【三.一つ目の試練】
それから程なくして、食堂前へと着いた。
その途中どこにも寄り道をしていないため、時間にすれば部屋を出てから三分もかからなかったはずだ。
それでも何者かが待ち受け潜んでいるかと思うと、気が気でないのが正直なところ。
あるいは場所を指定して呼び出すという行為自体、推理小説では王道というもの。
それも相手を意図して殺す目的において、
そんな私の警戒心も虚しく、食堂の扉前に無事に着いてしまったわけだ。
柱の影に息を殺して潜み、いつ飛び出し襲われるかと、内心ビクビクしたものだが、とんだ拍子抜けもいいところ。
だが、それも悪い意味で私の予感は当たることになる。
「んんっ!? 扉に鍵がかけらているのか? これは困ったぞ……」
呼ばれておいてなんだが、レストラン扉には鍵がかけられ中に入れなかった。文字通りの意味で門前払いを食らい、些か面食らってしまったのは言うまでもない。
しかし、今この場にて文句を口にしても、誰一人として姿を見せない状況下においては、正直なにも始まらない。自ら行動を起こさねば、次の目的地には行けない。
何故ならミステリーツアーという性質上、言わば道なき道へと導かれている状況なのだ。
私はどこかに鍵が置かれていないかと見渡してみると、近くの壁に張り紙がしてあるのを見つけた。
『鍵は四階の遊技場にて』
――と、記されている文字が目に飛び込んできた。
「鍵は遊技場にあるらしいのだが……これも未だ見知らぬ相手に弄ばれているだけだろうな」
私は相手の思惑に乗せられていると理解しながらも、とりあえず指示にあったとおり四階へと下りてみることにした。
階段脇には迷い人の導き手として、案内板が顔を覗かせている。
親切心の表れなのか、ご丁寧にも案内板にはこのフロアだけでなく、船の全体像も見取り図として描かれていた。
私は現在位置と印された赤文字へ指を置き、道中の道を辿る形で遊技場までの
なんてことはない、先程のレストランの真下付近に目的の場所は位置している。
不気味なほどの静けさを演出している回廊を私ただ一人だけが歩き、独り言すら口にせずに目的の場所まで辿り着いた。
表の扉は廊下から遊技場の中が覗けるようにと、上半分がガラス張りにされている。
きっとここで遊ぶであろう子供達の姿を、外に居ながら親が見守る目的に違いない。
こうした入り口の他に出口なき密室において、部屋に入らずとも中の様子が窺えるのは正直ありがたい。
「遊技場……ここだな」
何が待ち構えているか分からないまま、私は意を決してドアノブを捻り、部屋の中へと入ってみることに。
「見た感じでは普通の遊戯といったところか」
所懐かしくもちょっとした昭和初期のパチンコ台やビリヤードなど、とてもじゃないが現代の子供が遊ぶような場所には見えない。
そして鍵を持つ番人が、私が来るのを今か今かと待ち受けている様子。
「ふふっ。どうやら主催者はよっぽど趣向を凝らすのがお好きのようだ」
私はそれを見て、思わずそう口走ってしまう。
そこだけ異質な雰囲気を漂わせていたからだった。
なんせ部屋中央に椅子二脚が置かれ、生気なき人形が二体、背中合わせに座らされていたからだ。
しかもご丁寧にも、彼らにはその性別が一目で判断できるようにと服を着せられ、頭には帽子が乗せられてもいた。
その様子から察するに夫婦が喧嘩でもしているのを表現しているのだと、やや遅れて理解した。
「君達も私と船旅をしたくて、つい主催者に
向かって左側の男性には、シックにも黒一色のモーニングコートにシルクハットで紳士を演出され、右側の女性には大き目で幅広なつばが特徴のキャペリンと真っ白なドレスで着飾っている。
そこから、どことなく優雅さと気品を感じてしまう。
「なるほどなるほど……要は人を模した者を撃つべく、射的の要領というわけか」
そして二人で挟み込む形で真ん中にはテーブルが置かれ、その上に古めかしいマスケット銃とメッセージカードが用意されていた。
『彼らの運命は貴方のその手に委ねられている』
――と、そこには書かれていた。
「趣向もここまで凝れば、ある種の病気だぞ」
どうやら私に彼らのうち、どちらか一方を撃つようにと仕向けられていることに嫌でも気づく。
「んっ……ズッシリとした、重みだ。ま、趣向とはいえこれが実弾なわけがないし、精巧に作られた模造品の類だろう。ならば、さっさとこの茶番を終わらせるに限る」
その銃を手に取ると、バランス悪くも、それなりの重みを感じ取ることができた。
きっとコレをこなさなければ、食堂へと繋がる扉を開くための鍵は得られないと確信した。
