第32話

「おお……これは素晴らしい」

 院が楽しそうに笑まれたのを、惇長はうれしくお見受けした。

 珍しく青空が垣間見えていた。御簾越しに見える庭は四季おりおりの木々が趣き深く、こしらえられた池にかかる橋も優美で、敷き詰められた石も宝石のようなまばゆさだ。

 この院の御所は、前の右大臣藤原時道の別荘であったのを、現右大臣から左大臣が譲り受け、自身の別荘として改修してあったものを左大臣が進呈したものだった。

 まだ女房達が揃っていない為、惇長が、院に食べ物や飲み物を持った盆を捧げると、院はその中から白湯の入った椀をお取りになり、ゆっくりと口にされた。

「大将」

「はい……」

「私は、こんなに心穏やかになったのは久しぶりだ」

 惇長は黙って頭を下げた。

「いや、そなたを責めたくて言っているのではない。むしろ、礼を言いたい」

「勿体のうございます」

「皇后も同じように思っている……。こう、泣きむせんでな……」

 そっと袖を目元にお当てになり、院は笑まれた。思えば、院がこのように笑まれたのはいつが最後だったろう。前の右大臣失脚に始まり、愛する皇后と、新勢力の左大臣とその中宮に挟まれ、どれほどのご心労があったかと思うと、惇長は何もわかっていなかった自分の不甲斐なさが情けなくなる。

「そなたが、いかに影で尽くしてくれていたのかは知っている。それゆえ、何もできぬわが身が恨めしかった。此度の譲位、さぞ恨みに思ったであろうな」

「いいえ。私は……」

「そなたには感謝してもし尽くせぬ。そなたのような臣はまこと得難い。新しい帝をよくもり立ててほしい。あれは歳が近いせいもあるが、特にそなたを頼りに思っているゆえ」

「いえ、私など」

 女房達が揃ってきたが、院と惇長に配慮して几帳の影に控えて近寄ってこない。院のお人柄で、細やかな心遣いができる女房が揃っているのだった。

「大将、これを……」

 院が懐から笛を取り出された。愛用されていた吹雪という名笛である。惇長はそれを自分の前に差し出され、受け取るのかどうか躊躇った。

 院は静かに笑まれたままだ。

「そなたの意中の姫は、琴をよくするとある者から聞いた。そなたは笛が得手であろう?」

 左府か大納言から珠子の存在をお聞きになったのだろう。惇長はわずかに顔を赤らめた。それこそが院がお望みになっていた、惇長の表情だった。

「拙いものでございます」

「ならばこれからよくせよ。いつか……、二人が奏するのを聞いてみたい」

 惇長が拝むように笛を賜り、大切に自分の懐へしまったのを確認された院は、満足そうにうなずかれ静かに袖を払われた。それを合図に女房達がいざり寄ってきたので、惇長は静かに退出した。


