【四.二つ目の試練】
「ふぅーっ」
私は早々に一冊分の推理小説を読み終わると、その安堵と読後の余韻から思わず溜め息をついた。
普段なら、丸々一冊の文量を数日ほどかけて消化するところを、読み急いでいたこともあってか、たった数時間かそこらで読み終えてしまったのである。それだけ気が急いていた証拠はいわずもがな。それだけ切羽詰まっているとも言える。
「もしも、これに倣っているのならば、今回のこのツアーも……」
“私”はそう言いかけて、最後まで口にすることを躊躇していた。
実際、ここに書かれていた内容は、今の私の状況と酷似していたからである。
登場人物の有り無しや、そこに到るまでの過程の違いはあれど、私はこの著者によって
既に男女を模したマネキンは殺めてしまっている。
この後、私を待ち受けているのは食事時に起こるシャンデリアの下敷きか、あるいは死体を切り刻む偽装死か、あるいは……。
「これから起こるであろう予備知識をこうして得られたことは、収穫が大きいな」
私は心構えとともに、自分を奮い立たせる意味合いでそんな言葉を口にする。本来なら、このままどこかへと逃げ出した気分だが、海の上ではとても助かる見込みはない。
コンコン。
――と、突如として部屋のドアがノックされ、ベッドに仰向けになっていた私は飛び起きた。
もしかすると、この催し物の主催者か、はたまた件の著作者が私を尋ねて来たのかもしれない。
「ゴクッ……だ、誰だっ!!」
「…………」
私は勇気を振り絞って、そうノックの主に声をかけてみたが、生憎と返事は無かった。
一瞬、この部屋に閉じこもることも考えてはみたものの、この船自体が相手の
このまま反応を示さなければ、就寝の際、寝首を掻かれる可能性も十分あった。
音もなくドアまで忍び寄り、そっと耳を押し当て外の音を拾おうと画策する。
「…………」
先程のような人工音は今は聞こえず、廊下はシーンと静まり返っている。
鍵とチェーンロックを外すと、ゆっくりと音もなくドアをわずかに開け、外の様子を盗み見る形で覗く。
廊下には誰も居らず、人の気配は皆無であった。
だが、先程まで私の部屋の目の前には確実に人が居たことの証明になる。これが人でなければ、ノックなどするわけがないのだから……。
そして誰も居ないことを確認した私は、勇気を振り絞って廊下に出てみることにした。
「だ、誰か居るんだろっ! 姿を見せろっ!!」
強がりから、誰も居ない廊下に響き渡るよう大声を張り上げてみる。
これは私なりの虚勢だった。本当に柱の影から誰か出て来ないかと、内心では焦りに焦っていた。
どこかへ向かうことも考えたが、今は部屋に引きこもる方が安全と言うもの。
そして部屋に戻ろうとして、それに気づいてしまった。
『映画の準備が整いました』
――という文言が私の目に映りこんできた。
「私にコレを教えたくて、敢えて危険を冒してまでノックをしたのか」
小さなメッセージカードがドア中央付近にセロハンテープで張られ、私は奪い取る形でドアから引き剥がす。
これまでと同じく、明確な指示だけが書かれている。
本のこともあったが、それでもこの指示には従わなければならない。
なんせ、この船には私だけしか乗っておらず、他に登場人物も現れていない。
もし殺される人物がいるとしたら、それは私のほかにいない。
きっと、最初から私が本を最後まで読むことまで計算に入れられているはずなのだ。
でなければ、自ら存在を知らせるため、ああしたドアノックなどという手法を取るような真似事はしないはず。
つまりこれから向かう映画シアターとやらには、“それだけのことがある”ということに他ならない。
あの本には映画なんて単語は出てきたことがない。ここからは私の知らない未知の体験を強いられることになるだろう。
ただ映画を見て終わりなんてことはありえない。
それは私でなくとも、容易に予想がついていた。
「とりあえず、行ってみるか。行かなければ、何も始まらないしな。それにどうせ暇を持て余していたところだし」
これが罠だと理解しつつも、私は指示書に書かれた、ここより一つ上の階にある映画シアタールームへと向かってみることにした。
その道中、いつ襲われても良いようにと角々や柱の死角に注意しながらも進んでいく。
生憎と、その予想は大きく裏切られ何事も起きないまま、映画シアタールームへ辿り着いてしまった。
自分の身を考えるならば、何も起こり得なかったことは喜ばねばならない。
「ただいま上映中……」
先程ここを訪れた際、こんなものは書かれていなかったはずだ。
なのに、今は予定時間に項目としてのそれがマグネット式の磁石でA4サイズのコピー用紙が貼られている。
だが、何の映画を上映しているかまではどこにも書いていない。
きっとそれも、仕掛けのうちの一つなのかもしれない。
ギィィィィーッ。
朱とも紫とも言えぬ、濃い目の防音のための凸凹が付いた扉を開け放ってみる。
すると、中ではスクリーンに光こそ当てられているが、何の映画も映し出されてはいなかった。
「なんだ……何も上映されていないじゃないか」
またもや何か起こることを期待していた私の思惑は裏切られた。
ただ中は暗く、全体を見渡せるほどではなかった。
