不死身
空気を吸おうとしても浅い呼吸を繰り返すだけで、肺は満たされない。
だけど、僕の足は止まることはなかった。
否、出来なかった。
深く身体に浸透させようとしても、そのまま空気中へ押し出してしまう。
うまく頭が回らなくなって、足がもつれてしまいそうだ。
でも、一刻も早く目的地に着きたい。
そうしないと……そうしないと、あいつが……。
脳裏で、電話越しに聞いた声が蘇る。
家で、時間を無意味に食い潰していた時、一本の電話が来た。
もしもし、と囁くように僕の鼓膜を刺激した女性の声は、友人の母親だった。
「もしもし……どうかされたんですか?」
喉奥に出来た小石みたいな違和感を胃の中に押し込んで、無理やりよそ行きの声を出した。
あいつと派手にけんかしたのが、つい先日だったため思わず身構えてしまう。
母親なら、尚更だ。
あいつ、親に愚痴ったりしたのか……?
いや、そんなに弱々しい奴ではないだろう、あいつは。
すると……何だ?
アイツの母親と交流はそんなにないはずだ。
あるとしたら、家に招き入れられた時に顔を合わせた程度だろう。
会話自体まともに……。
『もしもし……?』
電話越しの声で、一人勝手に思考の歯車を回していた僕は、我に返った。
と、同時に、何故友人の母親はこんなにか細い声をしているんだと、密かに思考の歯車が回り始めている。
本格的に稼働する前に、僕は
「何かあったんですか?」
と、努めて明るく、軽やかに聞いた。
すると、空気が徐々に、不自然に、固まっていった。
友人の母親の纏う空気が、受話器を通してこっち側に伝わってきたのだろう。
僕はその様子に、胸に不安の種が一つだけ撒かれた。
それは、重い土を押しのけるように成長しようと、心の底で蠢いていた。
根を張り、土が盛り上がり、最後は友人の母親の一言が肥料となり……。
「あの子が……電車に跳ねられて……」
不安の芽が、顔を出した。
今走っている最中でも、芽は止まる事なく成長し続けている。
そろそろ蕾でも出来そうな頃合いなんじゃあないか。
なんて、そんな事考えている暇ないのに。
僕は、隙あれば目前の事象から逃避しようとしている。
力ない笑い声が、ふいに出てくる。
なぁ、演技でもないことやめてくれよ。
本当にやめてくれよ……。
なんでお前が……清らかなお前が人身事故に遭うんだよ。
自殺の頭文字ですら浮かんでこないような、風貌しててさ。
自分で飛び込ぶような、馬鹿なことするようなやつなのか、お前は……。
数ヶ月前、女性が自ら飛び込んだ姿が脳裏によぎり、僕の背筋に冷たいものが走った。
僕のトラウマを癒してくれた裏で、お前は一体何を考えていたんだ……。
悔しかったのか? 辛かったのか? お前の初恋が否定されて。
……こんな事なら、あいつの初恋を馬鹿にしなければ良かった。
最後に会ったのが、激しく喧嘩した時なんて、嫌だ。
ぐちゃぐちゃに潰れた感情を抱え、ただひたすら足を動かして病院に向かった。
その間も、喉奥に蓋が引っかかってるみたいで、なかなか息が吸えなかった。
病室の扉の前に立って、やっとまともに息が吸えた。
一つだけ扉横にある名前を、何度も確認した。
やっぱり、あるか。
あいつはこの扉の向こうで、意識を沈めたまま、ベッドに横たわっているらしい。
揶揄うと反応が大きすぎて面白い彼を見るのは、いつになるかも分からないらしい。
暫く荒れた息を整えていたが、こうしていてもただ時間を無駄に食い潰していくだけだと気づいた。
唇を噛み、腕を伸ばして病室の扉に手を掛けようとした。
すると、目にハッキリと捉えられるくらい僕の手が震えている。
お前は、いつも僕の感情を振り回す。
高校の教室で孤独だった僕に、構わず話しかけて距離を詰めてきたお前は、知る必要もなかった日の元に引っ張ってきた。
引っ張るだけ引っ張っておいて、後は放置にするのか。
卑怯な奴だ。
……これで勝手に死んだら、一生呪ってやる。
僕は、目尻に溜まる熱を振り落とすように、扉を強引に開けた。
「……うぉっ、びっくりしたぁ……」
か細いが、確かに芯の通ったあいつの声がして、一瞬キョトンとした。
は? 意識不明の重体って聞いたんだけど?
