第3話 悩み
取り敢えずペンネームは変えなければない。
しかし青野桃花の名前はずっと使っていいて、いつの間にか愛着もわいている。イラスト投稿サイトやSNSでもこの名前で通っている。少しずつ浸透させてきた名前を変えるというのも勇気がいるものだ。
(要は私だとバレなければいいんですよね)
今まで蒼衣が漫画を描いていること悟られたことはないはずである。学園生活で絵を描くのなんて、せいぜい美術の授業くらいだ。それ以外で人前で絵を披露したことはない。
(私が何も話さなければ今更バレるなんてありえない⋯)
結論付けしたものの、頭の中のもやもやはすぐには晴れてくれそうもなかった。
百合漫画の同人誌を描いてますと堂々言えていたら。入学した時に漫画を描くのが好きだと誰かに言えていたら、自分はどんな学園生活を送っていたのだろう。消えた未来について思う。しかし考えたところで、お姉さまという立場になった今の自分は青野桃花でいることを隠さねばいけない。
「漫画を描いているお姉さまがいてもいいじゃない」そんなもう一人の自分の声は無視する。
嘆息して机に突っ伏していると、部屋の扉からコンコンと乾いた音がする。顔を上げると、丁度扉が開いたところだ。
「蒼衣、来年六月に地元のイベントに出ようと思うんだけど、蒼衣も何か描かない?」
声をかけてきたのは姉の
祐衣は現在
「あれ〜、蒼衣元気ない? 風邪でも引いた?」
心配そうに部屋に入って来る。
「いえ、全然。元気ですよ」
「そう? 学校で嫌なことでもあったの? 話くらいなら聞くけど」
「特には⋯⋯」
と言って、口をつぐんでから考え直す。祐衣も星花の生徒だった時、漫画を描く活動は隠していた。祐衣の場合は地雷が多いから、同好の士でもおいおい仲良くなれない、という理由だったらしいが、相談したら何かヒントくらいは得られるかもしれない。
蒼衣は一度深く息を吸ってから、口を開く。
「実はちょっと悩んでいまして⋯⋯。校内に、もし自分の描いた本を持っている人がいたらどうしたらいいのでしょう?」
蒼衣は率直に話した。目の前の祐衣は予想外の話だったのか、驚いて蒼衣を見下ろしている。
「前にもそんなことなかったっけ?」
「ありましたけど、随分古い本まで持っている人がいたものですから⋯」
「でも自分のファンが身近にいるのはいいんじゃない? 私なんて自分のファンと学校で遭遇したことなんてないし。ある意味貴重な体験じゃん」
祐衣は蒼衣が「お姉さま」なんて呼ばれているのを知らないせいか、あまり気にしてないようである。
「漫画を描いていることは今でも誰にも打ち明けてないんでしょ?
バレたくないから悩んでるんだよね?
蒼衣から打ち明けない限りバレないと思うけどね。イベントで本出しても、頒布してるのは私だから、そこで見つかる心配もないし。気にしちゃうのも分かるけど、そんな滅多にない体験なんて漫画のネタになるじゃん」
「⋯⋯言われてみれば」
二人は顔を合わす。口に出さずとも脳裏には同じ言葉が浮かんでいるのは互いに分かった。
『どんな経験も全て漫画のネタになる』とは十八歳で漫画家になった母の弁である。幼い頃からその言葉を聞いて育った蒼衣たちにはよく効く言葉でもあった。
「自分が描いた本が人知れず学園で読まれている、なんて上手くいじれば百合にできそうでしょ」
「そうですね⋯⋯」
祐衣の言葉に少しずつもやもやが薄くなりはじめる。
「まだ蒼衣が青野桃花だとバレてないのに、それを気にして悩むのも無駄でしょ。最悪バレたら、またその時に考えよう。どうにもなってもないのに、悩むだけ損だよ」
元々がポジティブ思考の祐衣らしい考え方だ。
「そうですね。祐衣姉さんの言う通りかもしれません」
「よし、これで悩み解決だね! で、イベントだけど、どう? 百合アンソロを出そうと思っててさ。蒼衣にも参加してほしいんだよね。蒼衣も来年は三年生だし、まだ描く余裕があるうちに描いておくのも悪くないでしょ」
来年から蒼衣は受験生になる。漫画など描いていられない。ならばまだ描けるうちに描きたい。
「それで、どんなアンソロなんですか?」
蒼衣はさっきまでの浮かない顔が嘘のように、目を輝かせている。やはり好きなことには自然と心がわくわくとするものだ。
「テーマは『王子様』」
「百合ですよね?」
「そう。もちろん百合なんだけど、女子校の王子様って定番なネタでもあるし、前に知り合いにリクエストもらったこともあって、やってみたくてね。蒼衣は興味ない?」
蒼衣が描く百合は女の子らしい可愛い少女たちの恋がほとんどである。振り返れば王子様的な女の子は描いたことがない。
「私に描けるかどうか⋯⋯。でも何事も挑戦してみないと、分かりませんよね」
たまには普段描かないものに手を出すのも悪くないと思い直す。
「学校にいない? 王子様みたいな子。私が星花に通ってた時は何人かいたけど」
「確かにそういう子もいますけど⋯⋯」
クラスメイトにもそんな子がいたし、隣りのクラスにもいた気がする。
女子校という男性がほぼいない世界で、中性的な女の子は時に王子様という存在になることもある。女性だからこそ出せる、物語の世界に住まう王子様のような女の子たち。
「モデルになりそうな子が蒼衣の身近にもいそうだね。どうしても描けそうもなかったら諦めてもいいから。取り敢えず、王子様な女の子が出る百合を考えてみてよ」
祐衣の言葉に蒼衣は頷く。
明日学校に行ったら、探してみよう。星花女子学園の王子様たちを。
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