もしもここで襲われてしまえば、私には成す術がない。
「っ!? ひ、人……か」
見れば前列中央付近に椅子に腰掛けている人の姿を見つけた。
だがしかし、遅れた思考からはそれが人を模したマネキンだと嫌でも気づいた。
映写機のカラカラと空回りする音とともに、光がその人物へと当たり、まるで舞台女優が浴びるスポットライトような白なる表情を見せていた。
「いや……あれはマネキンだな。それも遊技場で見たものと同じか」
そのマネキンにはご丁寧にも、ワンピースに帽子が被されていたのである。
私が遊技場でその頭を打ち抜いた紳士の片割れ。
もしあの場で彼女の頭を弾いていたら、ここへ居たのは彼だったのかもしれない。
「マネキンとはいえ、悪趣味にも程があるぞ」
中が薄暗いため、一瞬ではマネキンのそれと判断できるわけがない。
もしかすると、その反応こそが相手が望むものだったのか、何も映し出されていなかったスクリーンに突如として画が飛び込んできた。
予告もタイトル見出しもないまま、唐突にも映画は始まる。
「これが……犯人の正体なのか?」
そこに映し出されたのは、年端もいかぬ少年だった。
顔はよく見えないが彼の幼き頃から映し出されていき、ごく普通の家庭で撮られるようなホームビデオのようでもあった。
たった数分の間に次々と場面は変わっていき、そして彼が高校に入ってからそれまでの仄々とした日常物語から一変することになる。
彼は学業の合間に好きだった読書を止め、自分でも小説を書くようになっていた。
その内容はなんのことはない、ただの密室殺人を主体とした推理小説である。
それがたまたま出版社の目に留まり、彼は十七歳になるとほぼ同時にプロの小説家となっていた。
けれども小説家とは一見する華やかさとは違い、とても堅実な仕事とは呼べない。
それは彼の小説が世に出され、まったく売れなかったということを見ても証明されていた。
彼の両親はこう語りかける。
『どうせお前は売れない推理小説家のまま人生を終える。今ならばまだ遅くはない。大学へ行け。そして私のように平凡で慎ましい人生を歩め』
――と。
それは彼のことを心配する父親の姿であり、優しさを持つ母親の姿でもあった。
だが、彼は逆に意固地となり、両親の言うことを聞き入れようとはしなかった。
そしていつしか、自分の小説が売れないのは両親が邪魔をしているものと被害妄想を始める。
学校にも行かず、自室に引き篭もってしまい、次第に誰の言うことも聞かなくなった彼の元へ、彼自身が自らを指し示す一人称の“私”という人物が現れ始めた。
“私”は常に彼の傍に居り、その都度その都度的確なアドバイスをしてくれる。
それまでスランプに陥り、一文字すら書けなかったはずなのに、“私”という存在が彼の元に現れてからと言うものスラスラと筆が進むようになっていた。
その原稿を出版社の担当に送ると、こう言われた。
『トリックが弱い。これでは現実味に欠け面白くない』
――と。
その返答に彼は憤った。
当然だ。一冊分の物語を書くというのは、並大抵の努力で出来るものではない。
それこそ血の滲む思いと努力で仕上げる。なのに、一言二言でそれを一蹴されてしまえば、彼でなくとも憤るというもの。
このことを両親に告げてしまえば、本当に自分は小説家になる夢を諦めなければならない。
それだけはなんともしても阻止しなければならない、と彼は決意する。
だが、そこでふと、彼は気づいてしまう。
何故、自分の小説はトリックが弱いのか、また現実味に欠けるのか――と。実は何のことはなかった。
物語とは、その人自身の知識や実際にしてきた経験が基になっている。
それに囚われているうちは、普通を脱することなんてできやしない。延いては小説家と言うヤクザな商売を生業にすることは実質不可能。
ならば、どうするのか……。
「そうだ、実際にしてしまえばいい。それならば誰にも文句を言われない小説を書くことが出来るはずなんだ」
――と、彼はついにそれを行動へと移すことにした。
手近で殺人におけるトリックを試せる相手は二人しかいなかった。
そう、それは彼の両親である。
彼のことを心配し、身を案じてくれる両親。
しかし、そこで彼はこの計画の大きな穴に気づいた。
それは自分がまず容疑者として疑われてしまうということだった。
当然と言えば当然だ。家族三人のうち二人が死ねば、真っ先に疑われるのは残った一人だけ。それも家の中で起こってしまえば、周囲は愚か警察から疑いの目は避けられない。
家に押し入った強盗の犯行に見せかけることもできるが、それだけでは殺人が成立するだけで何のトリックも生み出すことは出来ない。
……ともなれば、意図してそうなるように仕向けるか、あるいは自らも被害者となるかである。
完全犯罪を成し遂げるには、自ら容疑者から外れることが一番だ。だが、それは何にも勝る難しいことだ。
家の中だけで完結してしまえば、容疑者など生まれるはずがない。
なら、不特定多数が生まれる外ならばどうだろうか? 旅行先ならば、事故として処理できるかもしれない。
彼の頭の中で様々な考えが生まれては消えを繰り返し、そして彼はついには一つの答えを導き出した。
