第4話・灯里のピンチ
日曜日、午前中バスケットボール部の練習に顧問として付き合っていた尊は、午後からどうしようかと思いながら自転車に乗って学園を後にした。
尊は森苑学園まで、自転車で通勤している。
今尊が一人暮らしをしているアパートは、森苑学園のある駅から電車で二駅という距離なのだが、電車で通勤せずに彼は自転車での通勤を選んでいた。
身体を動かすのが苦ではないから、トレーニングがてら毎日学園まで走って通うという事も考えたが、もしも寝坊した時の事を考えると、自転車の方が良かったのだ。
ちなみに雨の日は電車で通勤なのだが、時間に余裕がある時は学園まで歩いて通っていた。
さぁ、これからどうしようか。
どこかにぶらりと出かけてもいいのだが、家に帰って溜まっている洗濯でもした方がいいだろうか。
こんな時、彼女が居ればいいのにと思うのだが、教師である自分はまだ想い人に告白するわけにはいかない。
そう言えば休みの日には灯里は何をしているのだろう。
ふと思い立って、尊は彼女の家の方へと向う事にした。
もしかすると、偶然会えるかもしれない。
「あ……」
十年前、初めて灯里と会った公園を見つけて、尊は笑みを浮かべた。
あれから十年……一人ぼっちでブランコに乗って俯いて泣いていた小さな女の子に、恋する事になるなんて、あの日の十六歳の尊は夢にも思っていなかった。
あの時灯里に声をかけたのは、暗い表情で俯いて泣いている姿が気になったからだった。
子供は笑って過ごす方がいい。
そう思い尊は少女に声をかけ、これからどうしたらいいのかわからないという彼女に、半分励ましの、半分気まぐれの言葉を送った。
一緒に過ごした時間はホンの一時間ほど。
だけどあの出会いは、互いの人生の大きな転機になったのかもしれなかった。
あの出会いがなければ、自分は教師になろうと思わなかったかもしれないし、灯里だって暗い表情で俯き泣き続けていたかもしれない。
真面目な灯里の事だから、きっと何事にも一生懸命に取り組んで、今の彼女になったのだろう。
そう考えると尊は彼女の健気さと一途さに感動せずにはいられなかった。
「っ……!」
誰かの悲鳴が聞こえたような気がして、尊は辺りを見回した。
聞き覚えのある声だった。
尊は耳を澄まし、声の方向を確かめそちらへと走り出す。
「いい子だから、さぁ、灯里、僕と一緒に来るんだ!」
「止めてくださいっ! もう、いい加減にしてくださいっ!」
公園の入り口で、灯里が細身の男に腕を掴まれていた。
彼女は必死に男の手を振り払おうとしているのだが、男は灯里の細い腕を掴んで放そうとはしない。
「あ……古城!」
尊は灯里の元へと駆け寄ると、彼女の腕を掴む男の手を引き剥がし、灯里の細く小さな身体を自分の背中に庇った。
「たけ……新堂先生っ!」
灯里が尊の背中にしがみつく。
灯里の身体はガタガタと震えていた。
「古城、大丈夫か?」
と彼女に声をかけて、尊は目の前の細身の青年を睨みつける。
尊と同じように、青年も尊を睨みつけていた。
「誰だ、お前は」
「俺は、あ……古城の担任の先生だよ! お前こそ、誰だ!」
そう言いながらも、この青年が聡言っていた男なのだろうと尊は思った。
目の前の細身の青年は品の良いスーツ――おそらく有名ブランドなのだろう――を見事に着こなしている。
多分、王子様系と呼ばれる美形なのではないだろうか。
だが、灯里は見るからにこの青年に怯え、拒絶していた。
「僕は、安藤当麻……いずれ灯里の夫となる男だ」
「夫?」
どういう事だと、尊は灯里を振り返る。
灯里は尊を見上げたまま、必死に首を横に振った。
「あのお話は、父からそちらのお父様へと正式にお断りしたはずです! あのお話は終わったはずです!」
「あぁ、断られてしまったね。だけど僕は、どうしても君を諦めきれないんだ。僕という人間をちゃんと知ってもらえれば、君は必ず僕を選ぶはず……だから今日、僕という人間を君に知ってもらうために、君をデートに誘いに来たんじゃないか」
「だから、もうお断りした話なのにっ!」
二人の会話から、正式に灯里の父親が断った事により、当麻の求婚の話は終わっているはずだが、当麻だけが灯里を諦めきれずに彼女の元へと現れたという事を尊は理解した。
そして灯里が嫌がっている以上、当麻の存在が彼女にとって良くないものだと認識する。
「古城は嫌がってるぞ。アンタもいい大人なんだから、しつこく言い寄るのはやめろよ」
「安月給の教師ごときが何を言う。灯里と僕は結ばれる運命にあるんだ。身分も家柄も、互いに申し分のない最高のカップル……いや、僕達は最高の夫婦になるんだ……」
「い、嫌ですっ……私は、私にはっ……」
震えながら尊のシャツを掴み、灯里が言った。
振り返ると、彼女は俯いて必死に首を横に振り続けていて、泣いているのだろう、ぱらぱらと雫がアスファルトに落ちる。
尊は当麻に視線を戻すと、灯里の姿を当麻から完全に隠すように立ち、言った。
「コイツ泣いてるからよ……とりあえずアンタ、今日は帰ってくんねぇか」
本当なら二度と灯里に近づくなと言ってやりたかった。
だが、尊はそれを堪え、なるべく冷静に言葉を発した。
二度と灯里に近づくなと言って、逆上されたら堪らない。
灯里に対するこの男の行動がさらにエスカレートする可能性だってあるのだ。
「わかった。では、今日のところは引き下がろう。じゃあね、灯里」
当麻はそう言うと、運転手付きで待たせていた車に乗って、大人しく帰って行った。
当麻が乗って去っていった車を見つめながら、もしも自分が近くに居なければ、灯里は無理やりあの車に連れ込まれていたのではないかと思い、尊はゾッとした。
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