勇気

毎日、俺は駅で会った女性のことばかり考えている。

 

あの日以降、駅のホームで抱いた感情は恋情と呼ぶことに他ならないことを、認めざるを得ない。


俺は淡い感情を胸に宿したまま、そのまま待ち合わせしていた友達にフワフワとした足取りで会いに行った。

 

友達は僕の財布から出ているランチを完食した後、なにかあったのかと問われた。

 

大方、皮肉を言いたかったんだろう。

 

俺は夢見心地で、友達に駅で会った素晴らしい女性のことを説明し始めた。


正直、どうやって話したのか詳しくは憶えてない。


でも、ちゃんと伝わったことは明白だった。

 

その証拠に、友人は、どこかの誰かも分からない人なんかに一目惚れするなんて単純だね、と笑ったからだ。


やっぱり、皮肉を言いたかっただけだった。

 

友人なりの、性根が屈折したスキンシップだ。

 

いつもなら俺はちょっとだけ文句を言って、そのまま会話を続けていく。

 

だけど、何故か自分の腹の底が無性に熱くなり、女性を貶している悪意だと汲み取った。

 

これまで一回も喧嘩したことのなかったのに、店員さんに宥められるほど派手に喧嘩をしてしまい、俺は黙って店を出て行った。

 

友人のランチ代も、払わずに。

 

道中、俺は友達の蕪村な態度に苛まれていた。


あいつが事故を目撃したショックで遊べなくなったから、再度その日に合わせなおしたのに。


あいつがトラウマから立ち直った記念に一日中遊び倒す予定だったのに。

 

あいつのお得意の皮肉ですべて台無しになった、と。

 

歩みを入れるごとに、ヂクリヂクリと苛立ちが心を蝕み、思わず奥歯を噛んだ。

 

今は頭を冷やし、怒りすぎた罪悪感はあるが、友人への不満は腹の奥底で燻っている。


そもそもあいつは自分勝手で我儘で皮肉屋だ。


なんであんな性悪なやつなんかと一緒にいるんだ。


なんで友達なんだ。


ムカムカと湧き出る愚痴をなんとか抑えながら、駅のホームに視線を走らせる。


いた。


女性が以前と変わらない着物姿で立っている。

 

最初に会った時以降、女性は同じ時間同じ駅のホームで地面に俯き気味に立っている。

 

黄色い線の内側に立って、毅然と背筋を伸ばしている。


それを見た瞬間、俺の心臓が高鳴った。


あまりの美しさに、唾液を飲んで喉を鳴らしてしまうという下品な仕草もしてしまった。


女性は、ふと横目でチラリと俺の方を見た。

 

俺が来たことを、確認したのだろうか。

 

俺と目が合うと、綺麗にかたどられた表情を綻び、周りに秀麗な花を咲かせた。

 

そして、また端正な横顔をこちらに魅せつけるようにして俯く。

 

毎日通い続けて、日常と化している風景だ。

 

だが、女性の姿や笑顔、横顔を見る度、全身の血がグツグツと煮えたぎる。

 

今日は綿密に念入りに考えてきた計画を実行する日だからか、一段と煮えたぎっている。

 

俺は息を吸い、女性の元へ行こうと一歩足を踏み出した。

 

足元が緊張でぐらつき、一歩一歩足を踏み締めることが困難だった。

 

それでも俺は踏ん張って、何とか歩を進めた。

 

徐々に距離が縮まっていき、腕を目一杯広げたぐらいの近さになった。

 

俺は声をかけようとして口を開いた。


だが、暖房をつけっぱなしで寝た次の日の朝みたいに、口の中ぎパサついていて声が出なかった。

 

不味い。出だしをミスった。

 

俺は慌てて一時撤退しようとした。

 

だが、話しかけようとして思いきり息を吸ってしまったため、乾燥した口の中と喉奥が刺激されて咳き込んでしまった。

 

女性がハッと気づいて、振り向いた。

 

俺と、向き合っている形になった……。

 

遠目からでも綺麗な顔だと思っていたのに、近くで見るとより一層事実が浮き彫りになる。

 

顔に火照りが灯り、額に生暖かい雫が噴き出した。

 

ダメだ、どうしよう、失敗だ。

 

負の感情が頭の中で喧しく動き回り、混乱の渦中に巻き込まれる。

 

目頭も熱くなってきた。

 

このままでいたら、確実に情けない姿を晒す事になる。

 

早く離れなくては。

 

そう考えなくてはならないのに、パニックになってるせいでなかなかその思考を手繰り寄せられない。

 

俺は目を瞑って一旦現実逃避しようとしたその時、女性が聖母のように微笑みかけた。

 

その微笑みは、俺が犯した醜態を全て受け止める慈悲の深さを感じた。

 

後ろに、天使が舞っている……。

 

そう錯覚してもおかしくないぐらい、俺の心は救われた。

 

散々大荒れになっていた心中が嘘のように鳴り止み、不思議な心地良さが、俺の体を包み込んだ。

 

もう一度、深く、深く、息を吸う。

 

乾燥していた口内や喉奥も、今はもう何ともない。

 

おかげで再度咳き込むことはなく肺の中に新鮮な空気が満ち、吐く息と共に、言おうとしていた言葉が自然とこぼれた。

 

「貴女に、一目惚れしました! 付き合って下さい!」

 

小洒落た言い回しはもっとあるんじゃないかって、何遍も考えたけど、俺には思い浮かばなかった。

 

だから、気持ちを全力投球ぶつけることを選んだ。

 

小洒落たものを連ねて何が言いたいんだか自分で分からなくなるよりも、押し付けがましくても絶対に正確に伝わる方を選んだ。

 

これが吉と出るか、凶と出るか、いや、そもそも初対面に等しい人間にいきなり告白されて大丈夫なのか――。

 

色んな不安がないまぜになって駆け巡って行ったが、それはすぐ吹き飛んだ。

 

女性はやっぱり突然の告白に一瞬驚きはしたものの、またあの聖母のような微笑みを湛えた。

 

俺はそれを見て身体の力が一気に抜けて行き、安堵感がこんこんと湧き上がってきた。

 

やった、成功だ……。

 

返事を貰ってもないのに、何故だかそんな風に思った。

 

女性は、形の良い唇を静かに動かした。

 

「やっと……言ってくれましたね」

 

一気に高揚感が頂点に達した……束の間。

 

ドンッッッッッ!

 

俺の身体が斜めにひしゃげた。

 

突然の事に理解が追いつかず、俺の身体は宙に飛んだ。

 

鉄の塊をぶつけられたような鈍い痛みが全身に走り、叫び声を上げた。

 

喉奥でゴポゴポと水音が溢れる音が頭に響き、鉄錆の味が口にいっぱい広がった。

 

何がどうなってるんだ!

 

ギシギシと目の周りの筋肉を軋ませながら、辺りを見渡した。

 

女性が黄色い線の内側に立ち、先程と同じような微笑みを浮かべていた。

 

女性の周りにいる人々は、口に手を当てたり、目を見開いたりと仕草は違うものの、驚愕の表情を浮かべて俺を見ていた。

 

その状況を見て、俺はなんとなく察した。

 

女性の手によって、俺は電車に跳ねられたんだと。

 

それに気づいた瞬間、俺の意識は暗転した。

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