第29話

 瞬く間に日が過ぎ、主上の譲位と共に東宮が新たな主上になられ、二の宮で御年一歳になられる永平親王が東宮に御立ちになった。落ち着くべきところに落ち着いたというのが大半の貴族達の意見で、異義を唱える者は少なかった。

 少数派だった惇長は、当てこすりを言われるのがわずらわしく、人目を避けて温明殿の縁に腰掛けているところを、長兄の大納言頼胤に見つかってしまった。

「惇長、こんなところにいたのか」

「大納言殿……」

「最近お互いに忙しくて、ろくに話もできていなかったな」

 頼胤は、惇長と同じように縁に腰をかけた。雪かきがされたばかりなのに、また雪がちらちらと降り始めていた。

 兄とはいえ、頼胤と惇長は年が二十三も離れているので、親子のように傍目には見える。顔は似ていないが同じ気配が二人には漂っていた。

 幼くして母と死に別れた惇長は、多忙な父に構われず、この頼胤を父親のように慕って育ったが、元服と詔子との結婚で疎遠になっていた。話をするのは廟堂などの公の場ばかりで、私的に会話をするのは、妹の撫子の御方の里帰りの際の、屋敷の進呈以来だった。

「中宮も気にされていた。撫子の御方のところばかりだっただろう?」

「申し訳ありません。ですが、大納言殿や左府がいらっしゃるのですから、私一人が……」

「母が違うからといって、そこまで避ける必要はあるまい。中宮は撫子の御方ほど押しが強い方ではないゆえ、何も申されぬが」

「…………」

「そんなに一の宮が東宮にお立ちになれなかったことが心残りか。あればかりは左府が許すまいて」

「……いえ、とにかく疲れました」

「一番お疲れなのは中宮だ。主上ご寵愛の皇后に気を使いながら、裏からわれらを支えておいでだったのに、今度は早い譲位だ。あの方は本当に気苦労が耐えぬ」

 それでも中宮には左大臣一族の厚い後ろ盾があるのだ。仕える者達に十分の禄を与えられ、生活の不安はない。どうしても惇長の心の中では、義姉の皇后への同情が消えないのだった。惇長は他人はおろか兄弟にも心をなかなか許さないが、許した相手には深く情を捧げてしまうきらいがあった。それが今回裏目に出て、彼自身を破滅に追いやりかけたのである。

「そなたは、院の御所への供奉を仰せつかっていたな」

「はい」

 院の御所は、都からそう遠くはない、宇治だった。

 譲位のあとのお住まいが、こうも早く決定するとは惇長は思ってもいなかった。おそらく昨年の初頭には決められていて、今まで伏せられていたに違いない。

 何も知らずにいた自分が、酷く滑稽だった。

「まだ雪が降っているゆえ、移動は大変であろうな」

「今年は北雪ですので、南の宇治には少ないと思われます。山を越えればわかりませんが」

「そうか」

 ちらちらと降っていた雪は、本降りになりつつあった。

 至る所で雪山が作られて、いつまで残るのか女房達が当てっこし、先日などは、その雪山に上るという、女にあるまじき行動をする女房が出て、はしたないと年老いた女官たちが嘆いているのをちらりと耳にしたのを、惇長は思い出した。

 朝に淑景舎へ伺った時、撫子の御方は庭で女童を遊ばせて御覧になっていた。皆大はしゃぎで雪玉を作ったり、ぶつけたりはしゃいでいて、いずれも悩みなどなさそうな元気いっぱいの笑顔だった。

 子供の頃は惇長も同じように、由綱や詔子や一条と一緒になって、身分などそっちのけであのように遊んでいた。

 遠い昔の話だ。

「あの頃は、毎日が煌いて見えました」

「今もそうであろうが。お前らしくもない、政事など思い通りにいくほうが稀だ。ましてや一の宮の……」

「もうそれは諦めました」

 惇長は微笑した。

 悔し紛れでもなんでもなく、今度の事は惇長に深い悟りをもたらしていた。世の流れに逆らうのは、深い川の流れに逆らうのも同じ愚かなことであることを。

 手習いのいろは歌にも、かずかずの経にも、この世に生まれ出でてずっと同じものなど存在しないと書かれていてわかっていたはずなのに、惇長はことごとく逆らっていた。

 それは、変わるのを恐れた臆病者の行動だったと、今になって思う。

 いつか一条が言っていたように、積もりに積もった御仏の罰が、今、下ったのかもしれない。

「なら、何を沈んでおる?」

「今、涙している者がいるのだろうかと思いまして」

「それはいるだろう。これを知り絶望で病に伏す者も出るのではないか」

「当事者ではなく、大宰府に居る方などが……ですね」

 大宰府の帥となって左遷の憂き目に遭った、前右大臣は、この知らせをもうすぐ知るのだろう。

 どう思うのだろうか。ついに己の野望が露と消えたと諦念するのだろうか。それともいつか還り咲いて、巻き返してやると奮起するのだろうか。

 何かにつけ娘婿の惇長につらく当たった義父は、ひょっとすると自分がこうなるのを止められぬとわかっていて、その苛立ちをぶつけていたのかもしれない。

 うっすらと肩に降り積もった雪を、頼胤が大きな手で払ってくれ、惇長の心はほっと温かくなった。思えば幼い頃から、何かにつけ、惇長をいじめた義行の中納言を叱ってくれたのは、いつもこの頼胤だった。

