【二.船出のとき】

 ――それから二週間後、横浜港にて

 私はすぐに今の職場へと、有休の申請をするため、届出を直属の上司に提出した。

 有休の書類には何かしらの理由付けが必要になるのだが、特にこれと言って記す理由が思いつかなかったため、『二週間ほどの海外旅行』とだけ記すことにした。

 それでも職場の人間から特段咎められることもなく、私は二週間の自由を与えられ、非日常の世界へと足を運ぶことになった。

 もしかすると会社には、私の居場所なんてものはそもそもなかったのかもしれない。

 だからこそ、こんなにもすんなりと有休の申請が何事もなく通ってしまったのだろう。

 だが、それは私からすればむしろ好都合なことだ。

 何の障害も、誰かに口を出されることもなく、ミステリーツアーに参加することができるのだから、むしろ会社と上司にに対する感謝を示すのが筋なのかもしれない。

 家を出る前に再度、招待状に書かれていたことを確認する。

 実際、招待状には必要な持ち物等について、何も書かれておらず、また集合場所と日時は書かれていても、それが一泊なのか、それとも日帰りなのかまでは詳細に書かれていなかった。

 だが、それでも私はいいと思っていた。

 なんせ、こんなチャンスはそう何度も巡ってくるものではない。

 仮に日帰りの旅行だったとしても、残りの有休は古本屋巡りにでも当てればそれで済むだけのこと。

 私は今にも大空にでも飛び立つような軽い気持ちのまま、まだ夜も明けぬ早朝のうちに家を出ることにした。

 招待状に記載されていた場所は、横浜港だった。

 さすがに始発の電車もバスもまだ通っていない時間帯だったため、贅沢にもタクシーを使って横浜港の入口まで乗り付けた。

 周りには大きな貨物船やタンカーなどが、まだ早朝という時間を感じさせないほどの存在感を表しており、このままそれらの船に乗り込んでしまえば、難なく海外へ逃走できるように思えてならなかった。

 まさかこのミステリーツアーも、そのまま豪華客船に乗り付け、国外へと行くわけはないだろうと思いつつも、一応は念のためにと、バッグの中にはパスポートを潜ませていた。

 もちろんこれはミステリーツアーであるため、日程や目的地などの記載は一切書かれておらず、数日分の着替えと数十万円の現金をショルダーバッグ奥底にある裏生地へと隠して望む。

 荷物は、この他に小さな車輪のキャスターが付いたキャリーバッグのみ。

 中には着替えなど数日分の下着が詰められ、それと髭剃りと髪を梳かす櫛、それと常備薬として胃薬と風邪薬、あと船酔い防止のための酔い止め薬と必要最低限に留めおいた。

 もしこの他にも何か必要ならば、最悪の場合には金を出しさえすれば、それで済むはずだ。

 それに自らを豪華客船などと称しているのだ。

 そこいらの観光地も真っ青になるほど、それこそ富士山の頂上にも負けるとも劣らないほど、ボッタクリの値札をぶら下げている売店がいくつか入っているはずである。

(まさか名のある出版社なのだから、後から旅行費用を請求される――なんてことはないよな? ははっ。まさか……な?)

 一応は旅費等も請求されてもいいようにと、財布の中身は万全を期している。

 もし仮に海外へと赴くことになったとしても、数十万の現金があればどうにかなるというもの。

 私は金の心配や持ち物の心配を他所に、本命であるミステリーツアーの方に意識を集中させようと努力する。

 一推理小説読者としてミステリーツアーに参加するということは、心躍るものがあった。

 けれどもツアーの費用も、また持ち物等についての詳細も一切書かれておらず、その招待状が古めかしい書店本棚に置かれた一冊の本だと聞けば、私でなくとも不安になるのではないだろうか?