問題は男性女性、そのどちらを銃で撃ち殺すか、である。
「選ぶにしても、レディーファーストというわけにはいかない。それにたとえマネキンとはいえ、女性は撃つような真似事もしたくはないしな」
特に理由もなく、私は単純に女性を撃つのを嫌い、男性を選ぶことにした。別に自らが紳士を装いたいというわけではない。単純に気分の問題だけだ。
「んっ」
顔を背け彼の頭に向かい、銃口を突きつける。
引き金に指をかけ、ゆっくりと弾いてみた。
ジジジッ……ドンッ! 静寂が支配する中、重々しくも銃口が火を噴き、小さな噴煙とともに轟音を鳴らし散らした。
「ぐあっ。な、なんだこれは……ほ、本物だった……のか?」
これは私が期待した反応ではなかった。
せめて玩具とはいえ、弾の一つでも出れば儲けものと思いながら、冗談で引き金を引いてみせると、意外なことに本当に銃から爆発が起こり、無残にも男性を模したマネキンはその衝撃で吹き飛んだ。
「ぐぅっ。まさか……本当に実弾だったとはな。だが、室内ということに配慮していたのか、威力は随分と弱いように思える」
幸いなことにそれほど威力がなかったため、彼の頭ごと吹き飛ばすだけに留まる。
しかし、その予期せぬ騒音に私の耳は未だ重低音が響き鳴らされている。
ようやく聴力が元に戻った頃、床に鍵が落ちているのを見つけた。
きっと彼のポケットにでも入れられ、さっきの衝撃で飛び出してきたのかもしれない。
私は徐に床に落ちた目当ての鍵を拾い上げ、こんな独り言を呟いた。
「にしても、これはあまりにも危険すぎるぞ。ミステリーツアーの域を超えてる。下手すれば、死人が出てもおかしくなかった」
そして床にその身体を横たえるマネキンを見つめる。
銃の威力が弱かったのが幸いしてか、頭が胴体と離れ離れになるようなことはなかった。
だが、小さな鉛玉が側頭部にめり込んでいるのが目に付き、改めてこの銃が本物であったことを事実として受け止める。
そこで現実に思考が追いつき、暴発しては敵わないと、その銃が元あったテーブル上へにゆっくりと置く。
その見た目、構造上は弾は一つしか込められないはずであるが、念には念を入れるほうがいい。勇敢さよりも慎重さが何にも勝る生還への活路なのだ。
「これではまるで映画の撮影か何かのようだな。それに意図して“私”自身が犯人役へと仕立てられているようでもあるし……。まさか、これは本当に映画の撮影だったりするのか? もしそうならば、話の都合もつくということになるのだがな……」
未だここへと誘われた理由も何も知らないまま、憶測だけが思考を支配し、現実が常識をも凌駕する。
ここに到ってなお、私はどこか自分が自分ではない気がしていた。
それは非日常からの日常、またあの本を古本屋で見つけたときから、常に誰かに見張られているような違和感を覚えていたのである。
ふと何気なく後ろを振り返ってみても、そこには誰もおらず、この場には“私”以外、誰も居なかった。
きっと誰かに見張られていると思ってしまうのも、気の昂ぶりようなのかもしれない。
そうは思ってみても、心の片隅に不安の二文字が見え隠れしている。
そう思っていると、更に不安が私の心を支配し、普段は意識しないはずの心臓の鼓動音を意識してしまう。
「うぐっ」
突如として誰かに喉を掴まれ、締め上げられている間隔を覚え、満足に呼吸ができなくなってしまう。
「ちっ……クソッ!!」
私はそれの正体を考えるより先に、次の目的地である食堂へと走り出していた。
このままここへ留まれば、何か良からぬ事が起きるかもしれないと思っての行動だった。
「はぁはぁ」
先程来た道を走る中、日頃の運動不足が祟ったのか、一分もせずに息が上がり始める。
もはや階段を駆け上がるというよりかは、必死に手すりに捕まることでどうにか倒れずに済んだといったところだろう。
そして酸素を求める形で自然と顎が上がってしまい、また無意識のうちに口までも開きっぱなしとなった。
次第に呼吸が荒くなり、口の中が異様に乾いてくるを感じていた。
「はぁはぁ……ごくりっ。ん゛ん゛っ」
喉に痛みを感じるほどの生唾を飲み込むと、どうにか乾きを癒すことができた。
だが、その代わり心臓は静まる気配を見せず、煩いほど動悸を鳴らし続けている。
それがまるで警鐘を鳴らし、身の危険を教えてくれているかのようでもあった。
先程の喉への圧迫感は無くなることなく、未だ呼吸するのさえ苦しさを覚える。
そうかと思うと自分が今、呼吸しているのかさえ、分からなくなってしまう。
(私は呼吸をしているのか? いや、そもそも呼吸とはどうするのだ?)
