第31話
夜が明けた。
とはいえ、几帳や御簾や格子で隔てられた屋内は、まだまだ薄暗い。
美徳は瞑想をやめ、ゆっくりと目を開いた。
瞑想は、半日に及ぶ日があればすぐに終わる日もある。今日は前日の深夜から、寝ずにそのまま朝を迎えていた。
結局、桜の老木については浅井の木津も詳しくはわからず、彰親が陰陽寮の書物を読み漁っても、何も得られないまま日々が過ぎていた。珠子に関連する人物が行くと妖が触発されるために、美徳は珠子に接触せず救出を引き伸ばしていたが、瞑想の中でそれは危険だという答えが、徐々に大きく出始めていた。それでも美徳は、忍耐強く救出の日を待っていた。
あれほどの大きな瘴気を放つ妖を相手にするには、浄化に最適な日を選び、被害を最小限に食い止める必要があった。しかし、老木の瘴気は二人の力の限界を超えかけており、日を待ってはいられないようだ。
美徳は息を吐いた。静かに立ち上がり、几帳の位置を変えて格子をあげると、外の冷気がじわじわと凍み入ってきた。厨に行き、下女に水を分けてもらって顔を洗い、綺麗に鬢を整えて烏帽子を直した。
支度を整えると、文机に昨日の夜から置かれたままになっていた、木津からの文箱を空け、上から順番に目を通した。大半は諸国の状況などの報告が、ぼかして書いてある文だった。最後に一番下にある文を広げて、美徳は花のような笑みを浮かべた。
やや拙い感じのするそれでいてやさしい手蹟は、彼の愛する妻からのものだった。妻はいつも美徳の身を気遣うだけで、長い間離れていても文句の一つも書いてくれない。自分と姫は元気でみんなと楽しく過ごしている、とあるだけだった。
文からは、妻がいつも使っている香りがわずかにした。
これだけで、身も心も生き返る心地がする。
それから数刻後、書物を読んでいる美徳のところへ、女房の楓が朝の膳を折敷に載せてしずしずと局に入ってきた。
「美徳様。どうぞ」
「いつもありがとうございます。ですが、私はそんな身分ではありませんから、放っておいてくださってかまいませんよ」
美麗で清潔な感じの、それでいて頼もしさがある男に微笑みかけられ、若い楓は天にも昇る心地だ。
「まあ、とんでもございませんわ! 彰親様のお客人様をおもてなしもしないなんて、良識を疑われます。それに美徳様のお世話を、もっとさせていただきたいんですの。何かございませんか?」
「特にありません。お心遣いいたみいります」
「……いつでもお呼びつけくださいませ。では」
息がかかるほど近づかれても、美徳の柔らかな表情に変化はない。
まったくもってつれない態度だ。だがそこがいいのだと、楓はかえってしびれてしまう。妙なしなを作って楓はいそいそと局を出た。
主人の彰親から、美徳には北の方がいるし愛妻家だから、みっともなく言い寄るのはやめなさいと注意されているというのに、この時代は一夫多妻は当たり前で、自分ひとりが増えたところで特に問題はないと楓は思っているのだ。
これはここに美徳が来てから毎日のことで、楓の日もあればもう一人の女房の葵の日もある。若い女房二人は、完全に美徳にのぼせ上がっているのだった。
浮き浮き顔の楓は、こちらへ慌しく歩いて来た葵に鉢合わせした。
したり顔で楓は挨拶をする。
「あら、ずいぶん遅くのお目覚めね。女房としていかがかしら?」
「……変な用事を言いつけてくださった、誰かさんのおかげで夜更かしよ」
「あら? あれしきの事で……」
「じゃあ今日はあんたがやってみなさいよ! 朝どころか夕方までぐっすりお休みかもね」
挑発して笑う葵に対して、余裕たっぷりに楓は微笑み返した。
「美徳様は、私を気が利く女房だってお褒め下さったのよ!」
「それは貴女の思い込みではなくって? いやあねお若いのに、頭がボケていらっしゃるのではないの?」
「ボケとはなによ! 誰も見向きもされない年増がっ」
「そちらこそ恋のなんたるかもしれない童のくせに。美徳様とあんたがつりあうわけないでしょ! 鏡見てきなさい。あー、あんたは駄目か、鏡が曇ってましたものね~。あれじゃ真実の姿もわかりませんわ。ほっほっほ」
「まあ何をっ! あんたこそ白粉はたきすぎて袖口真っ白、粉ふき婆って新しい妖かと思ったわ。殿にお伝えして調伏していただかなくては!」
美徳が静かに粥をすすっている直ぐ近くで、女房たちが口合戦を加熱させているところへ、彼女達の主人、彰親が現れた。またこれも、いつもの光景なのだった……。
「……お前達、お客人の近くでなんとはしたない。用事が済んだら早く行きなさい」