 不安にならないという参加者がいれば、直接その顔を拝み、今の気持ちを聞いてみたいところだ。

 きっと豪胆な人間か、あるいは非常識極まりない人間であるはずだ。

 それにもしも、これが悪ふざけの類だったとしても、私はその人物に対して怒る気にはなれないだろう。

 もしくはこれがテレビのバラエティー番組でお馴染みのドッキリ企画というほうが、まだ納得でき頷けるというもの。

「それだけはないでくれよ……」

 ――と、心の中で切に願うばかりだった。

「…………この船で、本当にいいんだよな?」

 誰に案内されるわけもなく、私はそこへ導かれる形で辿り付くことが出来た。

 港には、この他にも船は横付けされてはいたが、豪華客船と思しき船はこの一隻だったのだ。

 だから間違えようがない。

 まさか貨物船やコンテナを積載量ギリギリまで積んだコンテナ船が、豪華客船の名を有しているわけはない。

 そして私の目の前には、壁のようにそそり立っている船の横腹がお目見えし、その船の巨大さを物語るには十二分だった。

 数百人は優に収容できるほどの船であり、その見た目からして豪華客船と言う名にふさわしいものである。

 全体が細長く、どっしりとしており、これならばタイタニックのような氷山の悲劇に見舞われたとしても、安心できるというもの。

 まさか日本海内部で、突如として現れた氷山の一角に出くわすなんてことは、まずありえないことだ。

 もしあるとしても、北海道のオホーツク海周辺だろうし、流氷が流れ着く海域へと向かう道理はないはずである。

 私は船を前にして、あれやこれやと思いを馳せ、この船の関係者を探すことにした。

 しかし、周りを見渡してみても、警備員の姿も、また船員や従業員などの姿もなく、あるのは豪華にも階段式の斜路スロープと船本体へと掛けられた橋の前に置かれた無地に黒字だけの立て看板だけだ。

 その看板には、このように書かれている。

『幸運にも、選ばれた貴方を非日常世界へのいざないます』

 ――と、だけ書かれていた。

 簡素ながらに、招待客を暗に船内へと誘導しているかのようでもある。

 招待状を持っているとはいえ、私は再び胸の内に『不安』の二文字を覚えてしまう。

 なんせ招待状を持っている人間をチェックする人間どころか、周りには人っ子一人いなかったのである。

 仮に招待状を持ち合わせていずとも、集合場所と日時さえ分かってしまえば、招待客でなくとも、誰でもこれに乗船できるのではないか?

