第30話
右大臣の屋敷は、朝から妙に騒々しかった。
なにか宴でも催されるのだろう。珠子は関係ないわと思いながら、刺繍をして気を紛らわせていた。
おかしなもので、珠子は右大臣家の暮らしに慣れてしまった。怖いには怖いが今のところ平穏そのものである。
話し相手は熱っぽい目で見つめてくる成時だけだが、彼は珠子に強引な真似は絶対に仕掛けてこない。少しでも珠子がおびえると、さっと手を引き、
「貴女を力づくで、手に入れたいとは思っていません。この私の心がおわかりいただけるまで、気長に待つつもりです」
そう言って、珠子が望むものをなんでも叶えようとする。
どうやら本当は、押しが弱い性格らしい。
刺繍の支度も、成時がご丁寧にすべてを揃えてくれたものだ。
それはあまりにも贅沢な布や色とりどりの糸だったので、さすがに悪く思った珠子が礼を言うと、心底うれしそうに微笑み、何か都合のいい男扱いをしているような罪悪感を覚えるほどだった。
ふと、楽しさが沸いて来る。
そう思ってしまうのは、あきらかにおかしかった。
気を紛らわせるために刺繍をやっているのに、心底楽しいという感情がわいてくるのは、拉致されて無理やり連れて来られた珠子には持ち得ないものだ。
それなのに、風の音や誰かの気配に、妙な懐かしさを伴ったりすることが度々ある。
なぜだろうと思い続け、今日になってようやく思い当たった。
(詔子様のお心と同調しているのだわ……)
この右大臣邸は、詔子が住んでいたところだ。思えば浮き上がる感情には、懐かしいものに触れる喜びがある。
詔子は兄の成時に会えてうれしいのだ。この右大臣の屋敷に住めて幸せなのだ。
そして、その詔子の浮き立つ心が、救いに現れない惇長を辛く思う珠子を救ってくれている。
「姫。お元気ですか?」
昼下がりに成時が現れ、珠子はいつものようにぷいと横を向いた。誘拐犯の一味に優しくしてやる必要などない。異様によくしてくれるので、ちくりと罪悪感が沸いても無視だ。
しかし残念なことに、その反抗は、成時にはまったく通用していなかった。彼は、珠子の一挙一動が愛しくて仕方がないらしい。
「ははは。嫌われたものですね。お暇でしょうから、今日はこちらをお持ちしました。姫は琴の名手でいらっしゃるそうですね」
「……名手、ではないわ」
差し出されたのは、大切に保管されているとはわかるものの、ずいぶんと古びた琴だった。おまけに長い間、誰も弾いていなかったものと見え、絃が緩んでいた。
「私が張りなおしましょう」
「必要ありません」
女が絃を張るのはなかなか難しいものを、美徳からやり方を教えてもらっていた珠子は、ひとつひとつ手際よく直しながら、朝から気になっていた騒々しさについて成時に聞いてみた。
成時は、ああ、と言った。
「詔子の三回忌の法要があるのです」
「詔子様の……」
「惇長殿もいらっしゃいますよ」
突然惇長の名前が出て、気にしないようにしていた感情に、珠子の胸は痛んだ。
もう弥生に入った。
惇長に会えなくなって一月近くになる。大事にしていた文も無くしてしまい、なんの音沙汰もないのが辛い。兄の美徳ですら会いに来てくれないのは、あっさり誘拐された、珠子の無用心さを怒っているに違いないのだ。
成時の視線を感じ、弱みを見せたくない珠子は、ひたすら無表情を努め、ようやく調子を整えて絃を弾いた。
すると、空気が震えるような澄み切った音色が出て、その深さに珠子は驚いた。
成時も目を見開いて、閉じられている扇を握りしめる。
珠子は聞き間違いかと思い、兄に教えられた曲を弾いてみた。たちまち清浄な調べが生まれた。
「これは……素晴らしい!」
成時が興奮して顔を赤らめた。
珠子だって驚いている。
一体なんなのだろう。琴そのものは古びて翠野の様な美しさは皆無なのに、人ならぬ者達を引き寄せそうな妙なる音色が流れていく。また降り始めた雪でさえも、珠子の奏でる音を喜んで、きらきら光っているようだった。
そのうちに、人々が格子の外に集まってきた。
人に注目されるのが嫌な珠子が演奏を止めようとしても、外に居る者達が続けるように言うので、仕方なくまた弾いていく。
「ありがたい」
「法要を前に、御仏が弾かれているのであろうか……」
外の者達はありがたがって手を合わせたりしている。泣いている者達まで居た。
異国を僅かに思わせるその透明な音色は、雪に清められて、集まった者達の心の中へ深く染み渡っていき、珠子自身の内部に眠る者を目覚めさせていった。
(あ……誰か来る。詔子様?)