僕は病室のベッドを凝視した。
病室のベッドで、あいつは包帯を顔半分に覆って横たわっていた。
痛々しい姿ではあるが、こちらを見る澄んだ目はハッキリと僕を見ている。
「お前……なんで……」
安心したように息を吐くあいつに、徐々に腹が立っていった。
とっくに冷めた目尻を一回ゆっくりと瞬きした後、早足で近くに歩み寄った。
彼は僕の様子に驚いたらしく、少し目を見開きながら言った。
「お、おい、なんか怒ってるのか……?」
「怒ってる? 別に怒ってないよ。ただ、無駄に元気そうだねって思っただけ」
「無駄にってなんだよ……俺これでもさっき目覚めたばっかだぞ」
口を尖らせながら反発する姿は、紛れもなく普段のあいつだった。
その事に若干安堵しながらも、僕はそれを心の奥底に押しやって、口を開いた。
「どうだか。数分前ぐらいに、君の母親からは意識不明の重体だって聞いたけど?」
「母さん……電話したのかよ……まぁ、本当についさっきまでは意識不明だったけど、今はもう覚めた。母さん、一旦帰ったらしいんだけど、看護師さんが呼んでくれたみたいで、またすぐ戻るって……」
目の前に横たわってる奴は、心なしか気まずそうに視線を漂わせながら、しどろもどろに話している。
まぁ、最後に別れたのが喧嘩だったしね。
それに自分が事故に遭ったと思うのに、相手がいつも通りの調子で会話を仕掛けていて戸惑うのは当然の摂理。
それでも君はよく話せてる方だと思うよ、素晴らしいね。
皮肉の言葉が頭の中を駆け巡っているけれど、僕は形にして出すことはなかった。
喉を低く鳴らし、臆病で皮肉の陰に隠れている言葉を、無理矢理押し出す。
なかなか出てこないから苛立って、柄にもなく舌打ちをかました。
「なぁ、おい……どうしたんだよ……」
うるさい、黙ってろ。
そんな暴言が出そうと思っている言葉を押しのけようとするから、また喉を低く鳴らした。
あいつはこちらを心配そうに伺っている。
僕の気も知らないで、本当に何にも知らないで。
ただ顔色を伺っているだけのあいつは本当に……。
「ムカつく」
気づいたら、出そうと思っていた言葉と全然違うモノが出ていた。
ああ、やっぱりダメだ。
捻くれて、擦り切れた僕に自分の不手際に対して謝罪するなんてハードルが高すぎる。
しかも、それが今回の事件の引き金になったかもしれないのに。
僕の性格がこんなに難儀な事に、悲しくて、呆れて、捨ててしまいたくなる。
「……なぁ」
静かに、友人が口を開いた。
「……俺、初恋の人に押されたんだ。線路に」
そして、唐突に語り出した。
インパクトのある言葉に、僕は耳を疑った。
「どういうこと?」
「いや、俺さ、多分絆されてたんだと思う。あの人に……いや、人って言っていいのかな。それに、押されたっていう表現があってんのかどうかも……」
オドオドした言い方に、僕は苛立ちを覚えたが、そこは堪えた。
流石に病人に必要以上詰問する趣味はない。
ただ、気長に待った。
「えーっと、俺はとある女性に恋をしたって言ってたけど、実は幽霊っぽくて」
「は?」
思わず間の抜けた返事をした。
気長に待って出した答えがそれか?