 それはあまりにも不用心というものだとは思いつつも、そんなことは参加者であるこの私が考えるのも、あまりにも変な話なので、そこで考えるのをやめる。

 一度疑問に思ってしまえば、すべてがすべて怪しいと思ってしまうことを避ける意味もあった。

 そうでなくとも、豪華客船で行われるこのミステリーツアーの招待状が、古本屋の本の間に挟まれていることを考えれば、そもそも常軌を逸していると言えなくもない。

 そしてまたそんなものを本気で信じ、ここにこうして旅行する気満々の私こそ、一番愚かしい人間なのかもしれない。

 だが、一端そうなってしまえば、後は楽なものだ。

 どうせ、違ったとしても誰かに怒られるだけで済むはずである。

 まさか本気で何の障害もなく、海外にまで行けるはずがない。

 そのように考えたら、いつの間にか気も楽になり、自分の身に何が起ころうとも、大したことはないと思えてきた。

 私には何も失うような大切なものなんて、持ち合わせていないのだから――。

 持たざる者は強い。

 そう心に刻み込むことで、我を通すことにした。

「これもミステリーツアーならではの演出の一つだと考えれば、特別不自然なものではない……か」

 私はそう自分に言い聞かせる形で呟いてみせた。

 出版社や旅行会社主催のミステリーツアーでは、こうした参加者達に対して何も教えないことこそが催しものの一つなのである。

 また参加者達は各々バラバラの時間指定を受け、現地へと集まることもしばしばあるという。

 この不自然すぎる港の様子や船乗員の姿が一切見えずとも、ミステリーツアーに付き物の一環であると自分自身に言い聞かせることで、どうにか納得することにした。

 そして岸壁と船との間にかけられている緑色の斜路を登り、非日常の世界へと一歩足を踏み入れる。

「特には……これといった変わったところはないみたいだな。船の上というのに、地上のそれと一緒だ。揺れ一つもない」

 地上とは明らかに高さだけが違うだけで、船上からは特別な何かを感じ取ることは出来なかった。

 強いて挙げるならば、地上のそれと船上とは変わらないということくらいなものである。

 ドッシリとした安定感が靴の裏からでも伝わり、それがどことなく安心感へと繋がっていく。

 だがやはり周りを見渡してみても、人の姿はどこにも見えない。

 さすがに中には誰かしらいることを期待して、私は初めて搭乗する豪華客船と言うものを探索してみることにした。

 無人でこれほど巨大な船が動くわけはないので、いずれ誰かしらには出会うだろうと思っている。

「ほぉ、さすがは豪華客船と銘打つだけのことはある。これは立派なラウンジだ」

 船内はまだ真新しく、造船されてからまだ数年といった“新築”なのかもしれない。

 ――ともすれば、この船が豪華な仕上げなのも頷ける。

 なんせ造船業とは一、二年の短い期間で完成するものではないからだ。

 最低でも数年……下手をすれば十年という月日と莫大な費用、そして何より数千数万という人員が必要になる。

 仮に一九七九年の第二次オイルショック直後に作られたとすれば、この船を造船する際にも多くの雇用を生んだことだろう。

(今世間では、株式を初めとした好景気に沸いているが、その実情は単なるまやかしにすぎない。いずれ、近い日に現実に打ちのめされ、日本の経済は海外に食われゆく。もしかすると、今この瞬間こそが、日本人にとって良い夢なのかもしれない。人が夢を見るから、儚い。まさにその言葉のとおりだな)

 私は感傷深くも、偶然乗り合わせた船を通して、日本の経済社会について考えを巡らせつつ、船内を歩く。

 ここまで来て既に承知しているとおり、“私”以外に誰も姿を見ていない。

 これが主催者側の配慮なのか、それとも単にからかわれているだけなのか、分からなかった。

 そして客室キャビンへと繋がる廊下を見つけると、そこで目的のモノが目の前に現れてくれた。

「どうやら、私の部屋はA-17号室なのか。なんともはや、幸運なのか、不幸なのか、よく判断がつけることのできない部屋番号を割り当てられたもんだな」

 そこには船の前に置かれたのと同じく、縦長の立て看板にA-17と書かれ、セロハンテープで鍵が貼り付けられている。

「しかし、これだけでは客室の等級までは分からない。窓の一つでも付いて、海でも見えれば最高だろうが、それは贅沢と言うものか。せめて夜行列車にありがちな、まるで監獄を模した手狭な一室なうえ、カーテンで仕切られていなければそれでいい」

 期待半分、不安半分といった面持ちのまま、お目当ての部屋を探すことにした。

 防犯面の観点からなのか、数多くの部屋は見当たれど、ドア表面に肝心の番号が記載されていない。

 一瞬、豪華客船を名乗っているのに不親切なこと、この上ないと思ってしまった。

 だが、それでも客の安全を考えれば、これが最善の方法なのかもしれない。

 それは右手に握り締めている鍵も同様である。

 部屋番号と同じく、名札ケースは付属されているものの、中のカードは真っ白であった。

 これも、もし客が部屋鍵を落としてしまった場合に備えての防犯対策の一種と見て、まず間違いないと言える。

 でなければ、このような不便さを客側が容認するわけがないからだ。

「ここが私の部屋……か」

 前後にある案内掲示板を頼りに、どうにかA-17の部屋へと辿り着くことができた。

 これは豪華客船に限らず、宿泊施設を備えた船では一般的なのだが、客室は左右対称へと部屋が配置されている。

 だから私の隣はA-18ではなくて、A-19となっていた。

 部屋の前に立つと、鍵穴に握り締め自分の体温で温められた鍵を差し込み、ゆっくりと右へと回してみる。

 カチャ。

 軽くも重くもない感触が回された鍵を通して、私の指にも伝わってくる。

 シリンダーが回り、上前ピンが上がってしまえば、もうそれを妨げるものは存在しなかった。

「ゴクリッ」

 私は緊張のあまり思わず、生唾を飲んでしまう。

 年甲斐もなく、宝箱でも見つけてしまった気分になっていた。

 ドキン、ドキン、っと、煩いほどの鼓動が耳へと届けられ、自分でも緊張しているのが伝わってくる。

 そして徐にドアノブを回し、部屋の内側へと力を入れて押してみると、難なく私が宛がわられた部屋が顔を覗かせてくれた。

「おっ、さすがだなこれは。その一言に尽きる部屋模様だ。これならば、豪華客船の一室と言える」

 部屋の中は廊下同様、高価そうな緑色のカーペットが敷き詰められ、靴のまま部屋へ入ることが出来る。

 どうやらこの部屋はそれなりの上物クラスのようだ。

 まずドアを開けると、人が二人は通れるほどの通路、そしてその真正面には大きくも丸く形作られた窓がある。

 それより少し下へと目を向ければ、お茶をするのに最適な窓に合わせた横長のテーブルと、椅子が二つ。

 きっとこれは主に来客用に置かれているのかもしれない。

 まさかここで食事を取ろうなどという、酔狂人はあまりいないだろう。

「このように中は広くとも、ベッドはシングルか。ふふっ。随分と奢ったものだ。これなら、何日でも快適な睡眠を提供してくれそうだ。かえって私の部屋よりも、居心地は良いかもしれない」