自らの呼吸音が聞こえているにも関わらず、私はそんなことばかりを考え、終いには普段意識することの無い呼吸の仕方すら忘れてしまっていた。
「あ、あ、あ、……お、落ち着け。大丈夫……まだ大丈夫なはずなんだ……」
自分にそう言い聞かせる形で、誰に問いかけるわけでもなく、私は独り言を呟く。
胸を締め付ける違和感に負けまいと、服の上から心臓を押さえつけることで、少しでもその圧迫感から逃れようとする。
右の手のひらにドクン、ドクン……っと、私の心臓が打ち鳴らす鼓動が響き伝わる。
(私はまだ……生きている……生きているんだ……)
手のひらから伝わる自らの生を感じることで、自分が今この場に存在していることを改めて認識し、気持ちの高ぶりを諌める。
すると、不思議なことに徐々に心臓が落ち着きを見せ始め、両耳に届けられていた鼓動も、また自分の呼吸も、やがて静かになっていた。
「ようやく、収まった……のか? すぅーっ、はぁーっ。ふぅーっ」
そこで深呼吸を一つすることで、自分が自分であることを自覚し、ゆっくりとした溜め息をつく。
私は先程まで感じ取った違和感や喉の圧迫感を感じなくなり、冷静さを取り戻すと、ここが何階なのかと周囲を見渡してみる。
どうやら私はいつの間にか、五階のレストラン前に居たようだ。
先程入手したばかりの鍵を上着のポケットから取り出すと、冷静な気持ちのまま鍵穴に突っ込み、時計回りに右へと回す。
やや遅れて廊下にどこか乾いたカチャリッと、上前ピンが降りる音が耳奥に届けられた。
「…………」
特に言葉を発せず、そのままドアノブを開錠方向と同じ右へと捻り、食堂のドアを音もなく開いてみることに。
「当たり前だが、食堂の中に人は居ないようだ」
警戒を緩めず、どこから襲われてもいいようにと退路の確認しながら、食堂の中へ入ってみる。
誰もいない、だだっ広い空間に丸テーブルと椅子が無数に並べられ、一度に百人ほどは収容できるほどの大きさだ。
ふとそのまま上を見上げてみれば、上部の開けた空間に巨大なシャンデリアが吊り下げられ眩いばかりの輝きを放っている。
(これが舞踏会ならば、アレが落下してきて、“お目当ての人物”を殺すのだろうな。まさに王道トリック……それでこそだ)
シャンデリアに飾られた煌びやかな装飾品よりも先に、私はアレがどう使われるかに想いを馳せてしまう。
コレもミステリーマニアとしての血が騒ぐのだろう。
単に感想を思いよりも先立って、どのようなトリックで使われ、それをどう暴くのか、私の興味はそちらにばかり気を取られてしまっている。
だから入り口近くにあった『人物』に気がつくのが遅れてしまった。
「んっ……うわあぁっっ!? いつから……な、なんだ……ぴ、ピエロ? なんでこんなところに……」
誰かに見られているようなヌルっとした視線に気づき、真横を見てみれば、入り口付近にピエロを模した人形が私を出迎えていてくれたのだ。
些か年甲斐もなく“私”は驚いてしまうが、たじろぐだけで無様にも床へ転ばなかっただけでも良しとしよう。
見ればそのピエロは立て看板を持ち、突っ立っていた。
この場に誰も居ないと理解しながらも、それを声に出して読んでみる。
「『ご利用、まことにありがとうございます』……か。なんだかこの場には似つかわしくない、不気味な存在だと思うのは私だけなのか。一体、何の意味があってこのようなピエロを案内役として置いているのか、理解に苦しむ」
動揺する心も、相手が人形であると理解した途端、そのような苦言を口にする。
相手に驚かされてしまった、せめてもの反発の気持ちの表れなのかもしれない。
「うん? 下にカードが……」
そこで下のほうに小さなメッセージカードが貼り付けられているのを見つけた。
どうやらそれは私に直接宛てたものらしい。
『お席に貴方のお好みである、フランス料理のフルコースをご用意いたしました』
――と書かれている。