珠子は目を閉じた。詔子が脳裏でにっこり笑った……。
「姫?」
演奏が終わって、琴から手を引いた珠子が動かなくなり、成時は具合が悪くなったのかと顔を覗きこんだ。
「いかがされましたか?」
肩を揺すられ、目を閉じていた珠子がその声に反応し、ゆっくりと目を開いた。
成時は、はっとした。
その目つきは珠子のものではなく、成時が見覚えがある人間のものだった。
成時が戸惑っていると、目の前の女人は懐かしそうに笑った。
『お兄様。お久しゅう』
目の前にいるのは珠子ではなく、三年も前に死んだはずの妹の詔子だった。
「馬鹿な……。これは夢か、それとも妖の仕業か」
『夢でも妖でもありませぬ。わけあって私は珠子様のうちにいるのです。お兄様、この方には手を御付けになってはなりませんよ』
「詔子……、それは」
『このたび貴方達の企みにわざと乗ったのは、ここへ珠子様がおいでになる必要があってのこと。中納言殿の為でもお兄様のためでもありません』
「私は、姫に恋しているのだよ」
成時は真剣に、珠子を正妻にしようとしていた。
直ぐに手を出さないのは、珠子に嫌われたくないからだ。
義行の中納言は、何か思惑があるようだが成時の知ったことではない。
『相変わらずな御方ですこと。珠子様は確かにお美しく素直で優しい御方、お兄様が惹かれるのは無理もない話ですけれど、珠子様はもうすでに惇長様のものです』
外では、もう琴の音はないとあきらめた人々が離れていく気配がする。
根気強く待っている者も居たが、いずれも自分達の仕事である法要の準備を思い出して、皆戻っていった。
やがて誰も居なくなった。
詔子は、人が居なくなったのを成時に確認させ、廂へ滑り出た。
「……詔子、どこへ行くのだ?」
『この屋敷に妖が封じられているのを、お兄様はご存知?』
「知らぬ。何だそれは」
『ふふふ、お気づきの癖に。相変わらず怖がりなんですね』
屋敷の中を詳しく知るはずもない珠子が、迷いのない足取りですいすい歩いていく。やはりこれは詔子なのだ。
気の小さな成時は、詔子以上に人影にびくびくしながら、詔子の後ろを付いていった。
「そちらへは行きたくないのだが」
『やっぱり、わかっておいでですのね』
成時は詔子の行こうとしている場所が、幼い頃から怖くて嫌いだった。
きっとあの咲かない桜の老木だ。最近、右大臣が加持祈祷していたのを知っている。
実の父である成道が大宰府に流された後、弟である現右大臣が乗り込んできて、この屋敷の主になったのを許したのは、あの桜の老木のことがあったからだった。
この屋敷に住めるものは、あの桜の老木に気に入られなければならない……。
馬鹿げた話だった。他人が聞いたら笑い飛ばすような話を、成時も右大臣も笑わなかった。祖先を同じくするものにだけわかる、あの桜の波動を二人とも感じていたのだ。
一度も咲かず、それでいて圧倒的な存在感があったその桜の木は、詔子の死によって他者にまでわかるほどの瘴気を放つようになった。怖がりの成時には手に余るもので、他者に放り投げて楽になりたかった。
瘴気に悩むくらいなら、屋敷を明け渡すなどわけないことだった。
とうとう東の対の端に来た。
『あれです』
詔子が扇でゆっくりと、雪を枝にのせている一本の木を指した。やはり、あの桜の老木だ。
『地下に霊脈があって、それが桜花殿の庭の桜の木に繋がっておりますのよ。ご存知?』
「撫子の御方の里のお屋敷にか? ……知るわけがないだろう。なぜそなたがそんなことを知っているのだ?」
『身罷ってからわかりましたの。皆様調べておいでですけど、残念ながら古すぎるお話でどなたも存じ上げませんわ。あまりに深い霊脈で、名だたる陰陽師の彰親様でもわからないほどですの。ですからお兄様から惇長様に申し上げてくださいまし』
成時はばつが悪そうな顔をした。惇長の情人である珠子を無理に攫ってきたのだ。なるべく会いたくないので内裏でも避けていた。もっとも惇長は院の御所への供奉の件で多忙を極めていて、こちらに寄ってくる気配はない。
しかし、彼と懇意にしている陰陽師の彰親の視線が痛く、今日も出仕したにもかかわらずすぐに戻ってくる有様だった。
渋っている成時に、詔子がひたと視線を合わせて縋り付いた。
『あの桜は地へ還りたがっております。どうか浄化と同時に滅してください。このままでは私達一族は、妖に呪われて死に絶えてしまうわ。現にお兄様にも死相が出ておりますのよ』
恐ろしい話をされて、成時は自分の頬を袖で隠した。
くすくす珠子の声で詔子が笑う。
『死相は冗談です。ともかく、私の法要の日までに、なんとかお伝えして。そして、皆様をお救いしてください』
「なぜ法要の日までなのだね?」
『あちらの世から、この世にとどまるお許しがその日までですの。それ以後留まるのなら、私はもう人として生まれ変われませんのよ……』
「惇長殿と珠子姫が結ばれて、我慢できるのか?」
成時は妹を抱きしめた。
「……お前の心は、一体どうなるのだ?」
『私の幸せは惇長様の御幸せ。あの方の幸せを確認したら、私はやっとあちらに行けるの。僧達の読経の声音に乗って御仏のお傍へ参れるのです』
「私はお前に長生きして欲しかった」
『お兄様はどうぞ長生きなさってください。そしてどうか、惇長様と仲直りしてください。お願いします……』
珠子の身体から力がすうっと抜けていった。
くたりとした珠子を見てみると、もう詔子の顔ではなく珠子の顔に戻っていた。
成時が、政争で負けた実父の前右大臣と一緒に、大宰府へやられなかったのは、左大臣と繋がっている右大臣と懇意にしているからだ。
右大臣の正妻は、左大臣の妹で、その繋がりを利用して右大臣は連座の罪をまぬがれた。
だがそれも一時的なもので、右府もこのまま左大臣の言いなりになるつもりはないらしい。最近の陣定の席での、強気な発言を見ていると、特にそう思う。
成時は惇長と違って、特に世に重く思われる公達ではない。人の上に立つ才も劣っている。だから、強いものになびくだけだ。
詔子の言葉は正しい。惇長は敵に回していい人間ではない。
成時は嘆息して珠子を抱き上げ、局へ戻っていった。
その成時の後姿を、哉親が、物陰からじっと見ていた。
手には呪符があった。
にごったような笑みを哉親は浮かべる。
その視線は、やがて、成時の後姿から桜の老木へとゆっくり移動していった……。
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