「いや、本当……っていうか自信ないんだけど」
「……ねぇ、落ち着いて順番に話してよ」
気長に待っていたけれど、全然収集がつかないので、僕は呆れながらも友人の話を話しやすいよう誘導する形で聞いた。
そのおかげか、幾分事情は分かった。
友人は初恋の女性に告白しようとして、駅に行った。
で、頑張って告白したら、いつの間にか電車に跳ねられていた、と。
その際、友人は宙を浮いており、女性は歪んだ笑みを浮かんでいた。
不気味な様相に、人一人は振り返りそうなモノだが誰も見ていなかった。
最初はただ跳ねられた自分に、皆注目していたからただそれだろうと友人は思っていた。
僕も、そう感じていた。
歪んだ笑顔の女性と、宙に浮いた人、どちらを見るかと言ったら、真っ先に後者を見る人が高いだろう。
「だけど、俺見たんだ」
友人が、恐る恐る呟く。僕は、黙って耳を傾けた。
二、三度唇を震わせ、半分だけ覗かせている顔は、段々と血の気が引いて、青白くなっていった。
「足が、なかったんだよ、あの人……」
「足がなかった……?」
僕は、眉を顰めた。そんなのまるで……
「幽霊、みたいだろ?」
友人が、自嘲気味に笑った。
いつもは『太陽のような、皆んなを明るく照らす笑顔』なんていう使い古された表現が似合う笑顔しかした事ないくせに。
僕は釈然としない気持ちになりながら、友人が話す内容を黙って聞いていた。
「初恋をしたのが、幽霊なんてなぁ……」
友人は包帯で覆ってない顔の方を片手で包み込むと、うなだれた。
「凄く綺麗な人だったんだよ。黒い、着物が似合っててさ、和風美人でさ、本当に、本当に、綺麗な人だったんだ」
拙い語彙で、声を震わせながらそう話す友人に、僕は何も言えなかった。
人間関係の経験値が少ない事を嫌でも自覚させられて、苛立ってしまう。
「なぁ」
友人は顔を覆ったまま、何処かすがるように、線の細い声で言った。
「俺、恋しない方が良かったのかなぁ……」
今にも消え入りそうな声で言葉を絞り出した友人の姿は目に余る物だった。
お前は、そんな奴じゃないだろ。
恋愛一つ如きで、弱気になるヤツなのか。
沸々と湧いて出てきた場にそぐわない怒りを、深呼吸をして落ち着かせる。
こんなの、ただの八つ当たりだ。
こいつは何も悪くないのに、ただなんかの怪奇現象じみたものに翻弄されて、僕を導いた友人の姿がカケラも無くなったことに腹が立った。
だから、僕は一方的な尖った気持ちをそのまま口に出すことなんて愚かな事はしない。
相手にどれだけの衝撃が入るか考えて、言葉を紡ぐ。
それだったら、至極真っ当な謝罪よりも、簡単だ。
友人を元の状態に戻す為に、誘導するんだ。
僕のお得意の、口八丁で。
「確かに、向ける相手を間違えてはいる……だけど、その感情を持つ事は、間違えてない」
そう言葉に出した時、友人はふと覆っている手を退かした。
「貶した相手に言われて、説得力ないかもしれないけれど、お前の持つ感情は誰よりも綺麗なものだ。だから、恋なんてしない方が良かったなんて、言うな。お前は何も悪くない……」
言葉を紡いでいる途中で、ふと思った。
謝罪するよりも小っ恥ずかしい事を今僕はやっているのでは……?
話していく内に、段々と耳が熱くなる。
こんな事なら一言「あの時はごめん」だけで済ませれば良かった……。
いや、待て。謝罪したとしても、友人の恋心を抱いたことに対しての罪悪めいたものの感情は消えていない。
どちらにせよ僕が言葉を並べなければならなかったのか……?