 自分に割り当てた部屋に戻ると、先ほどの惇長と同じように、由綱がお菓子などを盛った盆と水を捧げ持ってきて

「無事に済み、ようございました」

 と言い、惇長はそれを受け取りながら頷いた。

「皆滞りなくできたのは、そなた達のおかげだ」

「このような華やかな供奉に連なれて、皆、光栄に思っております」

「そうだな」

 大役を終えた惇長は、疲労を感じながら首をゆっくりと回した。

 そこへあわただしい足音が近づいてきた。何事かと由綱が立ち上がり出て行ったかと思うと、難しい顔で戻ってきた。

「どうした?」

「頼胤の大納言様からの遣いです。桜花殿で火急の用であるとか」

「何!?」

 頼胤の遣いとあっては、真実何かであろう。立ち上がろうとする惇長を由綱が止めた。

「お待ちください。なにやらきな臭うございます」

「中納言殿ではあるまいし……」

「ええ、どうもその絡みがあると私は思います。あの遣いは確かに大納言様に仕えている一人ですが、中納言様の家司の娘を娶っておりまするゆえ……」

「……そこまですると思うか?」

「供奉が、無事にすんだところを見計らう辺りが」

 ふと惇長は、彰親が今回の供奉の日を変更したほうが良いと、言っていたのを思い出した。それは常になく強い口調で、日ごろ穏やかな彰親らしからぬ態度だった。

 しかし、院や皇后や中宮には悪くない日で、惇長は自分の都合でほぼ決まっているこの移動を取り消せないと却下した。それほどの大人数が動く供奉なのだった。

 陰陽頭と手を組んでいる義行の中納言だ。そんな星の動きを見て仕掛けてくる可能性は高い。

 そして、珠子が絡んでいるのはほぼ間違いない。

 無視する類の罠とわかっていても、行かないわけにはいかなかった。

「殿」

 由綱の言葉で、うつむいて思案に沈んでいた惇長は顔を上げた。

「罠であろうが、行かねばなるまい」

「しかし」

「珠子がきっと絡んでいる」

 人を集め、後を手短に指示し、惇長は狩衣に着替えて馬に飛び乗った。従ってくるのは由綱達、信頼の置ける者達ばかりだった。

 先ほどとは打って変わって雲が深く垂れ込めてきて、雪がちらつきはじめた。

 さびしい小道に入った頃、惇長の馬が突然いななきながら横転した。惇長の身体はそばを流れる川へ飛び、惇長は身を濡らしながらとっさに川べりの草を掴んだ。川の流れは激しく氷のように冷たかった。

「殿!」

 由綱が馬から降りて、他の者達と一緒になって惇長の身体を引き上げようとしたが、それを川から突然沸いて出てきた黒の触手が阻んだ。珠子を襲ったあの妖である。触手は惇長の身体を由綱達から奪い取り、川の底へ引きずり込んだ。恐ろしい力で惇長がどれだけ抵抗してもなす術もない。

 ふと、詔子の香が香った。

 それを何故水の中で感じるのかと思った途端、惇長の意識は暗闇に沈んだ。




 珠子は誰かの腕の温もりの中で目を覚ました。

 真っ暗だった。これが死後の世界なのかと思う一方で、誰かの温もりのおかげで怖くも冷たくもないと思えるのが不思議だ。

「気づいたか」

 その声で、まどろみが一気に吹き飛んで覚醒した。

 珠子を抱きしめているのは惇長だった。どういうわけなのか、真っ暗闇であるにもかかわらず、珠子と惇長の周りだけ明るく、お互いが良く見えた。

「惇長様、どうしてここに……」

「どうも我々は妖に囚われたらしい。大納言殿の偽の遣いに呼び出されて桜花殿に戻る途中に、黒い妖に川底へ引きずり込まれた」

「わ、私もですっ。あの哉親って男に」

 惇長は相変わらずつれないくらい冷静だった。それが珠子はたまらなくうれしく、頼もしく思った。

 もう何があっても大丈夫だ。

 その安心さが、珠子にこんな言葉を言わせた。

「私達は……死んだのでしょうか?」

「わからぬ」

 あれほどの高熱が嘘のように消えうせ、呼吸が楽だった。

 やはり、人は死ぬと肉体の苦痛から開放されるのだろうか。一人ぼっちで死ぬのかと思っていたが、愛している惇長がいるのならさびしくはないだろう。

 そう考えてから、愛する人の死を喜ぶなんてとんでもないと、珠子は思いなおした。そんな独りよがりな考えは、哉親とまったく変わらない卑しいものだ。

 暗闇の中に桜の花びらが一片、淡い光彩を放ちながら舞った。

「あ……」

 突然、見るからに上流貴族の子息が飛び込んできた。

 誰だろうと珠子が思っていると、抱きしめている惇長の身体が震え、唾を飲み下す音がした。

「……私だ」

 水干を着て、腰まである長い髪を首の後ろで上品に結った少年と、使用人の子という感じの少年が笑いながら走っていき、その後を同じ年くらいの少女二人が走って追いかけている。

 珠子と惇長は暗闇の中に居るのに、彼らの周りは昼のように明るく桜の花びらが降り注いでいた。

 少女二人は詔子と一条だろう、とても面差しが良く似ていた。もう一人の少年は由綱だった。

 四人とも満面笑顔で追いかけっこをして遊んでいる。珠子にもこういう時はあり、近所の童達と遊んでいた事を懐かしく思い出した。

 やがて場面は移り変わり、元服した頃の惇長になった。内裏だろうか、二、三人の同じ年ぐらいの殿ばらに何か言われている。彼らの顔つきは悪意に満ちており、悪口を言っているのが明らかだった。惇長は何も言い返さずに黙って歩いていく。由綱が心配そうにその後ろについていた。