「フランス料理なんて、人生で一度足りとも口にした覚えは無いのだが。ま、せっかく用意してくれたのだ、ご相伴に預かるとするか」
まだ腹は空いていなかったが、それでも今度はいつ持て成されるか分からないので、とりあえずレストランホール中に用意してくれたという私専用の特等席へ向かってみる。
すると、既に料理がすべてテーブルの上に乗せられていた。
皿数は小さなものも含め、五皿程度とフルコースにしては決して多くはなかったが、一人で食べるには十分な量だった。
スープとサラダ、それに小エビとオリーブオイルのマリネを始めとした
それとメインディッシュには骨付きの肉料理にちょっとした赤色のアイス。
コース料理としては極々一般的なフランス料理といった感じである。
「最初から出される料理が乗せられているということは、コース料理としての配膳を嫌ったというところだな」
“私”は敢えてそれを口にする。
それはつまり最初から最後まで、主催者は姿を見られぬようにと配慮していることに他ならなかった。
一体何の目的があって、こんなことをしているのか分からないが、それでも目の前に美味しそうにも食事を出されれば、腹が空くというもの。
私は腹の虫が何か奏でるその前に、目の前に広がっている料理を食べ始めることにした。
でなければ、デザートであろうアイスがその姿を変えてしまうと危惧しての行動だ。
「出る順番は関係ないが、それでも一応のマナーは守るべきだろうな」
マナーとして、私は席の左側から入る。
これは右側上位、左側下位という西洋におけるテーブルマナーでの仕来たりの一つ。
日本料理的に言い表せば、上座と下座のようなもの。確か、中世の騎士が帯剣していた名残らしいと何かの本で読んだことがあった。
そしてこれといって椅子を引いてエスコートしてくれるウエイターの姿も見当たらないので、自ら膝裏に椅子の腹を軽く当ててから腰を下ろす。
「ちょっと、後ろ過ぎたかな」
さすがに椅子とテーブルとの間が開きすぎたと感じ椅子に腰を下ろしたまま、行儀悪くも両手で椅子を持ち上げ、一応のマナーとしての礼儀で音を立てぬよう前へ引き寄せる。
正式には腹とテーブルとの間は、握り拳二つ分で良かったはずだ。こんなところで本好きの本分としての無駄知識が役に立つ。
「っとと。せっかく食事をするのに、バッグは邪魔だったな」
そこで肩から斜めがけにしていたショルダーバッグの存在を今頃になって思い出した。
さすがにこのままでは食事がしづらいというもの。
テーブルマナー的にも、見た目よろしくはないと、すぐさま肩から外して、左椅子の下へ置くことにした。
これも荷物を持っている際のマナーの一つだったはず。
もしこれが女性が持つようなポーチの類ならば、背もたれに置くのがマナーらしい。
(そんなもの背中に置いたら、食事がしづらいだけだと思うのだが、西洋のご婦人方はそんなこと気にしないのだろうか? ふふっ)
日本にいながら、西洋被れの真似事をしている自分がなんだか可笑しく感じ、少し笑みを浮かべてしまう。
せっかく非日常の世界へとやって来たのだから、何も日本だ西洋だと考える必要はないことに気づき、余計に可笑しいと感じた。
目の前の皿には、真っ白なナプキンが置かれていたので、格好をつけるため、端の三角部分を首真下の上着裾へと引っ掛ける。
本来なら、これの作法はあまり海外では通用しないらしいのだが、あくまで格好付けだ。それっぽければ、なんでもよかった。
それからお酒がまったく飲めない“私”は食前酒が入っているグラスを手に持ち、そっと口を付けている。
アルコール独特の鼻奥を突く匂いがすると乾いた上唇が濡れ、次いで口の中を僅かに湿らせる。
やや遅れて、苦味が舌先に伝えられ、私は思わず顔を顰めてしまう。
「……やはり、今でも酒は駄目なのか」
誰に言うでもなく、そう呟いてしまう。
ある程度年齢が高くなれば、自然と飲酒ができると信じていたが、この歳になっても未だ酒だけは苦手だった。