あー、もう。やめだやめ。考えるのやめ。
こんな恥ずかしい思いするなら、友人の馬鹿正直素直ど直球性格を見習って耐性つけとくべきだった。
胸中忙しなくしている内に、友人はキョトンとした顔で僕の方を見ていた。
やめろ、今は見るな。
耳に感じた熱が、顔にまで流れ込んできた事に軽く舌打ちをかましたくなる。
今度は僕が、手で顔を覆って隠した。
本当に今は見せたくない、顔を。
顔を覆ってるから友人はどんな顔をしているか分からないが、太陽の光が優しく包み込むような、笑い声が聞こえた。
ああ、もう本調子か。
本当に単純だ。
僕は友人に背を向けると、病室の扉へと足を運んだ。
「おい、どこに行くんだ?」
「話しすぎて喉乾いたから自販機行く」
「おう、分かった」
さっきまでの消え入りそうな声とは打って変わって、明るく調子の良いアイツの声に戻っていた。
僕は特にその事に対して反応せず、病室を出て行った。
暫くは普通に歩いていたが、病室から遠く離れた事を確認すると、立ち止まり、肺に溜まった冷たい息を吐ききった。
黒い着物、か。
僕は数か月前の出来事を脳裏に呼び起こす。
思い出したくもない惨状だが、友人を事故に遭わせたであろう犯人が、まだ人間だった頃の貴重な記憶だ。
僕は、本来なら怪奇現象がある事は信じない質だ。
非科学的すぎるし、心霊現象や本当にあった怖い話なんていうコンテンツを見ても、所詮創作だけで成り立っている話だろうと鼻で笑っていた。
だけど、友人は嘘はつかない。
サプライズ目的で秘密にすることはあっても、隠すのが基より下手な部類だから、すぐ分かる。
ということは、あの駅に幽霊はいた。
そして、友人が言っていた黒い着物……あれは、喪服の類ではないだろうか。
そうだとしたら、僕が人身事故を生で目撃したあの女性かもしれないと、友人の話を聞いてそう推察した。
それに、心当たりがもう一つある。
女性は、友人とそっくりな男性の写真を落としたのだ。
もし、写真を見つからない未練で、駅に留まっていたとしたら。
見つからない時に、写真の男性とそっくりな友人が目の前に出てきたら、執着の化身とも聞く幽霊は突飛な行動に出るのかもしれない……。
元々そういった類に興味がなかったし、ひとつまみ程の知識と、後は推測でしか物事を図れないからいささか強引ではあるかもしれない。
ここまで思考を巡らせるものは全部僕の独断と偏見も交えている。
けれど、この考えが本当だったとしたら、僕は間接的に友人を殺そうとしたことになる。
僕は爪が食い込んで血がにじむほどの、拳を握る。
あいつに、傷をつけてしまった。
胸の中に溜まる、行き場のない重いしこりは、下手したら一生消えないだろう。
それは、友人にこの事を話した場合でもそうだ。
あいつは慈しむような笑顔で大丈夫、とか、気にするな、という励ましの言葉を掛けるだろう。
それでも、友人が事故に遭った事実が消えないように、この後悔は消えない。
僕は、あいつじゃない。
あいつみたいに、今を生きるために立ち直ることなんてできない。
そこまで考えて、僕は頭を振った。
馬鹿野郎。今は感傷的になっている場合じゃないだろう。
起きてしまった事実を、きちんと収めなきゃならないだろう。
とにかく、自分の推測が本当か偽物かは置いておいて、写真を駅にいる女性に返しに行くことが必要だ。
あの事故の後、放心したまま持って帰った。
本来ならさっさと処分するべきだが、一応人のものではあったし、あの写真を見て事故の光景が鮮明に映し出されたため、衝動的に僕の勉強机の引き出しに奥深く押し込んだんだ。
それきり写真は、外に出していないし、見てはいない。
良かった。人のものだから壊したり捨てたりしたら気が引けるという理性が、あの時残っていて。
僕は、真一文字に唇を引き結んだ。
やる事は、決まった。
待ってろよ、幽霊。
僕も無意識に一枚噛んでしまったとはいえ、お前が友人を突き落とした事には変わりないからな。
冷たいジュース一本如きでは到底冷めない沸々と湧く熱を抱えながら、足を再度進めるのだった。
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