 そのまま惇長は内裏から出て、場所は移り変わり、見覚えのある右大臣邸の庭まで歩いてきた。そして暗がりから一条の名をひっそりと呼んだ。

『こちらです』

 まだ少女の域を抜ききれて居ない一条が出てきて、惇長だけを部屋の中に引き入れた。一条は庭の由綱に目配せをして、由綱は強い意志を持った目で見返して頷く。

 何が始まるのだろう。

 中では美しい女に成長した詔子がいて、疲れて傷ついている惇長を柔らかな手で抱きしめ、待っていたと涙を流した。

 若い惇長が辛そうに声を震わせた。

『貴女を愛する気持ちに変わりはないけど……、右府は我々の仲を許さないと言っていた。貴女が辛い目に遭わないか心配だ』

『私が望んでいるのです。義行様の北の方なんて嫌、惇長様が良いの。童の頃からずっとお慕いしております。お願い、母も姉もその方が良いっておっしゃっています。だから!』

『本当に……?』

 惇長は熱っぽい目をして、同じ目をした詔子の顔を両手で挟んで覗きこんだ。詔子は咲き誇る花のように笑った。

『私も一条も同じ気持ちです。そうよね一条? 貴女と私は二人でひとりだもの』

 離れたところで一条が同じように笑って頷いた。

 詔子と惇長が、しっかりと抱き合った所でその姿は闇に溶けて消え、別の場面に移っていく。

「……詔子との結婚は反対されていた。だから、私達は結婚を強行した。この時から義行の中納言殿は、私に敵意をむき出しにするようになった」

 惇長が背後から沈んだ声で言った。

 しばらくは幸せそうな三人が居たが、それは詔子が突然倒れた頃から怪しくなった。

 はちきれんばかりの美しさを放っていた詔子が、どんどん病にやつれていく。詔子の前に現れる惇長はとても心配顔だ。

 相変わらず内裏では、惇長は石のように固い表情を崩さない。

 陣の座で、太った男に恥をかかされている。それは義行の中納言だったが珠子は会ったことがないので、嫌な男だと思っただけだった。周りが笑う中、それでも惇長は何も言い返さなかった。

 やがて、惇長は陣の座をはずされ、とぼとぼと内裏の中を歩き出した。

 追いかけてきたと思われる、一人の身分が高そうな男が、後ろから惇長に気遣わしげに声をかけた。

 惇長は小さく笑っただけで歩き去っていく。

 陣の座の上座に居た、惇長に良く似た男が、その男と男と何か深刻に話している。どう見ても惇長を心配しているのが見て取れた。

「惇長様のお父様とお兄様……?」

「変に庇いだてすれば、ますます窮地に私が立たされるのがわかっていたからこそ、二人は何も出来なかったんだ。だが当時はそれがわからず、私は二人を恨んでいた」

 惇長の声が湿った。

「あの二人だけが……いつも…………」

 息を飲んで声を詰まらせた惇長に、珠子は胸が掻き毟られた。

 惇長の周りは敵だらけだ。

 場面が移り、今度は何かを指示している惇長を、配下の者達が文句を言って無視している。数人だけが従い、惇長はしぶしぶその数人で役目を果たしていた。

 それを、遠いところから渋い目で見ている壮年の男が居た。

「あれが、詔子の父の前右府だ」

「どうしてあの人達は、惇長様を無視するのですか……」

「それが貴族だ。まだこの手合いはいい。一番厄介なのは親切顔で近づいてきて裏切る輩だ。だから私は栄達をひたすら望んだ。詔子との結婚を認めない前右府を認めさせるために……、それなのに前右府は、私に当たるばかりか詔子にまで辛く当たっていたんだ」