独特の苦味と香り、そして何より酔うという行為があまり好きにはなれなかった。
人は何か辛いことがあれば、酒に逃げるらしいが、私はそんなものはただの現実逃避だと考えていた。
どこへ逃げようとも、現実とは揺るがない事実しか映し出してはくれない。
それにその程度で何かが変わるのならば、最初から悩むなどしないはず。酒に時間を費やすよりかは、現実に向き合い抗うことの方が何より健全であると考えていた。
最初こそ、格好付けからテーブルマナーを意識していたのだが、酔いが回ってしまったのか、私は好きなように食べることにした。
右手にナイフを、左手にフォークを持つなどという、どこか形に当てはめられるのを嫌い、無意識下での行動だったのかもしれない。
「ふぅーっ。ご馳走様」
テーブル上にあった料理をすべて食べ終わり、一息ついてナプキンを外す。
料理の味について、特にこれと言って覚えてはいない。
ただ“食べた”という感想のほか、何も思い浮かばなかった。
きっと最初に苦手だった食前酒で、唇を濡らしてしまったせいかもしれない。
未だ舌に残る苦味と鼻の中をグルグルと、アルコール臭が漂っている感覚に苛まれている。それがかえって食後の余韻を悪くしていた。
「食器はこのままでもいいよな? あと、食後の珈琲でもあれば最高なんだがな」
私は口と鼻の中の嫌な臭いを掻き消すため、珈琲で口直しをしたかった。
付けていたナプキンはテーブルの左端に畳まずに置き、使ったフォークやナイフを皿の上に重ね置く。
こうしておけば、食事を終えたことを一目で判断できるだろうし、それに配膳をしてくれた人への配慮も含まれている。
「アチラが厨房なのだな。おっ、あったあった」
食べ終わった皿をそのままにして厨房がある奥へと歩いて行くと、そこには珈琲メーカーに付属されている保温プレートの上に丸型のガラスポットに半分ほど入れられた珈琲を見つける。
どうやら私が珈琲が欲しくなることを見越していたのかもしれない。変なところで配慮されていると思い、自然と笑みが浮かんでしまう。
珈琲はドリップした瞬間から劣化が始まるらしい。
こうして保温し続けることは、風味や味を損なうのだが、招待されている身分としてあまり贅沢は言えなかった。
近くにあった珈琲カップに注ぎ、珈琲皿に乗せる。これで見た目だけは本格的になったはずだ。
そのまま珈琲皿片手に、ミルクとスティック砂糖を一本だけ拝借。かき混ぜるスプーンも忘れずに、カップの隣へとチョコンと当て乗せた。
席に戻ると、そのままそっとカップに口を付け、一口だけ口の中に含んだ。
「ズズッ」
音を立て飲む。マナーが悪いように思えるが、これが珈琲の味を再確認するテイストと呼ばれるものだ。
ワインと同じく、わざと啜る音を立てより多くの空気を口に中に含ませることにより、鼻腔へとその香りを閉じ込め、全体と行き届かせてから舌上全体で味を感じ、喉でも味を感じるよう、最後に飲み込む。
こうすると、珈琲本来の味わいを楽しむことが出来る。
まだ砂糖やミルクはいらない。純粋に珈琲自体の味を確かめるだけで十分だ。
温かい、それが喉の渇きを潤し、先程まで口の中全体を漂っていた匂いを洗い流す。そしてミルクと砂糖を加え、また一口。
「ふぅーっ。やはり飲むと落ち着くな」
プラシーボ効果の一種だろうが、先程まではずっと嫌な気分だったはずなのに、珈琲一杯によって、すべて吹き飛んだ。
常軌を逸した極限状態では、冷静さを取り戻すことこそが、何よりも重要なのだ。
誰かに見られていると感じたヌルッとした感覚も、今では気のせいだったのだと理解できる。
それにこの船に乗っているのが、“私”以外にも居ることが確実のものとなったことが大きかった。
温かな料理を提供できるということは、それなりの料理ができる人間が共に乗船していることを意味していたからだ。