「ここで豪華客船なのか……」
単純だった。
船の上は外からの干渉を排したある意味密室である。海へ突き落とせば、容易に遺体は捜索できない。
ただ懸念があるとすれば、ツアーという名目では多くの人が同じ船に乗船することを意味している。まさか数十数百にも及ぶ人々を自分一人で殺害できるわけがない。
だがそこで、幸運なことが起こる。
それは著名なミステリー作家が催す豪華客船上でのミステリーツアーというものだった。
彼もその作家の名を知っており、また同じ出版社から本を出版しているため、ただの一度だけ面識があったのである。
その作家のファンという名目で、どうにかそのツアーに両親ごと乗船できないものかと考え、自分の担当へミステリーツアーへ両親を招待したいと必死に頼み込んだ。
とても渋い顔をされてしまうが、どうにか捻じ込むことに成功する。
これで場所の準備は整った。
あとは自分が考えたものを実行に移すだけである。
それに伴って何か武器か薬物を用意しようと考えたが、そもそも出版社主催のツアーなので港で荷物を調べられる可能性も十分考えられる。
それにミステリー作家やそのファンということは、自分よりも断然格上の相手だ。
もし途中で見破られでもしたら、意味がない。
結局、彼は何も道具を用意することもせず、彼と彼の両親は他の招待客と同じく普通にツアーへ参加することになった。
あくまでもミステリーツアーなので特に目的を告げられることなく、彼らは早朝の横浜の港に集まり、乗船したところで船は動き出してしまった。
「横浜港……」
彼と彼の両親は不信に思ったが、出版社主催という言葉とミステリー作家が主催するミステリーツアーということもあってか、これもツアーの一環だと納得し、特に騒ぎ立てることはなかった。
だが船内を見回してみても他の読者ファンは愚か、船乗員に到るまで人っ子一人姿を見せなかったのである。
若干の不安に駆られつつも、縦看板に書かれた指示と鍵を得て、各々割り当てられた部屋へと導かれる形で誘われる。
彼の部屋はA-17、両親は別でA-18であった。
「A-17とA-18」
一人になった彼はこれからどのような催しがあるのかと、期待に胸を膨らませる。
なんせ相手は名の売れた作家。
この経験すらも、自分の糧になるのだと本気で思い込んでいた。
部屋の中では特にすることも無いので、彼は両親と顔を合わせることなく、船内を探索することにした。
展望デッキや食堂、それに売店や遊技場と映画上映場など、自由に出入りできるところは行ってみたのだが、どこにも人の姿形を見つけることはできなかった。
そして船内を包み込む静けさと不気味な雰囲気に飲み込まれてしまい、彼は両親の部屋であるA-18号室を訪ねてみることに。
コンコン、コンコン。
何度ノックしてみても、部屋に両親は不在なのか、誰も応えてはくれない。
もしや両親にすら自分は見捨てられてしまったのかと思い、彼は途方に暮れてしまい、自分の部屋へと戻って行く。
――すると、部屋のベッドに小さなメッセージカードがあることに気が付いた。
彼はこの部屋を出る際、確かに鍵をかけたはずだ。
それなのに……私はそこで嫌でも気が付いてしまう。
何も鍵は一つとは限らない。
スペアもあるし、持ち合わせている人間はこのツアーの主催者だけだ――と。
そこで彼は指示されるがまま、遊技場へと向かうことにした。
「遊技場……」
遊技場で彼を待ち受けていた者。
それは背を向かい合わせで椅子に縛られ目隠しをされた両親の姿だった。
一瞬、何が起こったか分からなかった。
彼の目の前にあるテーブルにはこう書かれていた。
『お前なら、どちらを選ぶ?』
――と。
そして同じくテーブル上には、古めかしい銃が置かれていた。
つまりこの銃を使って、どちらか一方を殺せと暗に指示されている。
彼は悩んだ末、父親を撃ち殺すことにした。
目隠しをされ口には
しかも指示書に書かれていた言葉を口にしてしまったため、その内容も声も両親の耳には届けられているはずだ。
両親は自分達の子供に殺される恐怖に怯え、身体を震わせ、目隠しの隙間からは涙が流れ出していた。
そして彼は徐に父親の頭に銃口を当て、引き金を引いてしまう。
途端、パーンっと、乾いた音が部屋中に響き渡り、火薬のような臭いが彼の鼻に届けられた。
だが、不思議と人を殺した感触は得られなかった。
翌々倒れたモノに目を向けてみれば、父親だったモノが、実は白無垢のマネキンだったのだ。
なんてことはない、彼は父親ではなく、マネキンを撃ったにすぎなかった。
そうして“私”の声が聞こえてくる。
『まだもう一人、そこに座っている』
――と。
彼はその声の指示に促されるまま、母親らしきマネキンの頭にも銃口を突きつけるが、生憎と銃に込められていた弾は一発のみだった。
彼は急ぎ、遊技場を出て廊下の近くに非常用にと設置されていた手斧を見つけて戻ると、もう一人のマネキンの首を刎ねた。
またもや、何の手応えは得られない。
その代わりとして、何か達成感のようなものが得られたことを自覚したのである。
だがしかし、何も起こらなかった。
ただ床にマネキンが二体転がっているだけでしかない。
