第一章
塾の帰り道、自転車をこぎながら夕食のことを考えていた。
光の灯った家から子どもたちの騒ぎ声と、木炭が燃える匂いがする。バーベキューをしているのだろうか。
匂いにつられてお腹の虫が鳴き始め、ペダルを強く蹴ると、夏の匂いを残した冷たい風が頬を撫でた。
暗くなった空には星と欠けた月が浮かんでいる。
『天つ風
雲の通ひ路 吹きとぢよ
をとめの姿 しばしとどめむ』
舞を踊る乙女を天女に見立て、【
私は百人一首の中で、この詩が一番好きだ。
家の近くの公園に通りかかり、隠れてしまった月を見ようと自転車を止めて公園の中に足を踏み入れた。
いつもは手持ち花火をしている家族連れがいるのだが、今日はいないようだ。
そのせいもあってか妙に静かな気がする。速い鼓動と自分のゆっくりとした足音だけが聞こえる。『大丈夫。怖くない。怖くない』と自分にひたすら言い聞かせながら歩みを進める。
公園の真ん中に着くなり、すぐに地面に腰を下ろし、月を見上げた。気が付くと、先ほどまでうるさかったはずの自分の鼓動は聞こえなくなっていた。
キラキラと光る月を見て、ふと、今日の夢を思い出した。
『いにしへ交わしし契り
琥珀色に輝く月ぞ
我らにいかでか、力貸したまへ
南に流るる川のかたはら
北なる山のふもと
二つの声の重なりしほど
救ひを求むるものうちいづる』
歌い終わると、目の前を風が通った。
月がちょうど南の方に見え、『そろそろ帰ろうかな』と思い、地面に置いた鞄をもって土を払う。
『うわああああああああああ』
急に耳元で叫び声が聞こえ、反射的に隣を見ると、そこには先ほどまでいなかったはずの男の子がいた。
ゆっくり距離を取りつつ、ある一つの仮説が頭によぎる。
最近話題になっていた【狼男】かもしれない。
「隣町の
ぐるぐると同じところを回る思考を一旦止め、深呼吸をする。
ひとまず、彼が【狼男】ではないと判断し、驚いて固まってしまった彼をよそに元の位置に腰を下ろした。
すると、彼もゆっくりと私の隣に腰を下ろした。
まだ警戒をしているのか、私の方をちらちらと見ている。
私も少し警戒していたが、気付いていないふりをして『こんな時間に何しに来たの?』と月を見ながら尋ねた。
警戒心からか、話すのを少しためらってから、硬い口調で『月を見に来た』と空を見ながら答えてくれた。
月明かりに照らされた彼の顔は、彫りが深く整っていた。暗闇で見ていたから気が付かなかったが瞳は青く、まつげが長い。外国人かもしれない。
そう思って『私、
すると彼はこちらを見て微笑んだ。
『僕は、ガブ。よろしく、美奈ちゃん』
そういって私に握手を求めて、手を差し出した。私はその手を握って微笑んだ。はずだった。
私とガブの間を風が吹き抜けた。
私の手は何もない空を握っていた。
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