第116話 許嫁の嫁力はどんどん上がる
「疲れた……」
その日の放課後、文化祭準備を終えてから真っ直ぐ家に帰宅した莉音は、そう吐き出すように声を出しながらも、ソファに腰を下ろした。
「お疲れ様です」
莉音がソファに座れば、先に家に帰り着いていた結愛がキッチンからリビングの方へと足を運んでくれる。
さっき帰宅して、今から夕食のメニューでも決める予定だったのか、リビングに来たのは開いた冷蔵庫を閉じてからだった。
「何だか随分と眠そうですね」
「あーそれがあの後に意外と重労働させられてな。掲示板を持って行ったり来たりしたから、割と疲れた」
重い腰を下ろした莉音は、ぐったりと手足を脱力させ、全体重をソファにかけていた。
普段から日常的に筋トレしているとはいえ、疲れるものはどうしても疲れる。
筋トレしていたから今の状態で済んだのであって、していなかったら筋肉痛にでもなっていただろう。
ただ眠気だけが莉音を襲った。
「莉音くん、それならご飯の前に休んでおきますか?」
「結愛には悪いけど、そうするつもりだった。早く部屋戻ろうかな」
「…………そうじゃないですよ」
結愛からの温かい言葉を受け、すぐに部屋に行くことを決意する。
今にも眠りそうなまま結愛の相手をするのは失礼だし、ほとんど停止しかけている思考回路だと理性なんてないに等しい。
結愛に「帰ってきたぞ」と挨拶だけして部屋に戻ろうと思っていた莉音は、ついつい癖で座ってしまったソファから立ち上がろうと、足に力を入れた。
だが、それが止められたのは、隣に来ていた結愛が莉音の体をソファへと沈めたからだった。
「…………私の膝、お貸ししましょうか?」
莉音の体は立ち上がることなく、すぐ横に座った結愛の膝に視線が向いた。
俗に言う膝枕というやつで、借りるのは膝というよりは腿に等しい。
前に少しだけやられたことがあるのだが、あの感触にはおそらく常人は耐えられない。
今は学校から帰ってきてすぐなので、結愛も着替えずに制服を着ている。
結愛は肌が弱いのか、夏でも焼けないように薄手のタイツを履いているが、どうもそれだけじゃカバーし切れないものがある。
結愛は細い膝をぽんと叩いて莉音が身を委ねるのを待っているが、莉音としてはろくに回らない頭をフル回転させ、迷っていた。
「いや、悪いだろ……。それに、家に帰ったら俺が結愛に優しくするって約束したのに」
「それ、覚えてくれてたんですね」
「忘れるわけないだろ」
結愛は膝に置いていた手でスカートの裾の部分をきゅっと握り、そう言葉を溢した後に唇を結んだ。
何か迷っているのか、閉ざした口を開くのは、それから少し経ってからだった。
「でも、それはまた今度で大丈夫です」
「え?」
莉音は結愛からの言葉に、聞き返すようにそう声を出した。
「私は疲れてる人に無理をしてまで優しくしてもらおうとは思わないです。疲れてる人には、むしろ優しくしてあげたくなります」
苦渋の選択とでも言うべきなのだろうか。
結愛は自分のことを後回しにして、莉音のことを優先した。
もちろん結愛の中にもちょっとだけもどかしさのある思いを胸に抱いているが、それが顔に出ることはない。
だって結愛にとっては、自分が甘やかされることよりも、莉音を甘やかすことの方が大切だから。
「だから、膝貸しますよ?」
「でも、、、」
「女の子が誘っているんですから、莉音くんは大人しく従えばいいのですっ」
いつまで経っても煮え切らない態度を取る莉音に、結愛は半ば強制的に莉音の顔を自身の腿へと押し付けた。
ソファに座っていたので、急に押し寄せられた顔は横向きで、目の前のテーブルを眺めるようにして膝に乗せられた。
その行動に恥ずかしさでも感じているのだろう。結愛は白い頬を赤い頬へと変えていた。
「私に優しくするのは、疲れが取れてからでいいですよ。…………まあそんなことしなくても、莉音くん十分優しいんですけどね」
「…………強引だな」
「嫌でしたか?」
「嫌なわけないけど、強引だなって」
それもこれも莉音が臆病なせいなのだが、結愛は微笑みながら「ふふ、そうかもですね」と満足そうな顔でそう言った。
莉音が乗せられたのは本当に腿であり、スカートの裾の部分がちょうど目の前にあった。