彼は虚ろな目をしたまま、部屋へと戻って行く。
――すると、またベッドの上に置かれたメッセージカードを見つける。
次は食堂へ行けとの指示らしい。
彼は何も口にせず食堂へと足を運ぶと、テーブルには湯気が立ち上る肉料理が置かれていた。
お腹を空いていた彼はそれを無我夢中で食した。
すぐに食べ終わり、一体自分が何の肉を食べていたのかと遅れて疑問に思った。
極上の脂身を持った肉質は、これまで口にしたことのない味だった。
もっと食べたいと、彼は厨房へと無意識にも誘われ、食材の正体を知る。
それは彼の両親の肉だったのだ。
解体されたそれらが、調理台の上へと置かれている。
『なんだ……まだ
彼は生のまま、それに噛り付いた。
「う、うぐっ……ごぼぼぼぼぼっ」
私はそのあまりに残虐な内容に思わず、ここが映画シアタールームだったことも忘れ、胃の中のものをすべて吐き出してしまう。
こみ上げる吐き気と胃酸に不快感を覚えてなお、胃の中を空にしようと吐き続ける。
「はぁ……はぁ……」
ようやくすべての異物を吐き出した私は、息も絶え絶えになってしまう。
この映画内容が果たして何を指し示していたのか、視覚的にも理解してしまったからだ。
そんな私のことはお構い無しに、スクリーンは物語の続きを映し出していた。
その後、彼は警察に事情聴取されていた。
だが彼が口にしたのは、撃ち殺したのは父親ではない。
斧で首を刎ねたのは、母親ではない。
どちらもマネキンだ。
食堂で食べた肉も、何の肉かは分からない。
彼は問われるがまま、そう答えた。
連日に渡って呼び出された彼は警察の事情聴取を受けてもなお、口にするのは同じことの繰り返し。
その後の裁判においても、彼自らの精神鑑定の申し立てを申請する。
専門家の見立てでは、彼は未成熟な身体と心に過度な精神的負担を要されたために精神的疾患を患っている。
また彼が両親を殺してしまったかもしれないと、警察から再三に渡り執拗なまでの事情聴取を受けたことによる過度の心的負担を強いられたため、心神喪失状態であるとし、その後の裁判の判決においても責任能力は問えないと判断された。
また彼自身の年齢がまだ十七歳という未成年も考慮されてか、医療観察処分を経て病院へと入院することになる。
そして場面は移り変わり、彼の診療記録がスクリーンに映し出された。
彼の担当医によれば、患者A-17(仮称)は外部による過度な心的疲労を受けると、まるで別人になってしまったかのような振る舞いを見せると書かれていた。
またその性格は酷く理性的で口調も静かになり、人が入れ替えられたのではないかとの診断が下されている。
つまり彼は心に負担を感じると、自らを守る防衛本能から人格が入れ替えられるということらしい。
専門的には解離性同一性障害、一般的には多重人格障害とも呼ばれる精神な病だった。
彼の場合、特質すべきはその人格である。
通常ならば、二人以上の人格が現れることが一般的であるが、彼の場合には、一人だけ。
それも一人称は“私”と名乗り、自らの名を明かすことはなかったのである。
そして担当医がこう尋ねた。
君の両親を殺した犯人を知っているか――と。
彼の中の“私”は一度頷いた後、その名を口にする。
「
――と。
そう告げられた担当医は渋い顔をしてから、もう一度だけ犯人の名を尋ねるが、出てくる名は柏木速人、ただ一人だけである。
柏木速人――それは彼が小説を書く際、用いているペンネームだった。
しかも彼がその名で出した本はただの一冊。
その小説の題目名は――。
「……完全犯罪者の作り方」
“私”は思わず、スクリーンに映し出された一冊の本のタイトルを呟いてしまう。
そして無意識下でショルダーバッグに右手を突っ込み、その本の感触を確かめる。
そうすることがまるで“私”の責務であるかのように、また従順に……。
数ヶ月の後、彼は退院することになった。
精神疾患により無罪になったとはいえ、保護観察処分で彼は自宅待機を余儀なくされる。
だが、彼に平穏の日々など待ってはいなかった。
親殺しのうえバラバラにして食人にも関わらず、無罪になってしまった少年などと、マスコミの格好の餌食として取り上げられ、雑誌やテレビなどで連日連夜に渡って、彼を執拗に取材、毎日のように自宅に押しかけていた。
そしてマスコミ各社は彼が未成年であったことも考慮してか、少年A-17歳と称して報道したのである。
いわゆるこれが後に『A-17事件』と世間から呼ばれるものであり、未成年による両親殺害と遺体をバラバラに刻んだ後、調理し自ら食した少年は日本中のお茶の間に話題を提供し続けた。
テレビ番組のコメンテーターや雑誌に掲載された評論家の意見では、「彼がまだ未成年であること、そして精神病を偽ることで、両親を殺し食べても無罪になることを証明した! 模倣者が必ず現れる!!」などと囃し立て、彼を更に追い詰めることになる。
だが皮肉なことに、彼に手を差し伸べる者達が現れる。
それは彼の小説を出版した出版社であった。
あろうことか、出版社は少年に対してノンフィクションと銘打ち、事件そのものを題材として描いた小説を書いてみないか、と彼に話を持ちかけてきたのである。