 病に臥せっている詔子に、前右府が何か声高に怒っている。

 一条が必死に詔子を庇って、前右府は今度は一条に当たりだした。

 成時が、逆上した前右府を背後から羽交い絞めにして何やら叫び、前右府が顔を真っ赤な怒りに染めて部屋を出て行った後、成時が二人をしきりに慰めていた。


 再び場面が移った。

 今度は、珠子が桜花殿でうつつに見た、あのずぶぬれの惇長が現れた。一条が驚いて部屋に入ろうとする惇長にすがった。

『なりませぬ。惇長様にまで罹ったら……!』

『詔子の病になら罹って死んで本望だ。通してくれ』

『いいえ、いいえ……詔子様は……っ、あ!』

 惇長は泣いて止める一条を振り払って部屋に押し入り、几帳に囲まれた褥に臥せっていた詔子の前に座った。

 詔子は一瞬うれしそうに微笑んで、すぐに悲しそうに涙を流した。

『どうしておいでになったのですか……。貴方にだけは生きて幸せになっていただきたいのに、それがどうしておわかりにならないのですか』

『私もそれは同じなんです、詔子。こんな病は直ぐに治る』

 詔子はもう命が途切れかけていて、ひどく顔色が悪かった。伸ばされた細い手を、惇長が頬に擦り付けてやさしく微笑むと、同じように詔子も微笑んだ。

『……貴方の幸せは私の幸せ、私の幸せは貴方の幸せ……忘れないで』

『そのとおりです。愛しています、貴女だけを生涯。一条の事はご心配なく……ずっと一緒ですよ』

 詔子の命を繋ぎ止めるかのように、惇長は詔子の手に縋った。

 いつしか、微笑んでいるのは詔子だけで、惇長も一条も泣いていた。


 また場面が移った。

 前右府が小さな布袋に包まれたものを受け取っている。渡している男の顔に珠子は見覚えがあった。石山の寺で出会った源晶だ。その姿は出家していないので有髪の直衣姿だった。

「あの薬だ。あの薬で前右府に疎まれていた詔子は毒殺されたんだ。源晶はあの毒薬と引き換えに、大将の位を手に入れようとした」

「え……?」

 前右府は今度は成時にそれを手渡していた。成時は深刻な顔で何かを問い返している。

 惇長と詔子と一条の声しか聞こえないため、何を言っているのかわからない。

 最後に映ったのは、薬を飲んで命尽きた詔子。薬を飲めと薦めた成時が、詔子の亡骸を抱きしめて泣き咽んでいる。成時はそれが毒とは知らずに飲ませたのだろう。一条も泣いていた。惇長は呆然とそこに立ちつくしていた。その目に涙はなかった。


「何故……、こんなものをまた私に見せる……」

 苦しげに惇長が言い、珠子の肩に顔を埋めた。

 映る物が消え、再び珠子と惇長の二人きりだけの空間に戻った。

 珠子を強く抱きしめたまま肩を震わせる惇長は、いつもの彼からは想像もつかない程の弱弱しさだった。

(こんな苦しみをこの人は抱えていたの……)

 誰にも辛い過去はある。それは身分に関係なく、平等に天から与えられるものだ。

 だが、小さな世界で生きていた珠子に比べ、宮中などを含む、大きな世界で生きている惇長のそれは、とても重圧に満ち、重苦しいものだった。

 惇長は自分の身に関する不平不満を、珠子の前で一度たりとも漏らしたことはないし、そのような話をほのめかしたりもしなかった。

 敵だらけの宮中を必死に生き抜いて、今、惇長は中納言兼左近衛大将という身分だ。ひたすら栄達を望み、それこそ生き馬の目を抜くような謀略の数々もこなし、またそれらが幾たびも惇長を襲ったに違いない。

 後宮での惇長の評判は素晴らしいもので、慕う貴族も多く居たのを珠子は覚えている。

 そこまでするのに、惇長はどれほどの試練を自分に課したのだろうか。

 心の鎧を始めて下ろした彼は、初めて向かい合う新しい惇長だった。


『やっと、お認めになられましたね』

 詔子の声が響き、珠子を抱きしめている惇長が跳ね返ったように顔を上げた。

 二人の前に美しい紫の襲の詔子が、光に満ちて立っていた。

「詔子……」

 わなわなと惇長の腕が震え、珠子はその腕を外すのを手伝おうとしたが、何故かかえって強く抱きしめられて身動きができなくなり、惇長の胸に横顔を押し付けられた。

「お前はもう、死んだはずだ」

『そう、私はもうとっくに現世の人間ではありません。それなのに貴方はいつも認めようとなさらず、ご自分の心を握りつぶしておいででしたね。でもそれは結局は新たな過ちを呼び、ますます苦しみの中へ……。苦しくてたまらなくなった貴方は、ついに私を甦らせようとまでなさった』