 部屋の三分の一ほどを占めるベッドは一人用のシングルベッドだった。

 だが、それでも通常のそれとは違って、セミダブルほどの横幅はあるかもしれない。

 そして身だしなみを整えられるほど、足の爪先から頭の天辺までを写す鏡付きのドレッサーが私のことを待ち受けていた。

 もし私が女性ならば、化粧を施してみたくなるほど、使い勝手が良さそうに見える。

 また部屋の後ろ側には、二人が腰をかけられるソファーがあり、これまた見た目からして材質が良さそうに見える。

「とりあえず、貴重品を入れたこのバッグだけは持ち歩き、あとはここへ置かせてもらうことにしよう」

 ベッド真横には、ちょっとした上時計やメモ紙を上に置ける収納棚と常夜灯代わりの小洒落たランプが乗せられ、その前部分が空いている。

 どうせ後から、キャリーバッグの中身を今一度整理しなければならなくなるのだ。

 ここは横着させてもらい、余計な面倒事は後回しにさせてもらうとしよう。

 私は誰に聞かせるわけでもなく、そのように考え、ベッドに腰かけながら、荷物を脇へ置いた。

「さてと。これでよし。私の右手も重荷から開放され、晴れて自由の身になれたわけだ」

 ベッド横に寄り添う形で、キャリーバッグを置いた。

 幸いにも、私のこのキャリーバッグは小さな車輪付きなので、ここまでの移動は比較的楽ができた。

 あとは船の揺れで自由に動かないよう車輪ロックをすれば万全なはずである。

 この他の荷物は、今私が肩かけしているショルダーバッグ一つだし、貴重品の類もこの中に入れられている。

 キャリーバッグの中身は、替えの下着や日用品など、別に取られて困るようなものではない。

 ま、とはいったものの、実際に盗まれでもしたら、困るというのが本音ではあるが、誰が好き好んで私の下着や服の類を盗もうものか。

 逆にそんな好き者がいれば、お目にかかってみたというものだ。

「こちらは……トイレとシャワー室か。なるほどなるほど、ホテルに在りがちなトイレと兼用というわけか」

 そして荷物を置くのも早々に、部屋の中を見てみる。

 部屋入り口左側には、トイレと真っ白のバスタブ付きのシャワーが備えられている。

 ここは旅館などではないため、生憎と温泉や大浴場などの類は用意されてはいない。

 そして部屋の中を一通り見て回り、特にコレといった面白みが無いと分かると、部屋を出て船内の探索を続けることにした。

 正直言って部屋の中はそれなりに豪華とはいえ、探索するほどの広さを有してはいない。

 極々普通で、数分も退屈を凌げれば上々といったところである。

「おっとと。どうやら船は目的地へと向かい、ようやく動き出したか」

 まるで私が部屋を出るそのタイミングを見計らって、示し合わせたかのように、ボオォォーッという重低音が響き渡ると、汽笛の音とともに船がゆっくりと動き出した。

 前のめりに倒れるほどではなかったが、それでも止まっている船を動かすというのは、私が考えている以上に大変なことなのかもしれない。

 これが大型客船だからあまり揺れていないように思えたが、それでも船が動いたという体のブレは靴底裏を伝って、身体へと伝えられた。

 その得も言えぬ感覚を言い表すならば、突如として見えない誰かに前方へと引っ張られてしまったと、表現することができることだろう。

「とりあえず、この部屋はどこにも逃げないからな。部屋の探索はこれでお終いにして、船内部へ出てみるとするか」

 私は岸から離れる船を間近で見てやろうと、部屋のドアにおまじないを施してから外へ出ることにした。

 一旦、先程の中央ラウンジへと戻り、階段を登って上にあるであろうデッキへと向かってみる。

 ここまで誰とも出くわしていないことを考えてみると、このミステリーツアーに招待されているのは私しかいないのかもしれない。

 それは今夜泊まるであろう部屋割り番号からも読み取れる情報だった。

 もし“私”の他にも主催者側が読者を招待しているならば、この船には最低でも十六人は乗船していることになってしまうからである。

