第9話 恋の練習

あれから私は、ずっと葵くんの腕に抱え込まれたまま。ただ時間だけが過ぎて行く。


相変わらずドキドキはしているけれど、それと同時に、心地よさを感じている自分に気づく。


人と関わる事が苦手だった私を見捨てる事なく、根気強く付き合ってくれた一番の親友。

この子が相手なら、どうしても踏み出せなかった境界線を越えてもいい……そう思えるようになっている私がいた。


私の体から少し緊張が抜けたことに気づいたのか、葵くんが私に話しかけてきた。


「もっと、寄りかかっていいから」

「……うん」


恐る恐る体重を預ける。そんな私を、葵くんは、少し強く、ぎゅっとしてきた。


「ちとせ、かわいい」

「かわいくなんか……ないよ」


私は葵くんの言葉を否定する。すると、葵くんは少し怒ったような口調で言った。


「俺には、他の誰よりもかわいく見えてるんだけど?」


その直後、私の首筋に、何か柔らかいものが触れた。


「今の……」

「口で言って分からないから、態度で示しただけだよ」


そして続けて反対側にも。


「信じてくれるまでやめないよ。次は……どこにしようか?」


やめて、そう言う暇も与えてくれないまま、今度はうなじに同じ感触がきた。


「あ……葵くんは、お兄ちゃんのこと……好きなんでしょ……?」

「うん、アタシはりっくんが好きだよ?」

「なら……こんなことしちゃだめだよ……」


私が頑なだから、無理に練習台になってくれてるだけなんだ。そう思いこもうとした。

でも、葵くんの言葉は、私の考えを否定するものだった。


「……俺はちとせのこと、女の子として好きだよ」

「……う、うそだ」

「嘘じゃない」


冗談を言っているように聞こえない、いつもと違う低い声。


「ずっと友達として好きだと思ってた。でも、ちとせがあの男と指切りしてるの見た瞬間、めちゃくちゃ嫉妬した。俺の方が、ずっと一緒にいたのに、このままじゃあいつに取られるって。……その時やっと気づいたんだよ、ひとりの女の子として、好きだったんだって」


そう言うと葵くんは、私の手を自分の顔の高さまで持ち上げると、私の手の甲に唇で触れた。


「……信じてくれるまでするって言ったろ?」


私の顔は、ゆでダコと同じくらい赤くなってしまう。見なくても分かる。

そんな私に、さらに追い討ちをかける葵くん。


「これだけじゃ……足りない?」


葵くんは、右手を私の左の頬に添えると、私の顔を、右側にある葵くんの顔と向かい合うよう誘導する。逆らえず、私は葵くんと目が合う。

私は葵くんをまともに見ることができず、ぎゅっと目をつぶる。


「たっ、足りなくなんかないからっ……もう無理……」


刺激があまりにも強すぎる。私の頭はすでき、まともに物事を考えられなくなっていた。


「俺はまだ足りない……」


その言葉と同時に、私の右の頬に、あの柔らかいものが触れた。

それが何なのか、見てしまうのが怖い。


「……ちゃんと俺のこと見て?……そっか……そのまま目つぶってるなら、ここにも……」


私の左頬にあった葵くんの手が動き、指が私の唇に触れる。

私は慌てて目を開けた。


「なーんだ……残念」


目の前の葵くんは、本当に残念そうな顔をした後、優しく笑いかけてきた。


「……安心して、これ以上しない。……これ以上やったら、流石に止められる自信ない」


私の右肩に頭を乗せて、葵くんはため息をつく。


「ちとせ、息止まってる。ほら、深呼吸して」


呼吸がうまくできなくなっている私に、葵くんは苦笑する。

やっと呼吸が落ち着いた私は、涙目になりながら葵くんに聞く。


「……これ、練習なんだよね?恋人が何か教えてくれてるだけの……」


そう思わないと、頭が爆発しそう。

でも、葵くんの返事はやっぱり、期待通りにはならなかった。


「本当に?まだ分からないの?じゃあもういいよ……もう、我慢なんてしない」


そう言うと葵くんは、私の顔を無理矢理自分に向ける。目が笑ってない。見たことのない顔。ああ、これは男の人なんだ。そう本能で感じた。

そんな衝撃で固まる私の唇を、葵くんは塞いだ。


私は目を閉じるのも忘れ、ただ、葵くんの綺麗な長いまつげを見つめることしかできなかった。

たった何秒かの出来事なのに、とても長い時間のように感じた。

そっと、葵くんの顔が離れていく。


「好きだよ、ちとせ」


そこからは、よく覚えていない。

かわいいという言葉と、唇に触れる柔らかい感触とが繰り返され、私はいつの間にか意識を失っていた。


「本当に……好きだよ」


それが、私が最後に聞いた言葉だった。


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