守るための思い込みだと新堂先生は仰っていた。

まず深春くんは、新堂先生や看護師達を認識していないし、今でも患者さんや看護師達にモデルになってくれと声をかけ「君は何年生の何組?」と聞いたりする。いじめられる前の学生生活だと思い込んでいるのだ。私はいつものように話しかけた。


「先生じゃないよ、深春くん。私はあなたの看護師です。」


深春くんは怪訝そうな顔をする。そしてもう一度、私に尋ねる。


「すみません、もう一度言って貰えますか?」


私は丁寧に繰り返した。


「私はあなたの看護師ですよ。」


深春くんはやはり、分からないようで適当に

「はぁ、」とだけ返してくれた。

新堂先生は、深春くんは自分にとって都合の悪いことは聞き取れていないと診断している。それでも私は毎日彼に告げている、いつか気づくと、そう願って。血圧を測りながら、彼に語りかける。


「あのね、深春くん、何度も説明してるけど君は精神科に入院している患者でね、君が描いている絵は全部動物や彫刻で、人じゃないのよ。」


そう言って深春君の反応を待つけれど、もちろん反応などない。深春君は相変わらず、首を傾げたままだった。私は、曖昧に笑って部屋を後にした。

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