 何故なら、私の部屋はA-17号室――つまり十七番目という意味を指し示し、船内には残り十六人が居なければ成立しない。

 ま、これも順当にA-1から部屋割りをする場合のみで、必ずしもそうであると決められているわけでもない。

 もしくは私一人の場合には、部屋の番号にも何かしらの意味が齎されている可能性は十分あった。

 むしろ、これがミステリーツアーだということを考慮すれば、そちらの考えの方が当たっているかもしれない。

「A-17……A-17……か。ふふっ、日本なら一見、縁起が良い数字かもしれないが、外国ではまた違った意味になるんだよな」

 私はこの『17』という数字について、改めて考えてみることにした。

 ここまでの推測が正しければ、私はこの後も乗船客は愚か、従業員にすら出会えないはずである。

 ――ともすれば、今得られている情報は招待状と部屋の鍵、それと部屋番号くらいなものしかない。

 私が好んで読みふけっている推理小説の類では、割り当てられた部屋番号ですら、後々重要な役割を齎されることになるのが定石セオリーなのだ。

 また日本では『7』という数字に縁起を担ぐ傾向が見られるが、それも国内だけの話で中国では『7』という数字は、いわゆる忌み数いみかずに値するものなのだ。

 日本で言えば、忌み数は『4』や『9』という数字がそれに当てはめられる。

『4』は死を連想し、また『9』は苦しみを表す。

 それが西洋文化ならば、13日の金曜日というものが忌み数としては有名なことだろう。

 あれもキリストにおける最後の晩餐というのが諸説推されてもいるのだが、二十一世紀を間近に控えた現代でも、未だ定かなものではない。

 もし仮に『17』という数字をローマ数字に書き直すと『XVII』となり、それを組み替えると『VIXI』となる。

 つまりただの数字だったものが、一つのスペルとして読むことができるようになってしまうのだ。

 イタリアの忌み数が奇しくも私の部屋番号と同じ『17』であり、しかもVIXIはラテン語で『VIXIヴィクシー』と読むことができ、その意味は『私は生きた(過去形)』となる。

 つまり、「今は死んでいる……」と訳すこともできるのだ。

 事実、イタリア国内のホテルでは部屋番号として『17』という数字は用いられていない。

 確か飛行機などでも禁則事項タブー視とされ、海外旅行をしていたイタリア人が座席の交代を申し出るとの話を何かの小説で読んだことがあった。

 だからこそ本から得られる情報としてではなく、知識としてそれらを知り生かすことができる。

「ふふっ、どうやら私は既に死者のようだな。それとも、これからそうなってしまうのか、それは主催者のみが知る……か」

 ミステリーツアーでは、招かれた客人達はみな、その世界の登場人物へと早代わりさせられてしまう。

 それは現地へと集まることで、契約を交わしたことと同義なのだ。

 ある者は唐突にも殺され、ある者は犯人を捜す探偵させられ、そうして少しずつ物語は進んでゆく。

 誰がどの役割を当てられるのか、そのときになってみるまで誰も知らない。

 だが、それこそがミステリーツアーの醍醐味というもの。

 それを無視してしまえば、面白くもなんともなくなってしまう。興が削がれること甚だしいというもの。

 人生と同じく、先が事前に分かっている未来こそ、面白くないものは存在し得ないのと同じことである。

 ミステリーツアーも、先々の展開が分からないからこそ、楽しめるものであって、事前に知っていたりすれば、参加する価値は半減してしまう。

(だが、私一人だけで、果たして一つの物語が成立するものなのか? それとも、他に犯人役としての登場人物が現れるのだろうか? まさか切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)やオペラ座の怪人に出てくる仮面とのご対面だけは勘弁して欲しいところなのだが……)