「そうだ。院や皇后の宮は、一の宮が東宮になるなど望まれておいでではなかった。今、一の宮が長じておいでだったとしても望まれはすまい。左府に疎まれて内裏で生きるのは苦痛そのものだ」

「……いっそ陸奥にでも行けたらと思います」

「世を捨てるには早すぎる」

 頼胤が難しい顔をし、唐突に話題を変えた。

「桜花殿で囲っていた女人はどうした? 右府へ思うところがあるのだろうが早くせぬか。義行が新帝に入内させる気だと言い広めていたが、確かではあるまい」

 珠子のことを言われ、惇長の心は沈んだ。

 あの義行は、何が何でも惇長を蹴落とそうと必死なのだ。

 惇長は、首を横に振った。

「……あれは私の手が付いております。とてもそのようなことは」

「ふむ……、では掌中の珠を何故すぐに奪い返しに行かぬ?」

「詔子の三周忌法要前日まで待つしかありません」

「女人の身は大丈夫なのか?」

「時空を越えて物が見える男が言っておりました。身の危険はその時までは無い、今救うのは得策ではないと。どうも他の事情が紛れ込んでいるらしいです」

 しばらく頼胤は黙り込んだ。何かおかしなことを言っただろうかと惇長が思っていると、頼胤はぽつりと言った。

「……木津の鬼が言ったか?」

「貴方は何でもご存知でいらっしゃる」

 遠くで自分を呼んでいる随身の声が聞こえたので、惇長は静かに立った。

 頼胤が、その惇長の耳に口を寄せて声をひそめた。

「あれらは人でないゆえ、許されて主上に代々仕えている一族だ。内裏でもその存在を知る者は、院と主上と左府……そして私とそなただけだ」

「そうでありましたか」

 兄の太陽の様な慰めがひどく優しくて、惇長は邪気のない笑顔を珍しく浮かべた。

「越前の件はよくやってくれた。左府もそなたがいるから、義行の言を取ったのだ。嫌な役を押し付けて悪いが、我々としては、そなたが居てやっと回る車を押しているような気がするぞ。商人達は近江から来た国司一行に恐れをなして、もう来なくなったそうだ」

「……そうでしたか」

 貿易を求めて押しかけてきていた、宋の国の商人の件については、近江国司からとうの昔に報告を受けてはいたが、惇長ははじめて知る振りをした。

 越前へ遊びにいくと見せかけて、その場で追い返すように仕向けろと、惇長はさまざまな見返りをちらつかせて、内密の指示を出していたのだった。商人達は弱腰にの対応しかできなかった越前国司のせいで、こちらを甘く見ている、酒の席で射的などをの弓矢などの披露をかねてもよい、とも。そういったものはあちらの国でもやっているであろうから、外交問題に発展するわけもなかった。

 近江国司は世渡りのうまい武の者で、また、武に秀でている者達を多く囲っていた。惇長はそれを知っていたので、そうけしかけたのだが、すんなりと上手くいったようだ。

 次の除目では、さらに引き立ててやらねばなるまいと思いながら、惇長は知らぬ振りを続ける。

 国司達、中流階級の貴族は、公卿以上に貪欲で油断がならない相手だ。

 惇長自身は清濁併せ持つのが難しい潔癖気味なところがあるが、由綱を初めとする惇長の配下の者達は違った。おそらくは、下は山賊にいたるまでその手を伸ばしているのだろう、そういった連中を懐柔できる配下を持つ懐の広さが、国司達の貪欲な目には融通の利く貴族と映り、また、実際将来性が確かである惇長だから擦り寄ってくるのだ。

 それができる人間は、左府などの上に立つ人間にとっては脅威だ。だから、惇長は知らぬ振りをする。

 頼胤も、利用できる弟であって欲しいから知らぬ振りをする。

 ぎゃあぎゃあ喚き立てる義行の中納言は、それができないから、無能呼ばわりされているのだ。それが一層惇長への憎しみに拍車をかけているのだが……。

「いずれお前にも天は微笑もう。そなたはまだ若い。それまでにしなければならぬ事をせよ」

「……はい」

「そなたの心を奪った、その女人に会いたいものだな……」

 女への興味ではなく、頼胤は純粋にそう思っているだけのようだった。

 もうしばらく兄と話をしたかったが、すぐに随身達が惇長を見つけて端近まで走りよってきたので、惇長は僅かに頭を下げて頼胤と別れた。

 今回の除目で上達部は変わりがない。下の者達は異動があり、皆浮き立っている。

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