もちろん最初は彼も一言返事で断りを入れる。
事件を思い出したくもないし、警察だけでなくマスコミに執拗に追い詰められた日々、また両親のことを思い出してしまうからと、何度も何度も断る。
けれども諦めの悪い、彼の元担当者だった男が「もし本を今出せば、必ずベストセラー作家になれる。ベストセラー作家になることが君の夢だったろ?」と悪魔の囁きをする。
すると、彼はもう自分のは失うものはないからと、とある条件付きで、本を執筆することにした。
その条件とは、ジャンルはノンフィクションであるが、事実ではないという一文を入れることであった。
そしてタイトルも自分で決めると言い出した。
彼の元担当だった出版社の男性は、「それで出版できるなら……」と、その条件を飲んだ。
その日から、彼は何かに取り付かれたかのように朝も昼も夜も関係無しに、小説を書き続けた。
何も邪魔するものが無くなった彼にとって、小説一冊分の文量である15万文字前後など、一睡もせずに書ける程度の話。
それが仕上がったのは、彼が依頼を受けてから四日目の早朝のことだった。
その数日後、出版社に彼が書いたと思わしき、小説が送られてくる。
元担当の男性はすぐに電話連絡を入れるが、いつまで経っても彼と連絡は取れなかった。
それから更に数日後、元担当の男性はあるニュースで彼の名を目にする。
そこには『A-17の少年、失踪』という見出しが躍り出ていた。
どうやら彼は、小説を書き上げた後、行方を眩ませてしまったようだ。
元担当者の男性は、送られて来た原稿を出版するかどうか迷うが、上司からの命令により、出版することに決めた。
著者である彼が失踪しているため、内容などを変更するわけにも行かず、誤字脱字などの簡単な改稿をした後、無事出版された。
その本には、このようにタイトルが添えられていた。
『ただ一人だけの完全犯罪者』
その本の帯には、『あの世間を騒がせた事件の真相を当事者本人が克明に語る!』などというマスコミ受けが良い文字が躍り、またノンフィクションの文字面も、彼らのジャーナリストとしての欲望を刺激した。
その結果、本は売れに売れ、兼ねてより彼が夢見ていた百万部の売り上げを達成したベストセラー作家となったわけなのだが、本人の行方は未だ知れず……というところで、二時間に渡る映画は幕を閉じる。
「…………」
私はその映画の内容を目の当たりにさせられ、言葉を失っていた。
もしもこのツアーを企画し、主催しているのが彼ならば、私は意図してここへと誘われたことを意味している。
またそれが意味するところ、それは私自身の身が今まさに危険に晒されていることでもある。
だがそれと同時に、拭いきれぬ違和感が生じていたのである。
「そもそも論として、これは事実に起こった物事なのか? いや、確かにA-17事件というのは、数年前ニュースで話題となっていたから私も知っていることだったが、それでもこの催しものには大きな矛盾がいくつも存在する」
私は誰に聞かせるでもなく、提供された情報を自ら頭の中で整理するため、そのように声にした。
まず最初に先程までスクリーンに映し出されていたものは、あくまでも主観ありきの映画なのである。
つまりそれが意味するところは、大勢の人間が携わりることで成し得た作品の集大成。
――言わば、商業向け作品に他ならない。
これがもし、序盤に映っていたホームビデオのようなチャッチな映像だけならば、まだ納得もできるというもの。
また映画に登場していた人物でさえ、カメラがあることを意識せず、無いものとして振舞ってもいた。
それが意味するところは、彼らはこれが映画の撮影またはそれに順ずるものであると、事前に認識していることを意味してもいるわけだった。
体よく言ってしまえば、ただの商業作品の一つ。
もしかすると、この映画自体、まだ世には出ていないのかもしれない。
それならばなおのこと、私が知らなくとも無理はないと言える。
それだけなく、私がこの船に乗船してからというもの、映画中の彼と同じ行動を取らされたことも、これらすべてが創作物語だと言える、裏付けとなっていた。
(となると、だ。私はもしかすると映画撮影の一コマに仕立てられた可能性もあるな。それならば、この流れにも納得できるというもの。あの古本屋で棚に入れ違いに収められた時点で、すべてが仕組まれていたとも言える。まだ私がコレに選ばれた理由までは分からないが、誰でも良かったと考えれば、理由なんて存在しないのと同じことだ)
私はスクリーンに映し出された物語通り筋書きがなされ、それに沿う形で導かれていると結論付けた。
未だ私を選んだ理由は分からないが、そもそも理由なんて無かったのかもしれない。
あの古本屋で本を見つけたこと……ただそれだけが資格を得たように思えてならなかった。
映画が終わり、暗闇が支配する映画シアタールームを後にすると、この後の行動をどうすればよいのやらと、迷ってしまう。
なんせ、このままだと夕食には人肉を食わせられる可能性もあるし、突如として主催者である“A-17なる少年”に襲われる懸念も出てきた。ただし事件から十年以上の歳月が経っているだろうから、既に少年とは呼べない風体だろうが、それでも私には脅威に違いない。
