第7話 百木蒼衣と青野桃花
帰りのホームルームを終えた
その姿を見て蒼衣は不覚にも、どきりとしてしまった。少女の姿に見惚れたわけではない。また何か厄介なことを言い出すのではないかと、焦ったからだ。
そこに立っていたのは、蒼衣が漫画を描いていると見事な推理を見せた
「やあ、
朝みたいな浮ついた台詞に、うっかり胡散臭そうな顔をしてしまった。こんな台詞を一日二回も言われるとは予想外だ。
「何か用ですか、
漫画の話が出ても、いつでも対処できるように警戒は怠らない。
「見せたいものがあってね。百木さんは今日は部活かな」
「今日は自主練の日ですけど」
蒼衣が所属する和楽器部は掛け持ちする人が多く、全員が揃わない日は自主練に当てられる。そんな日は部活に顔を出さないこともたまにあった。
「ということは時間はあるのかな?」
百歌はかばんからまたしてもノートが入るサイズの茶封筒を出す。嫌な予感がする。
蒼衣はむんずと百歌の手首を掴むと、廊下を足早に進み、階段を上り、五階までたどり着いた。
「また今朝と同じ話ですか!? 私は言いましたよね。漫画なんて描いていないと。
そこまでまくし立てて、蒼衣はようやく百歌の腕を離した。
「百木さん、怒ってるのかい? 漫画の話はあまり好みじゃなかったかな。クラスの子が持ってて、貸してもらったんだよ」
「⋯⋯!?」
百歌は持っていた茶封筒から、一冊の同人誌を出して見せた。そこにはセーラー服の少女が三味線を奏で、それを見守る大人の女性が描かれていた。その本は去年の春に蒼衣が描いた同人誌だった。
「⋯⋯⋯これが、どうかしたのですか?」
震えそうになりながら、蒼衣は冷静を何とか保ちながら訊ねた。
「ほら、見ての通り、その漫画は三味線を弾く女の子が出てくるんだよ。外部顧問の先生との恋の話でね。百木さんも和楽器部で三味線を弾いているだろう。だから、きっと百木さんが読んだら楽しいんじゃないかってね」
百歌は同人誌をパラパラと捲り、見開きのページで手を止めた。女の子が三味線を奏でるイラストが大きく描かれている。
「三味線の絵なんてリアルで、見応えがあると思わないかい? 絵が醸し出す空気感がとても素敵なんだよ。今にも音が聞こえてきそうでさ」
「⋯⋯そうですね」
リアルなのは蒼衣が自身の三味線を写真に撮ってトレースしたからである。いかに臨場感を出すか、リアリティを出すか苦労して描いたものだ。
「三味線を弾く上での悩みなんかも描かれていてさ、ボクより百木さんが読む方が百倍楽しめそうだと思って。でも、百木さんはこういう本は嫌いかな?」
「⋯⋯嫌いとか、好きとか⋯⋯。考えたことありません」
「貸すから読んでみなよ。青野桃花は絶対、三味線にも造詣がある人だよ。見たら素人でも分かるさ」
「⋯⋯⋯⋯。話はそれだけですか?」
「そうだよ。ついでに百木さんをナンパしようかなって。久しぶりに話したら、百木さんの琥珀色の瞳に囚われてしまってね。⋯⋯って、そんな怖い顔するなんて心外だなぁ。冗談だよ。それじゃ、ボクは行くよ。本はいつ返してくれてもいいから」
百歌は手をひらひらと振って階段を降りて行ってしまった。
取り敢えず、蒼衣が危惧していたような事態にはならなさそうである。しかし、自分の描いた本をまたもや見せられて、どんだけ学園内に出回っているのかと思うと、背筋が寒くなる。
(だからと言って、好きなことを捨てることはできません)
青野桃花でありたい、でもそれは
蒼衣は薄紫色の湯船にゆっくりと体を沈めた。ラベンダーの香りが心を落ち着けてくれる。湯気で覆われた天井を見上げながら大きく息を吐いた。
今日は何だか色々とあった一日だ。
元クラスメイトの百歌に声をかけられて、蒼衣が同人作家の青野桃花だと見破られて。自作の同人誌を計二冊も見せられて。何て一日だ。酷いんだか、奇跡的なんだか、もうよく分からない。
あの後は結局、部室に顔を出すこともなく、ぼんやりしたまま帰宅した。普段なら自宅一階にある『洋食ももき亭』の手伝いをすることが多いのだが、今日は何も出来なかった。毎日手伝っているわけではないから、ももき亭で働く祖父と父から特に何か言われることもなく安堵した。こんな悩みは誰にも知られるわけにはいかないから。
「全く。どうして無名の青野桃花の本がこんなに学園内で読まれてるのかしら」
それはただただ疑問でしかなかった。
青野桃花は大手の作家ではないし、同人誌だって大量に発行しているわけでもない。なのに、幸か不幸か何故か学園内に読者がいる。挙げ句に貸し借りされて、目にしてる者もそこそこいそうである。
「同級生にまで⋯⋯」
かつてのクラスメイトの百歌まで読んでいるのだから、世界は自分が思うより狭いのだろうか。
「歌越さんは、読んでくれてたのですよね」
わざわざ読んで、蒼衣に合うに違いないと貸してくれた。描いたのが蒼衣本人であるから、読むまでもなく内容は把握しているが。
百歌は絵を褒めてくれた。そして自分が部活で経験したことを漫画に織り込んだことも伝わっていた。作者としてはこんなに嬉しいこともないのに、相手が同級生なせいで素直に喜べない。
「私は、青野桃花であるべきではないのです⋯⋯」
学園内ではお姉様でなければならない。けして両立しない百木蒼衣と青野桃花。どちらも捨てられず、交じることもできない。この二人は同じ人物でありながら、水と油だ。
否定した甲斐あってか、百歌はもう二人が同じ人物だとは思っていない様子だった。嵐は過ぎたのだ。でも、何故だろう。蒼衣の心には棘が刺さったまま抜けそうにない。
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