第6話・オトメゴコロがわからない
「古城? どうした、こんなところで」
灯里は屋上へと続く階段から降りてきた。
灯里と会う前に雅とすれ違ったから二人で話していたのかもしれないが、雅はスキップしながら降りて来たのに対し、灯里の足取りは重く、彼女自身は俯いている。
「古城、何かあったのか?」
どうしたのだろうと気になった尊が声をかけると、灯里は顔を上げて尊を見つめたが、今にも泣き出しそうな表情をした。
「こ、古城?」
尊は灯里の泣き出しそうな表情に驚いた。
尊の顔を見て、今の自分の表情に気付いたのだろう、灯里は、
「な、何もないですよ?」
と言って首を横に振り、無理矢理作ったような笑顔でしとやかに深々と頭を下げると、尊の前から立ち去った。
「な、何もないっていう表情じゃねぇだろうっ……」
灯里の様子に、尊は彼女に何かがあったという事を確信していた。
ただ、何があったのかまではわからない。
ここで彼女を追いかけて問いただすことも出来たが、尊はそれを堪えて彼女の華奢な背中を見送った。
灯里に何かがあったという事は、確かだろう。
一体何があったか……考えられる事は、いくつかあった。
その一……尊とは別の、他に好きな男が出来て、その事で悩んでいる。
「いや、有り得ねぇ……」
尊はすぐにその考えを却下した。
例えば彼女に尊を諦めるという選択肢があったとしても、子供の頃からずっと自分を想っていた灯里が、今さら別の男を好きになるはずがないと尊は思っていた。
だから、他に好きな男が出来たというのは、まずないと思っていいだろう。
その二……勉強の事。
「多分、違うな……」
灯里は高校三年生……受験生でもある。
だが、勉強の事で悩む必要なんてないほどに、灯里の成績は良かった。
彼女が望み本気で勉強さえすれば、どの大学でも受かるだろう。
その三……家の事。
「これは有り得るな……」
はぁ、と尊は息をついた。
灯里の家庭環境は複雑だ。
彼女は財閥令嬢でありながら、子供の頃に父親から出来が悪いと家を追い出され、叔父の家で育つという複雑な過去を持つ。
もしも家の事で彼女が何かを悩んでいるのだとしたら、この問題に関しては、尊はあまり役に立てないかもしれない。
近い内に聡に連絡を取ろうと尊は思った。
そして、その四……安藤当麻という男の事。
灯里は安藤当麻という男に言い寄られていた。
年齢は灯里の従兄である聡と同じ年で尊よりも一つ年上で、灯里の父親が経営している大会社と張り合う大会社の御曹司だ。
結婚を申し込まれた灯里はそれを拒み、灯里の父親からその旨当麻側にも伝えられたが、当麻はどうしても灯里を諦められないらしく、灯里に付きまとっていた。
灯里には出来るだけ仲の良い正志や卓也と一緒に居るように言い、聡と尊で気をつけてはいたのだが、またあの男が灯里の周りに現れ始めたのかもしれない。
尊は当麻の件が一番有り得そうだと結論づけた。
ただ、灯里が暗い表情になる前に一緒に居たのが雅なのが気にかかる。
暗い表情の原因が当麻だとしたら、雅は全く関係ないからだ。
尊は、まさか自分が雅の事を好きなのだと灯里が思い込んでいるなんて、全く思いつかなかった。
「古城!」
授業が終わり、帰ろうとする灯里を尊は呼び止めた。
人の通りが少ない階段の踊場へと手招きすると、灯里は尊を少し寂しそうな目で見つめ、ついてきた。
「あのよ……ちょっと確認してぇ事があってよ……。あの当麻ってやつの事なんだけどさ……」
尊がそう言うと、灯里は驚いた表情をして首を傾げた。
「あ、あの……当麻さんが……どうかしたんですか?」
「い、いや……あいつ、最近お前の前に現れてるのかなって思ってよ……。ほら、お前、さっき暗い表情をしていたし、何か困った事でもあるのかなって……だから、あいつがまたウロチョロしてんじゃねぇかって思って……」
「先生……」
尊を見上げた灯里の目が潤んでいたのは、気のせいではないだろう。
彼女の黒曜石のような美しい目は、潤みを帯びた事も手伝って、いつもより余計にキラキラとしていた。
キラキラした目で見上げられ、どくん、と胸が大きく鳴る。
好きな女に潤んだ目で見上げられるというのは、ただでさえ可愛い彼女がさらに可愛く見えて、かなりドキドキするものだ。
「先生、優しい……優しい、ね……」
そう呟いた灯里は、キラキラした綺麗な目からぽろりと涙を零した。
「そ、そりゃ、先生だから、よ……」
本当は灯里が好きだから、なのだが、尊はその真実を飲み込んだ。
今はまだ必要以上に彼女に近づくわけにはいかなかった。
彼女のためにも、彼女が卒業するまで、一定の距離を保つと決めたのだ。
だけど尊は知らなかった。
今の答えが、灯里の胸が痛むくらい切なくさせてしまった事に。
「そ、そうですよね……。先生だから、ですよねっ」
「古城?」
様子がおかしいと思った時には、灯里は両の目からぽろぽろと涙を零していた。
泣きながら俯いた灯里に尊は手を伸ばしかけたが、彼女は素早く涙を拭って顔を上げると、
「本当に、大丈夫です……。当麻さんは、今回関係ありません。し、心配かけて、ごめんなさいっ」
と尊に深々と頭を下げた。それから、
「じゃあ、失礼しますっ」
と言って灯里は尊の前から立ち去ろうとする。
当麻が原因ではないにしろ、灯里に何かがあった事は確実のようだった。
「古城! ちょっと待てよ!」
尊は階段を降りようとしていた灯里の手を掴んだ。
尊に手を掴まれた灯里は驚いたのだろう、バランスを崩す。
このままだと彼女は階段を転がり落ちてしまう――。
「こ……古城っ!」
尊は掴んだ彼女の腕を慌てて引き寄せた。
大切な彼女の身体をしっかりと抱え、ほっと息をつく。
抱きしめた身体は細く、そして柔らかだった。
予想を軽々と越えていった大きさと柔らかな感触に、尊は頬を染め、それを誤魔化すように彼女に声をかけた。
「悪い、古城。大丈夫だったか?」
尊が聞くと、彼の腕にすっぽりと収まった灯里は、小さくこくりと頷いた。
彼女はゆっくりと顔を上げ、尊を見つめる。
耳まで赤くして潤んだ目で尊を見つめる彼女に、尊の胸は再び大きく鳴った。
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