また彼は自分の作品における犯人が用いたトリックや動機付けの根拠として、現実にそれを実行に起こそうとする傾向にあるのだ。警戒するに越したことはない。
だが、それと同時にこれが彼だけに仕組まれた物事でなく、出版会社や映画会社などの大きな組織が関わっているのではないかと、思うようにもなっていた。
先の映画内容から、出版社は世に出して本が売れれば良いなどと、自己の利益を優先する傾向だとも言える。
もしこれが映画やテレビの撮影ならば、次第に過激へとなっていくはずだ。
むしろそうでなければ、テレビとしての盛り上がりに欠けてしまう。
きっとここいらで、何かしらショッキングな出来事が私のことを待ち受けているに違いない。
「もしそうなら出演者であるこの私に怪我をさせる、あるいは殺される、なんて愚作は取らないはずだろう」
まるで自分自身に言い聞かせる形で、“私”はそう呟いて見せた。
そして、その答えを私自身持っていることに、やや遅れて気づいてしまう。
ショルダーバッグの中へと収められている、あの本のことだった。
彼が執筆したと仮定するならば、トリックなどの傾向が描かれているはずである。
それも処女作ともなれば、惜しみなく彼の理想論が詰め込まれ、何かの参考に成り得るかもしれない。
本来ならば、彼がその次に執筆したという後にベストセラーとなり得た作品、『ただ一人だけの完全犯罪者』というものも読んでみたかった。
映像としての映画からは決して伝わらない“ただの文字”ならば、作者自身である彼の心理描写が克明に描かれているはずなのだ。
今後、私の身に待ち受けてる事案へと、必ず繋がることをも意味している。
私はとりあえず沈んだ気持ちを落ち着かせるため、広々とした空間のラウンジに向かってみることにした。
このまま自分の部屋へと宛がわられた、皮肉にも彼と同じ部屋割りである、A-17号室へと戻る気にはなれなかったからだ。
きっと同じ部屋を宛がわられたのも、映画の伏線の一つであると考えられる。
むしろそうでなければ、偶然にも同じ部屋番号になれるわけがない。
夕暮れも近づき、ラウンジから見える海では、水平線上にある海へと太陽が飲み込まれようとしていた。
あと三十分もしないうちに、外世界は暗闇に包まれていくことだろう。
窓から差し込む夕暮れ時を眺めながら、私は彼の反省を綴った映画内容に思いを馳せる。
彼の苦難の人生に当てられ、“私”は少し感傷的になっていたのかもしれない。
このツアーを主催したであろう彼は、心を病んでいた。
それも最後は人を人とは思わず、また両親でさえも無垢白色のマネキンだと錯覚してしまうほど、彼は人の感情を失ってしまっていたのだ。
もしも私が彼の立場だったならば、どう対処できただろうか?
また彼のような子供を持ってしまった親の立場として、そのような子供を救えることができたであろうか?
彼自身が胸の内を両親に話さない限り、解決の糸口は見つけられないように考えてしまう。
彼が自ら小説を書くようになったのも、世の中がつまらないものだと感じたのが、そもそもの始まりである。
一人息子だった彼はきっと、両親に何でも買って貰える立場であり、生活についても何の不自由なく育てられてきたはずだ。
そんな彼に与えられる楽しみというのは、本でしかなかった。
それも父親の影響で幼き頃から、小難しい小説ばかり与えられ育てられてしまえば、ああなってしまうのも仕方ない一面もあるはずだ。
子供とは、育てられた環境及び両親の影響というものをモロに受け育ち、やがて大人へと成長していく。
その過程にある苦難を乗り越えて初めて、人としても成長できるものなのだ。
それが人によっては受験であり、就職であり、また何か大切なものを失うという世の中の摂理から決して抗うことのできないもので構成されていく。
彼はまだ子供だった。
十七歳という年齢を鑑みても、大人の世界へと飛び立つにはあまりにも早すぎた。
もしも小説の公募で出版社が彼の作品を受賞させていなければ、また別の未来が待ち受けていたに違いない。
だがそれと同時に恐怖のような感情も抱いてしまう。
彼が大人なり、世間の荒波に耐えられたかという点である。
一旦世間に出れば、否応なしに一人の大人として見られてしまう。
それは未成熟な子供であったとしても、そう見られてしまい、結局のところ彼では社会に出ても何かしらの不平不満が溜まり、それが遅いか早いかの違いだけで、人を殺めていた可能性も十分考えられる。
恐ろしいことに、彼のような人間は現代の日本においても、決して少なくはない存在であると言える。
ニュースや新聞を見ても、未成年による殺人事件や自殺など、その情報は毎日のように流れている。
しかもマスメディアが報道する情報は、ホンの一部のことなのだ。
毎日のようにテレビニュースや新聞記事に掲載されている自殺者数から考えてみても、その数は百分の一にも満たない数である。
その裏側では、残りの九十九人が人知れず、何の理由や動機を他人に知られることなく、自殺者として世の中から消え去ってしまう。
そうした小さな綻びが世の中の矛盾へと繋がり、彼のような存在を作り上げてしまっているのではないだろうか?