この珈琲にしても、とてもじゃないが、私が乗船する以前に設置されていたとは考えにくいし、デザートのアイスにしても私が来る直前でなければ、ものの十数分で形を保てないはずだ。それなのに、私の前に出されたアイスはその冷たさとともに、姿形を最後まで崩すことはなかった。
ここから導き出せる情報は、私が遊戯室を出た直後、そのタイミングを見計らい、誰かがアイスをデザート皿に盛り付け、テーブルに置いた以外に考えられない。
「……さて、次はどう出る?」
未だ姿を見せぬ相手に聞かせる形で、私はそう呟いて見せる。
私に害を成すならば、料理に何かしらの仕掛けを施すのが最も有効かつ確実なことだ。
それも、今では杞憂のものとなったことで、少し心の余裕ができた。
「とりあえずは、部屋に戻るついでに船内の様子を見て回り、何か変化がないかを確かめるとするか」
そうして食事を終えた私は食堂を後にすることにした。
その後、海を見渡せるメイン・デッキの様子を船内から眺め、一通りグルッと見て回ったが、特にコレといった変化は見られなかった。
次なる指示書の一つでも見つけられれば幸いだと思っていた私は、見つけられずに興醒めしつつあったが、その変化は確実に起こっていた。
「またか……」
それは既に私の部屋で起こっていたのである。
部屋に戻った私が一番最初に驚いたのは、ベッド上に置かれていた紙が乗せられていたことだった。
先程この部屋を出た際には、こんなものは絶対に存在しなかったはず。
――なのに、施錠された部屋にこれが置かれているということは、私が上で食事をしている最中にここへと侵入したことを意味してもいる。
私は急ぎ、部屋の外に施してあったおまじないを再確認する。すぐさまドアを閉め、靴でその距離を測ってみた。
「動かした形跡はどこにも見られない」
床に置かれたガムの薄紙は、確かに私の靴で右へ一個半に斜め置きとなっている。
このため相手が拾うなどという、愚かな真似をしていないことの証明になった。
あるいは最初からそれを知っていたからこそ、敢えて触れなかった可能性もあった。
なんせ私のベッド上には、見知らぬメッセージカードが置かれているのだから、誰かがここへ侵入してきたことは、まず間違いない事実なのだ。
「これはいよいよオカルト染みてきたな。ふふっ。いやいや、これはあくまでもミステリーツアーの一環だったな。すっかり忘れていたよ」
まだこの船に乗船してから、数時間程度。
それでも私は、人っ子一人見かけぬ状況の中、まだ何も起こってさえいないため、既にこれがただの旅行だと勘違いしてしまっていた。
慌てて自分に言い聞かせることで、自分自身を奮い立たせる。
恐る恐るベッド上に置かれたメッセージカードに手を伸ばす。
見た目はこれまでと同じく、裏面は真っ白だ。表に書かれているであろう文言を確かめるため、手に取ってゆっくりと捲る。
――すると。
「…………白紙? 何も書かれていないのか!?」
今度こそ、驚きを隠せなかった。それは裏も表も、何も書かれていない白紙だったのである。
まさか、書き忘れたなどという愚作をするはずもない。
念のために部屋の引き出しの中に入れられていたマッチ箱を見つけ、炙り出しにしてみることにした。
ほとんどの推理物では、相手から白紙が送られてくると、炙り出しや水を書けることにより、文字や絵が浮かんでくるものだ。
「何も出て来ないな。ならば、水はどうだ?」
火では効果がないと、今度は水を掛けてみることにした。
テーブルに置かれた水差しを失敬して、わざとテーブル上へと零し、その上に白紙のメッセージカードを泳がせてみる。
裏、表と、どちらがどちらかなど気が動転してしまい、正直どちらがどちらかを既に覚えていなかった。
結論から言えば、文字どころか絵すらも浮かび上がったくることはなかった。ただ悪戯に紙を濡らし、テーブル上に水を零しただけにすぎない。
「これも推理小説としては、犯人から送られてくるメッセージカードの定番中の定番のはずなのだがな。何も書かれていないこと自体が、その答えなのだろうか?」