 自分が殺されるのだけは勘弁して欲しいと思いつつも、私は落ち込んだ気分をどうにか紛らわせるため、文字通り空気を入れ替えることにする。

 どうやら私の部屋があるのは三階だったらしく、階段を一つ登ると『4F』という壁に描かれてる文字が出迎えてくれた。

 まだ更に階段が上へと繋がっているため、どうやらこの船は全部で五階建てらしい。

(きっとここより下の階はリーズナブル料金客用なのだろう。だが、船と言うものは構造上、上へ行けば行くほど揺れが大きくなるはず……。ならば、下の階のほうが乗り物酔いには優しいのだろうか? ふーむ。なんとも難しいものだ。景色とともに部屋の快適さを取るか、はたまた不快さを覚悟の上、安部屋を使うべきなのか。部屋一つ取ってみても、世の中すべて上手くはいかぬようだ。ふふっ。まるで人生と同じだな)

 私はこのような船の料金設定から、どちらが利用客にとって良いのかと無駄に頭を悩ませてしまう。

 そんな移動の合間の暇つぶしもそこそこに、私は目的の場所へ辿り着いた。

「んっ……これが豪華客船のメインデッキというやつだな。にしても、全面見渡せるガラス張りなのか。これはいい。とても景色が良く、地平線に沈む夕日や朝日を拝めることができるぞ」

 そしていつの間にか、外を望む大きな窓張りのメイン・デッキが顔を覗かせている。

 どうやら、そのドアには鍵がかけられていなかった。

 きっと利用者は自由に表に出ることができるとの配慮なのかもしれない。

 私はそのありがたい心意気に感謝し、外へ出てみることにした。

「おおおおっ。やはり海だなこれはっ! 既に陸から随分と離れてしまい、見えなくなっているな」

 やや大げさにも、誰に聞かせるでもなく、どうしようもない感想が口をついてしまう。

 外へ出る以前にも既に海が見えていたのだから、外に出てこうして眼前に海があることは当たり前のことだ。

 それでも私はどうしても、この身体へと受ける向かい風、それに潮風の独特の匂いを前にして、そう言わざるを得ない。

 目の間に広がる海のほかは、板張りの床に転落防止のための白一色の手すりがあるだけで、何ら面白味は得られなかった。

 むしろ海風を遮るものが何一つない屋外では、その風が直接私の体をぶつかる。

「…………や、やはり、冬の海は寒いものだ。早く中に入ろう」

 ぶるるると、そこで身震い一つ。

 この年で真冬の厳しい寒さは堪えると、早々に海を望むデッキから退散する。

 船内に入ってみると、そこは外の真冬さとは違い、どこか暖かな春の世界のようでもあった。

 体に直接海風が当たらなくなるだけでも、心地良い温かさを感じることができるのだ。

「ここは一つ、芯から体を温めるため、コーヒーでも欲しいところだな。ラウンジに従業員の姿は……っと、やはり誰もいないのか」

 そう独り言を呟きながら再度周りを見渡してみるが、生憎とラウンジには誰もいなかった。

 目の前には小さなバーカウンターを模したものがあり、ちょっとした喫茶店風になっているようだった。

 今は主無き空っぽのサイフォンやコーヒーカップがただ沈黙を貫き、私の身体と同じく寒々としているのが見て取れた。

 普段はここで客達が、優雅にもコーヒーカップ片手に外から望む景色を眺めるに違いない。

(ま、とは言っても、ここから見える景色は、全部が全部、海しかみえないのだろうがな)