世の中や社会、また政治や経済を始めとする不平不満は、そのような所から生まれ出のは世の常である。
時代が違えば、革命やらデモをするところだろうが、今はそんな古めかしい時代ではなかった。
また毎日のように過度なストレスを与えられ育ち、いつか心が耐えられなくなってしまえば、今の若者達は用意に突発的な事件を引き起こしてしまう。
高速バスに乗り合わせていた未成年の少年が車内でバスのハイジャックしてみたり、また中学生が近所の小学校へと忍び込み、授業を受けていた児童へナイフや包丁などで次々と襲い掛かり、殺傷する事件も珍しくない。
彼らは社会に対する不満をそうした事件を引き起こすことにより、発散、また無知な国民へと知らしめ、定義しようとしているのだ。
そんな彼らにとってみれば、己の死とはぞんざいなものに他ならない。
なんせ彼らは失うものを持ち合わせていないのだから、それこそ自分の命すらも犠牲の対価と見ている。
これから先、数十年後の日本においても、彼らはいつでも自分の番が回ってくるのを待ち望んでいる。
他者を、自分を犠牲に仕立て上げることで、世間に警鐘と世の中の矛盾を定義し続ける。
それはまるで自分がこの世に生を受けた意味とともに、自らの死ぬ意義と死に場所を求めての行動のようにも思える。
戦時中、日本の特攻隊がしていたように、自らの死を崇高なものだと考え、他者を巻き込みながら死んでいく――。
当時はそれに異議を唱える者など存在し得なかっただろうが、数年数十年後の未来から見れば、意味があったのだろうかと首を傾げてしまう。
私は何故だか、そのように頭の中で理解してしまった。
「(ぶるるるっ)うーっ、寒い。どうやら考え事をしていたら、いつの間にか日も暮れてしまったようだ」
私はこれまでニュースや新聞などで間接的に触れてきた事件のことを考えていると、真っ赤な絵の具を落とし込んだような海肌が今では暗闇へと包まれ、船内も照明が点いていたことに気がついた。
そして寒さに身震いを起こすことで、現実へと引き戻された。
どうやら、ここへ来てから既に三十分以上過ぎてしまったかもしれない。
読書をしている時もそうなのだが、何か一つに集中していると時折、時間も忘れ、没頭してしまうことがある。
だからだったのかもしれない。
私の隣に置かれた“それ”に気づくのが遅れてしまった。
私は近く居る誰かに見られているような、刺す視線を感じ、ふと右横の空いているはずのソファーに目を向けてみる。
――するとそこには……。
「…………」
もはや何が起きても驚かないと、自分で決めていた。
声は出なかったが、それは声を出さなかったのではなく、出せなかったに等しい。
何故なら、私が腰掛け座っているソファー右横には、バラバラに切断されたマネキンの手足を含む胴体のほかに、顔がコチラを見つめていたのである。
しかもそのマネキンは、遊技場に座らされていたあの女性であった。
もしこれを映画の内容に
「っっ」
私は突如として現れたそれに言葉を失い、後ろへと仰け反ろうとする。
だが、ふいにソファーに置いた手に冷たく細長い感触が伝わる。
恐る恐るゆっくりと後ろを振り向けば、そこは私が側頭部を撃った男性のマネキンが女性と同じく胴体手足をバラバラにされ、頭部がコチラに見ていたのだ。
「ひぃぃっ。な、何なんだっ!! い、一体いつからここに!?」
パニックに陥ってしまった私は、どうしてこんなものがここへ置かれているのか、また“私”に気づかれずに置いたのか、その恐怖にと怯える。
何故ならそれは、“私”の近くにコレを置いた人物が居たにも関わらず、私はそれに気づくことさえ、出来なかったからだ。
もしも相手が私に危害を加える気になれば、いつでも出来たことを暗に理解してしまったからだ。
それに男性マネキンの背後に置かれていたノコギリ刃が、照明の光を受けて鈍いまでに反射していることが、より私の恐怖心を煽る。
相手が彼だった場合、ソファーに横たわっていたのは、私だったのかもしれない。
そう考えるだけで、身の毛もよだつ程の震えに襲われ、つい周りを見渡し、誰かが居ないかと探してしまう。
だが生憎と、バラバラに置かれたマネキン二体が私を挟み込む形で置かれているだけで、他には誰も居なかった。
そしてマネキンの意味を知る。
これは彼が映画の中で起こした事案だということに。
彼はマネキンだと思い込んだ、実の両親をノコギリでバラバラにしてから食べた。
これはそれに倣い、私の恐怖心を煽る目的で置かれたと思って、まず違いない。
私は急ぎ、その薄気味悪いラウンジを後にして、部屋へと戻ることにした。
最初こそ、冷静さを装うつもりで、何かを口走りながら早歩きをしていたが、次第に恐怖心と船内を支配する静けさに負け、走り出してしまう。
「はぁはぁ、はぁはぁ」
すぐに息が切れ始め、階段を駆け下りるのにも苦労する。
「おわっ!? ととっ」
慌てたため、足元の目測を誤り、前のめりに転げ落ちそうになったが、手すり手をかけていたおかげか、どうにか踏ん張ることができ、難を逃れる。
そして床に倒れる形で手を着きながらも、どうにか部屋を目指して、転がりながらも走り出す。
傍目から見れば、きっと無様な姿に思えたことだろう。
だが、今の私にそのような自分の容姿を鑑みる余裕はなかった。
そのまま無様な姿を晒しながらも、私の部屋であるA-17号室の前に辿り着くと、鍵を開けるため、ポケットに手を突っ込む。
「な、無い!? 部屋の鍵が、どこにも……確かにポケットに締まったはずなのにっ!?」
私の頭は先程のラウンジよりも、更に混乱してしまう。
確かに部屋を出た際、上着の右ポケットに部屋の鍵を入れたはずだ。