「ああ、そうだ。彰親は嫌がったが私は説得した」

『何故、彰親様や一条がそんなことを許したのか、何故左府や大納言様が見てみぬふりをされておいでか、何故珠子様がお許しになったのかおわかりですか』

 詰問のように鋭い詔子の声に、惇長は黙り込んだ。

 珠子は、もぞもぞとなんとか顔だけ動かして詔子に振り向いた。

「詔子様。どうかそれ以上は……」

『お優しいのね珠子様は。惇長様は貴女を殺そうとした男なのですよ』

「わかっています。でも、それでも、惇長様を今は責めないでください。きっと全ておわかりなのです。わかっておいでだからこそ何も言われないのです」

 詔子はくすくす笑った。それはだだをこねる子供の所作に、母親がたまらずもらした温かな笑みの様だった。

『殿方も女子も大人になるのが難しいこと……。だからこそ愛おしいと思う心の鬼に責められて、苦しむのかもしれませんね』

 珠子は惇長に抱きしめられたまま、詔子をじっと見つめた。

 詔子は珠子の様な子供っぽさは無く、いかにも貴族の淑女然とした雰囲気の持ち主で、どう足掻いても自分など敵いそうにない。

 惇長が、復活を望むほど恋焦がれたのがよくわかる。

(私こそが……身を引くべきなのかも)

 自然の摂理に逆らっても、それがみんなの幸せに繋がるのではないだろうか。  

『さあ、これからが本当の試練です。ほんの手助けにとお二人をお呼びしましたが、それはこの妖の貸し。貴方達はこの桜の妖を助けてあげねばなりません』

 黙っていた惇長がようやく口を開いた。

「美徳が言っていた、右府の家の桜の妖か?」

『無気味なのは、あの哉親のおかしな呪のせいです。捻じ曲げられた桜の木の本性を直して差し上げてください』

「そんな事はとても……」

 僧でもないし陰陽師でもない二人に、妖を調伏などできようはずがない。

 しかし詔子は微笑んで、空間から二面の琴を出した。翠野ともうひとつは成時に弾かされた琴だ。ふわりとそれは二人の前に降りた。

『惇長様と二人で弾いてください。桜花殿の桜は翠野、右大臣邸の老木は枯野の生まれ変わりなのです。ですが右大臣邸の枯野は、幾代も前にその力を封じられて咲けないまま苦しんでいます。一族の栄達と引き換えに力を吸い取られているのです。そして地へ還して差し上げてください』

 惇長が珠子を離して枯野を取った。珠子も翠野を受け取る。

「地へ還すとは、滅するということか」

『彰親様と美徳様が、浄化とともに滅されようとしています。手助けをどうか……、よろしくお願いします……』

 もっと珠子と惇長は、詔子と話がしたかった。しかし、詔子の微笑が急にぶれて消えていく。

「詔子」

「詔子様」

『お二人とも、どうぞお幸せに』

 詔子と二人の間に、突如、白い光の裂け目が出現した。

 その眩しい光に珠子が袖で顔を覆うと、惇長が抱き寄せくれたので、その広い胸に顔を埋めた。

 ふわりと浮遊感があって、二人は上へぐんぐん押し上げられていく。


 急に凍てつくような寒さが身を包んだと思った時には、二人の姿は右大臣邸の桜の老木の前だった。

「珠子!」

「姫、惇長殿、ご無事でしたか……。良かった」

 何故か美徳と彰親が居て、その背後に成時が居た。そしてあの哉親と中納言義行の姿もある。

 哉親の顔が悔しそうに歪んだ。

「おのれ、なぜ妖はこいつらを喰らわなかったのか……!」

 大風が吹き、珠子の長い黒髪がざわりと揺れてさざなみ立った。

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