 私は敢えてそう思ったことを口にはしなかった。

 景色に文句をつけるほど、まだ心は荒んでいなかった。

 きっと景色に見飽きた人々は、家に帰りたいなどと思いを馳せる場所も担っているはずである。

 もし私もそうなったら、その愚痴の捌け口の場として、ここを利用させてもらうことにしよう。

「船内で人っ子一人見かけずとも、さすがに食事くらいは出してくれるよな? まさか、招くだけ招いておいて食事すらも出ない、なぁ~んてことはないはずだ……」

 まだ腹は空いていなかったが、一応食い扶持の心配は頭の片隅に置いて置かなければならない。

 最悪の場合、一日くらいなら空腹でも耐えられる自信は持ち合わせてはいるが、私の持ち物に非常食の三文字は存在していなかった。

 そうして特に行く宛てもなく、船内を彷徨い続ける。

 ふと立ち止まり、見上げてみれば、そこは映画シアタールームという文字が躍り出ている。

 どうやら長い旅時の果てに、最後に行き着くところがここなのかもしれない。

 最初こそ海を眺め、心を弾ませていたはずだったが、先程の寒空を味わい、もう懲り懲りだと別の癒しが欲しかったのである。

「特に上映予定について、書かれてはいないか。残念なことだな」

 天から地へ、期待からの裏切り。

 生憎と上映する時間だけは書かれていたが、肝心のタイトル欄は空白となっている。

 少し目線を横へ落とし、今後の予定に目を向けてみれば、なんとかウエスタンという西部劇や恋愛映画など、錚々そうそうたる海外映画の名が記されている。

 そのタイトルの横には、しっかりと(字幕)と付属され、どうやら吹き替え版はないとみえる。

 きっと非日常の旅行という観点とその趣きから、吹替などという野暮なものは排除されてしまったのだろう。

「うーん、これは困ったことになったぞ。この船は既に港を出発した……にもかかわらず、何も起こり得ない。まさかこのままどこかの目的地に着いて、『はい、解散』というわけでもあるまいに。これではただの船内観光にすぎない。もしくは公園の散歩だ」

 最初期待して乗船したときとは違い、私はこの空間と時間の使い方に飽き飽きしつつある。

 本屋の一つ、図書館の一つでもあれば、こうした無駄な間を持たせることもできただろう。

 しかし生憎と、この船を探索してから本の一冊も見かけたことはなかった。

 売店らしき店も、今は施錠されているため、中に入ることはできない。

 このため、私は退屈を凌ぐ手立てを何も提供されないまま、船内をうろつくしかなかったのだ。

「こんなことなら、来るんじゃなかったな。これでは古本屋巡りのほうが、まだ面白いぞ。古本……あっ、そうだ。確かあの本がバッグの中に……あったあった。コレだよ、コレ」

 ついに私はそんな悪態を吐いてしまう。

 ――と、そこで一冊だけ本があることに気がついた。

 それは私をこの船へと誘い、苛立たせたものに他ならない。これだけは肌に離さず、持ち歩いていた。

 何故なら出会いと同じく、本の間に招待状を挟みこんでいたからである。

 もしも途中で、このツアーを企画・運営している主催なる人物か、または船乗員に準ずる者と出会った際、私が招かれた客であることを証明する――その目的のため持ち歩いていたのだった。