乱暴に押し寄せたことで、結愛のスカートは翻るように捲れるが、中にはタイツを履いているので見える景色が変わるわけではない。
これが生足なら景色や感触がよりリアルに伝わっていただろうが、タイツがあるのでまだ破壊力は半減される。
それでも腿の柔らかさが消えるわけではなく、莉音の頬には華奢でタイツ越しでももっちりとした感触が伝わっていた。
そこには人肌の温かさがあり、結愛からの和らぎのある手つきで頭を撫でられれば、至福の時間とでも言うべきか、眠気はどんどん強くなっていき、莉音を引き摺り込んだ。
つい顔の位置を変えて上を見上げてみれば、途中にはしっかりと実った山があり、それが視界に入れば居た堪れない気持ちになるので、見ないように顔は横に向けておいた。
「とりあえず今は休んでくださいな。莉音くんが私の事を色々と考えてくれているのも分かりますし、最近頑張ってるので疲れてるのも分かります。でももうすぐ文化祭も近いんですよ?休める時にゆっくりしていてください」
ホスピタリティに溢れる声と口調と表情と、それら全てを同時に受けてしまえば、莉音の視界は次第に暗くなっていく。
瞼を開いている力も少しずつなくなり、ただ結愛からの温かさだけが全身を走っているかのように流れた。
「今寝たら、お風呂とかご飯とか遅くなるし……」
「そんなのは気にしなくていいんですよ。ここには私しかいないので、誰の迷惑にもならないですから」
「結愛の迷惑になる」
結愛が莉音のためにならほとんど何でもしてくれるというのは分かっていたが、それでも確証となる言葉が欲しくて、莉音は眠りそうになりながらも必死に堪えて口を開く。
「んー、じゃあ私は、寝てる莉音くんの寝顔でも堪能しましょうか」
「俺の寝顔?」
「はい。それなら私にとっても迷惑になりませんよね?」
「…………ならないかもだけど、その逃れ方はずるい」
「えぇ。私はずるいですよ?否定するつもりもありません」
「…………そういうところも、ずるいぞ」
莉音の視界には映っていないものの、結愛が優しく微笑んでいるのが、莉音には大体想像がついた。
そして実際その通りであり、包容力しか出てきていない、いわば母性の塊とでも言うべき表情を、結愛は顔に浮かべていた。
「それにですね。私は、疲れた莉音くんとご飯食べるよりも元気な莉音くんとご飯食べたいです。莉音くんが美味しそうに食べてる顔、見たいんです」
「そうだよなぁ、結愛はそうだもんなぁ」
莉音は半分寝たような状態になりながら、そう返す。
莉音だって、料理を褒められて嬉しそうに頬を緩める結愛の顔が見たい。
毎日似たような事しか言えないのに、毎日心からの笑みを浮かべる結愛が、莉音は見たい。
「…………本当、結愛は俺を甘やかすのが上手いなぁ。って、俺がダメダメなだけかもしれないけど」
「莉音くんの弱い所は全てお見通しですよ?なので全身全霊で甘えていればいいんです。それが私にとっても嬉しいことなので。なのでダメなことではないですよ?」
「そう言われると、俺は、休むしかなくなる……」
「ふふ、そうでしょう?早く寝ちゃってくださいね?」
結愛とそんなやり取りを行いつつも、柔らかく繊細な指が、莉音の頭を撫でていた。
そこで必死に堪えていた莉音の意識も途切れ、ぱたりと電源が切れたように体から力が抜ける。
「よしよーし、いつも頑張ってて偉いですねぇ」
結愛はそう言葉を発しながら莉音の頬や頭を撫でるのだが、すでに夢の世界へと旅行に出掛けた莉音にその声が届くことはない。
「あら、もう寝ちゃいましたか」
自身の腿で幸せそうに眠る莉音を、結愛は上からじっと眺める。
「…………無防備で、可愛い寝顔」
普段の大人びた表情もなく、今は莉音の顔の作りそのものが表れていた。
そんな莉音の顔全てをなぞるように指を走らせて、結愛は小さな声で呟く。
それだけで満足出来なくてついつい写真にまで残したのは、結愛なりの乙女心というものか。
「私のことも、ちゃんと甘やかしてくださいね?」
その言葉を追加で溢すのも、また乙女心ゆえか。
【あとがき】
・2人の夕食はカップ麺になりました。
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