二人は主人に醜態を見られたのを恥じて、あたふたと退がっていった。
美麗な男に興味を持つのは仕方がないとはいえ、これでは彰親のしつけが行き届いているとは言えない。やはり、侍女をまとめる女……妻が必要なのだろう。
彰親が閉じた扇でこめかみを突きながら局に入ると、美徳は粥を食べ終えて、碗とさじを折敷に戻しているところだった。
「申し訳ありません。いつも注意しているのですが、どうにもこうにも……」
「にぎやかでよろしいことだ」
美徳は微笑している。彰親は深くため息をついて、袖を払い、円座に座った。
「美徳殿は妻帯者だと言っても、あきらめぬようで。まったく女子というものは」
「はは。それは貴方も同じでしょう。珠子があの惇長殿を愛しているとわかっておいでなのに、なお諦めきれておられない。もっとも、女房の方々の場合はすぐに消える病の様なもの、私は全く気にしていません」
「それならばよろしいのですが……」
「それより」
美徳が厳しい顔になった。
「珠子の救出を早める必要があります。詔子姫の三周忌法要前日と言っていましたが、事情が変わりました」
「……星が動いたと思っておりましたが、やはり……そうですか」
蘇芳の色をまとったままの彰親は、内裏から帰ってきたところだった。
それが言いたくて来たのだろう。手に持っていた星の図を、彰親は美徳の前に広げた。美徳の顔はさらに厳しいものになった。
「これは……」
「陰陽寮でも大騒ぎになっております。それなのに、陰陽頭がこれを新主上に奏上しないと言い張るので、だれも逆らえずに頭を痛めているのです。世が変わったばかりだというのに、これしきのことで、いたずらに世を騒がせるのはよくない、というのが陰陽頭の言い分です」
「何故そのような男が、陰陽頭になったのです」
「適材適所といかぬのが世の常でしょう」
思えば不思議なものだ。
身分蔑視が激しいと思われる惇長だが、彼の親友といえるべき彰親は身分が格下だし、配下の者達にはとても好かれている。惇長の指揮している左近衛府はいつも整然としており、彼が大将の任をいただいた時から、内裏で火事や盗人騒ぎは一度も起こっていない。
美徳は、袖を包むように両腕を組んだ。
貴族社会は身分や家柄、そして財の有る無しが人事に影響を及ぼす。その悪い例だろう。美徳から左大臣へ伝えてもいいのだが、美徳の存在は影に徹底しており、それをあきらかにしてしまいかねない密告はできかねた。大事を先日惇長へ漏らしたのは、左大臣を通しての主上からの指示だった。
彰親も左大臣に目をかけられているとはいえ、さすがに公でそれと悟られるような行動は、同僚達の反感を買うだろう。
「惇長殿が宇治においでなのは、あとどれほどでしょうか?」
「予定ではあと四日ほど滞在のはず」
「惇長殿に何とかしてもらうしか、手はなさそうですね」
彰親が惇長へ密告したのだと、当然、陰陽頭は大騒ぎするだろうが、天変地異が起こっても不思議ではない星の配置を前にして、陰陽寮の面目や彰親と陰陽頭との確執だとか、しのごの言っている場合ではない。
非公式ではあるが彰親は惇長の案件を、度々手伝っている。左大臣に密告するほどの反感は起きないだろう。
彰親は黙って頷き、賛同する。
それほど厳しい星の配置なのだ。
彰親が家人を呼び、惇長へつなぎをかける手はずをしていると、いきなり稲妻の様な妖の気配の爆発があった。
「今のは……」
彰親が呟き、美徳とともに縁から庭に降りて、空を仰いだ。
一般の人間には普通の曇り空でも、気の変化に敏感な彼らには、どんどん強くなる妖の気配が暗雲のように立ち上り、増幅していくのがはっきりと見えた。
「右大臣邸の方角ですね。桜の妖を挑発した人間が居る。珠子の身が危ない」
「すぐに馬を……!」
そこまで言いかけて、ふっと彰親は言葉を切った。
衣擦れの音と共に女房の葵が現れた。
「殿、成時の中将様がお越しです。至急お伝えしたい事があると」
珠子は高熱が出て臥せっていた。
最初はただの疲れから来る風邪だろうと思っていたが、治らないままぐずぐずとしている間に悪化し、ついに先日高熱を発して倒れた。
慌てた成時が医師に見せたり、僧を呼んで祈祷したりさせたが一向に良くならない。それどころかますますひどくなってきた。
(苦しい、気持ち悪い……)
頼りたい者が誰一人近くに居らず、心細くて珠子は涙をぼろぼろ零した。
成時の手厚い看病は何の慰めにもならない。おまけに今日は朝早くから外出してしまったようで、珠子は一人ぼっちで熱に苦しんでいた。