どこか自分のしたことが間違いであったのかと、私は思い悩んでしまう。
そして未だ何も起こり得ない船旅についても、暗に示しているかのように思えてならなかった。
「つまり、これは完全犯罪を示唆しているということなのかっ!?」
私は一人、部屋の中でそう叫んでしまった。
そもそも推理小説とは一口に、起承転結が基本といえよう。
事件が起きる『起』、物語としての
だがしかし、一番初めの『起』がなければ、何も起こりえない。
つまりは『誰もそのことを知らなければ、事件にすらならない』というわけだ。
今この場においても、私は船上に居るが、何一つ出来事は起こっていなかった。
こんなことがあっても良いものなのか?
何かしらなければ、ここへ来た意味が薄れてしまう。
「そして何よりも……」
私はベッド上にカバンから出していないはずの、あの本を見つけてしまった。
そしてあくまでも冷静さを装いつつ、そっとショルダーバッグを開け、視線はそのままで手探りだけで目当ての本を探す。
「……どこにも無い」
私の手は、生憎と硬い本の感触に当たることはなかった。
確か私は本を読むため、部屋へと戻ってきたはずだ。
しかし、あのときはテーブル上に置かれていた昼食のメッセージカードに気を取られ、バッグからは何も出していなかった。
それにこの船に乗船してから、バッグは肌に離さず一度も外しては……。
「……あっ」
いや、違う。私は一度だけショルダーバッグを外していた。それも食事の時のことだった。
食べるのに邪魔だからと、椅子脇の地面に置いてしまっていたのを思い出した。
そして食事をしているときは一度もバッグの存在を意識したことはなかった。
もし、あのときテーブルクロスが掛けられたテーブル下に誰かが居たとするならば、この本を抜き取ることは可能になる。
「うっ」
そんなことを考えてしまった途端、未だ正体の分からぬ何者かが自分の足元に居たかもしれないという事実に、私は気分が悪くなり、食べた物を吐き出してしまいそうになる。
首内側の喉仏付近まで、珈琲の苦味とともに、固形物がせり上がってくるのを自覚していく。
吐き出さぬよう口に元を必死に抑えることで、どうにか踏みとどまるが、代わりに喉が圧迫され、既に息をまともにすることすら困難になっていた。
それが更に気分の悪さを助長させ、いつベッド上に嘔吐物を吐き出してもおかしくはなかった。
「ゴクッ……んんっ……はぁはぁはぁはぁっ……」
必死に吐き気を抑え込み、飲み込んだ。そして近くにあった水差しを、そのまま口を付けると、気持ち悪さとともに胃へと流し込む。
吐き出さなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。
もしこのまま我慢できなければ、ベッドとベッド上に置かれた本が汚れ、不快さが漂う臭いと睡眠を共にするところだったかもしれない。
「はぁっはぁっ……はぁ……」
少しずつ呼吸が整い始めると、ようやく気持ちが落ち着きを取り戻し始めた。
「クソッ! なんなんだ一体っ!!」
得も言えぬ気持ち悪さと不快さが今なお私の鼻腔や喉、そして舌へと襲い掛かってくる。
それを少しでも誤魔化す形で、ベッド上に置かれた本を乱暴に引っ手繰り、手に取ってみる。本のヒンヤリとした冷たさが、どこか安心感を覚える。
「すべてはこのことを示唆しているのだろうな」
この本に書かれて、舞台となっている豪華客船が、今のこの状態と重なっていると確信していた。
なんせ『完全犯罪者の作り方』という題目なのだ。嫌でも、そうなのだと理解してしまう。
私は栞代わりに挟まれた招待状を外して、そこから続きを読み進めることにした。もしこの船で何かが起こり、解決に導くには本にこそ、手がかりがあると思ったからだ。
以前読んだところまでの内容は、犯人が精神異常者で船内で殺人を起すところまでだった。