もしかすると、ショルダーバッグに入れたかと思い、床に中に入っているものをぶちまける形で、引っくり返してみるが、鍵はどこにも見当たらなかった。
あれからポケットからは何も出していないし、中に手を突っ込んで入れてみても、どこにも穴のようなものは開いていなかった。
自然と鍵が歩いて、私のポケットを出て行ったわけがないだろうし、考えられることとしたら……。
「あっ……」
そう……それは、あのラウンジだ。
私はあそこで三十分近くも考え事をしていた。
しかも傍に誰かが居た。
この事実から考えるに、その相手は私が物思いに耽っている最中、私の右ポケットに手を入れて部屋の鍵を抜き取った。
それなのに私は、気づきもしなかった。
失態だ……これは大きな失態だ。
触られてなお、私はその人物に一切気が付かなかったのだ。
もしかすると他にも盗まれた物が無いかと、改めてポケットや床にぶちまけられている物を手探るが、特にコレと言って紛失したものはない。
どうやら部屋の鍵だけを奪われてしまったようだ。
「クソッ!! ラウンジに戻るしか選択肢はないのかっ」
私は仕方なしに、再び得も言えぬ不気味さが支配するラウンジに戻ることにした。
――でなければ、唯一安全だと思われる部屋に入ることすらできない。
それにもしこれ自体が相手の思惑通りならば、結局何かしらの事案で調整されてしまうはず。
私にはあのラウンジに戻る以外、選択肢が用意されていないのだ。
慌てて戻った先程とは違い、今度は自らの息を殺して、ゆっくりと進む。
ここまで絶対に姿を見せなかった相手が出てくるはずが無いと思いつつ、自分自身にそう言い聞かせることで恐怖心を拭い去ろうとする。
「……着いた」
ラウンジは私が居たときと同じく、誰も居ないガランとした空間、それと私が腰掛けていた海が見渡せるソファーにはマネキンが左右二体分、置かれている。
あれから私以外、誰も訪れては居なかったのかもしれない。
恐る恐る自分が座っていたソファーに近づき、覗き見ると、ちょうど私が座っていたソファー後ろの隙間に鈍い光を見つける。
「あ、あった。部屋の鍵だ……」
どうやら何かの拍子にポケットから鍵が落ちただけだったのかもしれない。
意図して、まだ見ぬ主がしたことではないと安心すると、なんだか心にも余裕が生まれ始めた。
「このマネキン……変だよな?」
そして見ることすら避けていたマネキンへと目を移してみると、そこで現れたのは新たな違和感だった。
何故なら、バラバラに切断された手足や胴体などの数が、二体分にしてはやけに多いように見受けられたからだ。
頭部は二つ分しかなかったが、これは明らかに二人分以上の残骸にしか見えない。
「ご、ゴクリッ」
喉に痛みを覚えてしまうほどの生唾を飲み込み、私はその意味を知ることになる。
つまりこれは自らの死を偽装した……いいや、それも違う。誰かが意図して『他人の死を偽装している』と結論付けられる。
一見すると頭部が二つなので、二人分にしか見えないが、ご丁寧にも手足の指までバラバラにされていたのである。
だが、爪の部分までは偽装できない。一つ一つ手に取り、マネキンの指であろう爪を見てみることにした。
すると、明らかに一体分ほどの爪が多かったのである。
人一人分の爪の数は手足合わせて、五かける四の二十にならなければならない。
二体分なら、減ることはあっても最低四十枚。
――なのにソファーとその下にぶちまけられている“遺体”の爪の数は四十枚を遥かに超えている。
「誰かが死を偽装している……それをこの私に知らせたかったとか?」
私は相手が私のことを怖がらせる意図ではなく、両親を模したであろうマネキンが実は三人分だったことを教えたかったのではないかと、思い込み始めた。
もしかすると更なる混乱へと導き、悩む私の姿を見て嘲笑いたいと、そのようにしたのかもしれないが、不思議とそうは感じなかった。
「確か、映画の彼は厨房でバラバラにされた両親の死体を見つけたという内容だったよな? じゃあ、その前に出された食事の“肉”は何だったんだ? 人ではない、動物の肉……とか?」
私はそこで、ありもしない考えを抱くようになっていた。
映画館で上映されている映画を見るイチ視聴者からの視点は、相手から提供された情報のみでしか構成されない。
不足部分の描写などは、各々自ら妄想や憶測の類で補うことで、一つの作品として補完する。
つまり
だが、それを逆に考えれば、そうせざるを得ない切羽詰った状況ないし、それにこそ真実が隠されていることを示しているのかもしれない。
「まだ憶測の域だが、もしかすると映画の中の犯人は彼ではなかった? いや、しかし映像としてレストランで肉を食し、厨房でも食べていた……だとすると、この一体分多いマネキンの意味は……」
私はある一つの結論に辿り着いた。それは……。
『密室である豪華客船で彼の両親を食べ生き残った彼が、実は別の人物だったのではないか』――と。
その考えはあまりにも常軌を逸した考えではあったが、それでも私はそうだという確信を持ち合わせていたのだ。
「……そうだ、その後にも違和感はいくつもあった」
頭の中で欠けていたピースが徐々に埋まると、“その人物”が誰であるのかを突き止めてしまう。
事件後、『ただ一人だけの完全犯罪者』なる小説を残し、ある日忽然と姿を消してしまったA-17なる少年。
そしてミステリーツアーを主催し、彼を豪華客船へと誘い、犯人に仕立て上げた者。
その人物こそ、『完全犯罪者の作り方』という作品を執筆し、
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