(まだ皆怒ってるのかしら。どうして誰も助けに来てくれないの? 私一人じゃ、ここから逃げるなんて無理なのに。いつになったら許してもらえるのかしら……)
珠子は事情を知らないので、ずっと美徳たちが怒って迎えに来てくれないのだと思い続けている。
汗びっしょりになって、衣が肌にまとわりついて気持ちが悪い。
こんな時に思い浮かべるのは、やっぱり惇長なのだった。
もうきっと忘れられてしまった。弥生に入って、契約結婚の終わる時が数日後に迫っている。このまま会わずにいようと、薄情にも思っているのかもしれなかった。
非難がましく思ってしまうのは、苦しくて絶え間ない吐き気が珠子を苛むからだ。
こんな自分は大嫌いだ。
だから、きっと見捨てられても仕方ない……。
死期が近いのなら、路が来てくれるはずなのに、その気配もない。
きっと、愛のない結婚をしたから地獄へ堕ちるのだろう。
惇長を信じ切れなくて責めてしまったから、そんな薄汚い人間は鬼になってしまうのだ。
「怖い……よ」
その珠子の局の前の、庭の土が怪しく盛り上がり、ずるりと黒いものが這い出てきた。明らかに妖である。
何匹もの蛇のようにうねるそれらは、どろどろとした粘液を滴らせながら、縁の下から建物の枠組みを伝って縁に至り、開けられている格子から侵入していく。
ずるり。
ずるり……。
ついにそれは珠子の足元に現れ、大袿の裾をまくってその中へ入っていく。局の周囲には誰も居らず、中には珠子一人で誰も怪異に気づかない。
ずるり。
ついにそれは珠子の左足をつかんだ。
「だ……れ?」
熱い息を吐いて、珠子は気だるくそれを蹴って離そうとした。すると右足にもそれは絡みついた。
「なに……」
哉親がよからぬ意地悪をしているのかと、目を見開いた珠子は仰天した。
いつの間にか、褥の周りにぐるりと、黒い蛇のうねった様な触手が蠢いている。大小さまざまな人間の目が沢山付いているそれは、腐臭を放って珠子に迫っていた。
「ひ……!」
「おっと逃げるでない」
這って逃げようとした珠子の前に、突然その哉親が立ちはだかった。
哉親は珠子の黒髪を乱暴に掴んで、その細い身体を引きずり上げ、あろうことか庭一面に溢れている、妖の触手の群れに放り込んだ。
「やあああっ!」
腐臭を漂わせるごつごつとした黒い触手が、一気に珠子の身体を絡め取り己の中に引きずり込んだ。
もがく珠子に哉親の哄笑が落ちてくる。
首を絞められた珠子はただでさえ高熱で朦朧としているので、本当に今、命が潰えてしまうかもしれないと思った。
妖はずるずると、珠子をどこかへ連れて行こうとする。
高熱の汗にぐっしょり濡れている珠子は、外気の冷たさでますます震えた。
それでもかろうじて声を絞り出し、触手にまきつかれた細い腕を前へ必死に伸ばして、助けを呼んだ。
「だれ……か」
「誰も来るものか。お前は妖の贄になるのだ。中将殿の正妻よりもお前にふさわしかろ? ははは」
恐ろしくて苦しくて、珠子はぎゅっと目を瞑った。
こんなになっても誰も助けに来てくれない。
詔子も何も反応がない。
「この右大臣邸は素直な者が多くて助かる。この陰陽頭の哉親が命ずればなんでも言う事を聞く。占いを馬鹿正直に信じて、操られているとも気づかずに、誰も来ないとはなあ」
黒い触手の出所は、詔子が指差していたあの桜の老木だった。
老木の根元から黒い触手が、有象無象にうねうね伸びて腐臭が放ち、辺り一面異様な気配が漂っていた。根元に大きな穴が空いていて、そこへ触手たちは珠子を引き入れ始めた。
「や、だっ! 離してっ」
「黙れ馬鹿めが! 叫ぶでない」
哉親に沓でお腹を蹴られた珠子は嘔吐した。それを触手どもの先に開いた口が、先を争って食い漁っていく。なんともおぞましい光景だった。
痛くて恐ろしくて苦しくて、珠子は涙が止まらない。
(こんなふうに死んでしまうのなら、もっと惇長様にしがみついていればよかった。嫌われても冷たい目で見られても)
皆に見捨てられた姫は、こんなふうに朽ち果てていくのかもしれない。
このまま、妖に食い殺されてしまうの運命なのだろう。
自分は父宮と母の傍へ行けるのだろうか。ひょっとすると妖に取り込まれたまま、永遠に闇の中に閉じ込められるのかもしれない。
(怖い。怖い。惇長様……助けて)
触手に強く締め上げられて息ができない。身体が冷え、そのまま意識が遠のいていく。
その小さな耳に、愛しい人が、自分の名前を叫ぶ声が聞こえた気がした。
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