 私は急ぎ、肩に斜めがけして持ち歩いていたショルダーバッグの中から、例の本を取り出した。

 最初見つけたときと同じく、本と本の間、ちょうど真ん中付近へ今もあの招待状が挟まれている。

 あれ以来、敢えてこの本の続きを読むことはしていなかった。

 もしもツアー内容が本をなぞられているのだとしたら、それこそ興ざめするというもの。

 それでもこの場凌ぎのため、また何かしらアクションを起こすべくヒントが記されていることを期待する。

「さて、肝心なのはこの本をどこで読むべきなのか、それが一番大切になるな」

 この海を望むラウンジには、景色を眺めるための椅子が随所に置かれ、幸いにも長時間腰掛けても疲れないソファーなどもたくさん置いてあった。

 それに所々の天井上に設置された空調システムが効果的にも利いているので、船内中ならば寒いなどという不快さは無縁である。

 それでも読んでいる途中で、後ろから誰かに本の中身を覗かれたり、人と遭遇するのも、これまた風情がないというもの。

 それに私は本は一人で読むものだと思っていた。

 他者の視線があるところでは、まったくと言っていいほど、読書に集中することができない性質なのだ。

 よく話をする知り合いが、近場の図書館や喫茶店で読書をするというが、私から言わせれば狂気なこと、この上ない行為と言えよう。

 人の話し声や息遣い、人が動くことで生み出される“人工の音”が私にとってみれば何よりも不快なのだ。

 私をよく知る人物からはそれを神経質などと揶揄されるが、それでもこの歳になるまで“私”という人物を構成したものを易々と変えられるものではなかった。

 とりあえずは、部屋に一度戻ってみることにした。

 もしかすると、部屋の中に何かしら変化が起きているかもしれない。

 もしも“私”の他に観察者がいるとすれば、それがキーとなる行動なはずだ。

 相手から行動を起こしてくれないのならば、私自ら行動を起こすほか道はない。

「見た感じ、これといったドアの変化はないようだ」

 先程部屋から出る際、私は“とあること”をしていた。

 推理小説やミステリーを愛読する者にとっては、癖のようなもの。

 それは私の背丈よりも高い位置に挟んでいた薄紙である。

 それはなんてことはない、ガムの外側包装紙である。

 これが私が言うところのおまじないの正体だ。

 これを自分が判る位置に挟むことで、来訪者の有無を確認することができる。

 もちろんそれもドアの外から見える場所に設置したため、注意深く目を凝らせば誰でも気づける類の言ってしまえば『遊び』である。

 私は出張先や旅行先のホテルや旅館など、行く先々の部屋ドアにコレを仕掛けることで、ちょっとした探偵気分を味わっていたのだ。

 そもそも部屋というものは、基本的に密室である。

 入り口の鍵を閉めてしまえば、誰も立ち寄れない禁止区域。

 見知らぬ部屋を与えられでもすれば、自然と読者魂に火が着くというもの。

 そんな私の悪戯心に魔が差し、つい、いつもの調子でこの部屋にも仕掛けてしまったのである。

 ま、言ってみればこれもささやかな抵抗の証と言えなくもない。

「ふぅーっ。残念なことだ。期待ハズレだったよ……」

 私は不安よりも、見知らぬ誰かが部屋に侵入して欲しい気持ちが心の片隅にあり、その期待を裏切られてしまった気持ちになってしまう。

 それでも、心のどこかでは安心しきっていた。

 それが油断する気持ちへと繋がっていたのかもしれない。

 それは小さな変化だった。

「んっ……テーブルの上に……これはカード?」

 これまでの張り詰めた緊張感を解いて、徐にベッドに寝転がろうとしたときのことだった。

 ふと横に備え付けられている小さな棚に、白いメッセージカードが置かれていたのである。

 最初それを目の当たりにし、「自分でここに置いたのか?」っと思ってしまったが、ベッド横へキャリーバッグを置いたときも、そして部屋から出たときにも、私はここには何も置いた記憶はなかった。

 つまりそれは、“私”以外の人物がこの部屋に侵入したことを暗に教えてくれていた。

「っっ……ん、んんーっ」

 動揺を見せまいと、私は誰が居るわけでもないこの部屋で咳払いをして、必死となって心を落ち着かせる。

 だが、逆に自らの心の揺らぎと心臓のうるさいほどの鼓動を意識してしまい、かえって激しくなっていた。

「大丈夫……大丈夫……きっと……」

 私は自分に言い聞かせる形で、そう呟き、右手を心臓のある左胸へと宛がう。

 もしこの場に誰か居れば、私の行動はまるで自己暗示でもかけているように映っていたことだろう。

 だが生憎と、今この部屋には私しかいなかった。

「んっ」

 そして意を決して、私はテーブル上に伏せられたカードを捲る。

 するとそこには、こう書かれていた。

『食堂にて、昼食を用意しております』

 ――と。

「……次の目的地は食堂なのだな」

 どうやら、私の心中を察したのか、先程まで懸念していた食事へとありつけるようだ。

 今のところ端的な指示を出されるだけで、私が具体的に何か行動を起こすわけではない。

 あるがまま、与えられるがまま、誰かの思惑に踊らされているにすぎない。

 まだ腹が空いておらず、そのような指示を突っぱねても良かっただろうが、相手はこの鍵のかけられた部屋へ無断で入ることが出来る。

 もしも私のことを襲う気なれば、いつでも襲うことができる……そう脅迫されているように感じていた。

「とりあえず、また“おまじない”だけは仕掛けておくとするか」

 例のおまじないを施すと、さっそく部屋を出ることにした。

 仕掛けた私本人でも違和感に気づけないほど、相手は遥か上を行っていることになる。

 それでも、今度は逆に薄紙をドアには挟まず、床に落ちたように見せかけるようにする。

 これならば再び侵入者が私の部屋を訪れても、既に自分が落としてしまったと思って、再びドアへと挟み直すか、あるいは部屋には入らない可能性もある。

 一応自分でも判る目印として、開きドアから私の靴で右へ一個半という微妙な位置へ床置きし、少し斜めに傾けることにした。

 これならば、再現しようにも再現できないはずである。

 正直、それを仕掛けた私が言うのも変な話ではあるのだが、私自身、同じことをしろと言われてもできないのだから、他人ならばなおのこと無理に決まっている。

「ふふっ。鬼が出るか、蛇が出るか。あるいは……殺人ピエロでも出てくるか、か」

 そして食堂があるであろう五階のフロアへと向かうことにした。

 今更ながらに、まだ五階にだけは足を踏み入れていなかったことに気づてしまった。

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