あれ以来、1ページも読んでいなかったため、今の今まで気が付かなかったが、物語としてはちょうど半分ほど。
ここから後半戦が始まることになる。
彼は次々に乗客達を襲った後、まるで主人公を弄ぶ形でわざと外部の犯行であることを示唆させ、導くようわざと推理させていった。
彼は私と同じ推理小説マニアでもあった。だから試すような真似事をしていたのかもしれない。
最後、追い詰められた犯人は暗闇が支配する海へと自ら身を投じることで、動機も犯人像も分からないまま事件に幕を閉じてしまう。
結局、犯人は見知らぬ誰かということになり、事件は迷宮入りする。これが警察としての公式見解になっている。
だがしかし、本当は犯人は海へ飛び込んではおらず、既に殺めた別の乗客を海へ投じることで自らの死を偽装したのだ。
その後、犯人である若者はとある賞に応募して小説家となっていた。それも推理小説専門でフィクションという意味深なジャンル選択。
そのあまりにも奇怪な事件物語と実際にあった事件の概要とが重なり、誰もが彼のことを犯人なのではないかと思い始めていた。
けれども、何一つ彼が犯人であることを示す証拠もなく、長らく噂は噂のままだった。
そして彼はミステリーツアーと称して、読者を豪華客船へ招待した。
名目は日頃より応援してくれる読者への感謝の印であったのだが、彼の思惑は別のところにあった。
それは実際に船の上という密室状態にすることで、次なる自分の作品のアイディアを試したかったのだ。
トリックはもちろんのこと、実際に人が窮地に陥った際どのような行動を起すのか、またどうすれば精神的に追い詰められるのか、それらを観察するのが主な目的。
最初こそ普段愛読している著者と実際に会い話をして、自分達も新しい作品のネタになると喜んでいた読者達も、次第にその異様さに気づき始めてゆく。
自分達も彼の物語に出てくる登場人物達のように、トリックの証明として本当に殺されるのではないか――と。
もちろん彼らも抵抗しようとするが、それでも事前に準備を施していた彼に敵うわけはなかった。
背中合わせに椅子に縛られた男女の頭に銃を向けさせ、どちらかを殺害するゲームを始めとし、食堂にある巨大なシャンデリアの下敷きとなった女性、二人分の遺体をバラバラに切り刻むことで、三人分へと見せかけるフィボナッチ数列を応用して作られる偽装死のパラドックス……などなど、彼が思いついたトリック殺人を彼らは強要されていったのである。
そうして最後の一人になったところで、彼は数年前と同じく海へ落とすことで、犯人自体を完全に消し去ってしまう。
当然のことながら、真っ先に疑われたのは作者である彼だった。それになにより自分の熱心な読者である彼らのことを豪華客船に招待したのも、もちろん彼自身であるため、誰の目に見ても真犯人は彼の名以外に挙がることはなかった。
けれども、彼は暗黙のうちに指示はしていたものの、実際には手を下してはいなかったのだ。
彼は自分が犯人を追い詰めたところ、海へ身投げしたと言い、警察から言い逃れることに成功する。
実際、証拠も目撃者もなく、彼を犯人へと到らしめる動機も何もなく、真相は闇へと葬り去られることに。こうして題目どおりの完全犯罪者は彼の思惑通り作られた。
また作中において、彼の名について一切記されていなかったが、最後には著者と同じである名が記されていることに私は気が付いてしまう。
一見すると、この物語はチープな密室殺人物ではあったが、どこまで本当なのか、そしてどこまでが事実なのか、誰にも分からない。
だが作中に登場したトリックの数々について、私には覚えがあった。
今日この場にて体験したことすべて彼の作中に使われていたものであり、もしかすると彼が“彼”なのかもしれない。
それが今作における著者なりのトリック技術と心理パラドックスなのかもしれない。
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