第18話
「中将の君」
いきなり噂の本人の右京の声がして、珠子はびっくりした。桜が飛び起きて局の奥へ逃げていく。
後宮暮らしで一番慣れないのがこれで、人の行き来がとにかく激しい。珠子が几帳越しに顔を出すと、右京がにこやかに微笑みながら局に入ってきた。
「中将の君。まだ来ないのかと先程から御方様がお仰せです。いくらなんでも遅すぎるのではないかしら?」
「すみません」
彰親が居るので輝くばかりに微笑んでいる右京に、珠子は内心で舌を出しながら頭を下げた。
「彰親の君は、最近私共の所においでにならないと思っていたら、こちらに通われていたのですね」
「貴女だって惇長殿ばかり」
彰親と話し始め、去る気配のない右京に珠子はうんざりした。
この女は本当に男に媚を売るのが生きがいのような女で、輝かしい公達はおろか、彰親のように美しい外見の男にも興味深々だ。惇長もよくこんな女を恋人にするものだ。趣味が悪いったらない。
「彰親の君は、中将の君の恋人なのですか?」
扇で口元を隠しながら言う右京に、珠子はぎょっとした。まさかこの女、あらぬ事を言いふらかすつもりではあるまいか。
おかしな方向へ流れていく話に珠子がはらはらしていると、
「一緒の家に住んでいた時がありますよ」
彰親がにやにやと珠子に笑いかけながら、とんでもない暴露をした。
「まあまあまあっ。彰親様のお屋敷に? なんてうらやましいのかしらっ。なんてお似合いなお二人なのでしょう」
びしばし感じる棘にうんざりする。
はいはい、私は五位あたりの男が身の程をわきまえていて良いのですねと、心のうちで半場やけになりながら頷く。
いっそ身分などない商人でも構わないの。言いませんけども。
「ねえ彰親様、それでここに頻繁にお通いなのね?」
目を好奇心できらきらさせながら同意を求める右京に、彰親は困ったように首を傾げる。
「さあて、どうとでも」
「うふふっ。謙遜なさるとはまことなのですね。私、皆に言い広めておきますからっ。良かったわね中将の君、恋敵が減るわよ。彰親様はとても人気があるの。何しろとても素晴らしい力をお持ちですし……」
「ははは……」
楽しげに語らう二人に、珠子はだんだん我慢がならなくなってきた。昔の屋敷にいた頃なら当に怒鳴りつけているところだ。
勝手に人の気持ちを決めたり、言い広めたり、やっぱりこの女は最悪だ。
そしてこの女に手を出している惇長は、女の好みが最悪だ。
ああそうか、だから私みたいな落ちぶれ姫にも手を出したのか。
やりきれない、悔しい。
いらいらしながら裳を広げている所へ、示し合わせたかのように大夫の君という女房が、さらにいらいらするようなことを言いに来た。
「右京、何をしているの? 先程から惇長様がいらしているのにお待たせしたら失礼ではありませんか」
ほうらご覧と言わんばかりに、優越感に満ちた笑みを浮かべながら、右京が珠子を見た。
「あら。今日おいでになるとは御文をいただいていたけれど、早くにいらしたのね。急がなくっちゃ。中将、御方様がお待ちだから早く行きなさいね。私も夜には参上するわ」
「……はい」
優雅に二人が部屋を出て行き、また局の中はしんと静かな空間になった。
居なくなっても、悔しい思いや怒りは珠子の胸の中を渦巻いている。
後宮は、珠子にとってはろくでもないところだ。夜毎の遊び、慣れない女房達との応酬、やたら頻繁にやって来る彰親。来て欲しいのに大嫌いな女のもとへ通う惇長。
どれもこれも外へ吐き出せず、ただ、珠子は黙っているしかない。
一条にすべてまかせきりで、何もできない自分を恥じているから、黙っているしかないのだ。
「姫、姫は一条の言いつけを良く聞いているのですね。本当にたおやかな姫らしい態度で……よく我慢されている」
「我慢とは何を?」
なにやら言い出した彰親に、着替えるんだから早く出て行けと思いながら、珠子は刺々しく言った。
「貴女は惇長殿が好きでしょう? それなのにあの女房に何もおっしゃらないで……」
「貴方にはまったく関係の無い話です」
頭がずきずきするのを覚える。胸はやるせのない憤懣で一杯だ。
このままでは角が生えてきても不思議ではない。
こんな刺々しい自分は自分ではない。怒ると同時に悲しくなって涙が出るのは、決まって惇長が関わった時だ。
頼むからもう一人にしておいて欲しい。このままでは八つ当たりして、せっかく一条が頑張ってくれているのにすべて台無しにしてしまいそうだ。
「姫……」
突然背後から苦しそうな声と共に唐突に抱き寄せられたかと思うと、そのまま肩の向きを変えられ強引に口付けられた。
ぎょっとしてももう遅い。
彰親の香の匂いがあっという間に珠子を包み、激しい口付けに変わる。
(なに……?)
唇が離され、そのまま押し倒された珠子は、惑乱しながら、外からの明かりのせいで影になっている彰親を見上げた。
「な……にを?」
「静かに、姫」
袴の紐が解かれていく音がする。
突き放さなければと思いながらも、珠子は呪をかけられたように動けない。
俗世間を遠く見ているかのような彰親の目の奥に、何か強い、甘やかな炎が燃えている。
そんな目で見て欲しくないので、珠子は目をかたく瞑った。
自分は惇長が好きだ。そして惇長は自分のことなどなんとも思っていない。どうして人の想いは上手く繋がらないのだろう。
しょっちゅう珠子を抱き寄せた彰親。術の加減をしていたという彰親。
彰親の想いにはうすうす気づいてはいたが、本気かどうかは考えないようにしていた。
報われない恋の苦しさは自分だけだと思っていたい。身勝手だとわかっていても、今の珠子には他人の心を思いやれる程の余裕はない……。
しかし、彰親はその珠子の心の綻びを突いて来た。そこから珠子の心へ入ってこようとしている。
「私、惇長様が……」
言いかけた珠子は、顔の横で両手の指をぎゅっと絡められて口噤んだ。珠子のほっそりとした白い首筋に彰親の唇が這い、忘れかけていた悦楽と共に熱が耳元まで上がってくる。
「聞いてください、姫。いえ、珠子。私はずっと貴女を愛していたんです」
聞きたくないと首を振っても、耳元に顔を埋めた彰親はそのまま情熱を吹き込んできた。
「卑怯だと思われるでしょう? 私が貴女をあの屋敷から引き離す為に、後宮へ行かざるを得ない状況を作りました」
「そんな……」
「中務を通して、撫子の御方に言ったのです。貴女と御方様が共にあれば敵をあぶりだしやすくなる。同時に惇長殿の本当の気持ちも。そして貴女にふさわしい殿方が現れるかもしれないと……。美徳殿との約束は、この内裏のほうが私は守りやすかった。桜花殿で惇長殿と始終ご一緒では私は何もできなかったから」
熱い手が頬を挟み、再び唇が合わさった。
熱と絶望と儚さと諦めが交差し、妖しい陰影を心に放つ。
「姫、目を開けて私を見てください。そうでなければもっと貴女を求めますよ」
彰親の熱さに感化されたのか、珠子は額髪に汗を滲ませて怯えながら、彰親を見た。
恋に燃える目が自分を見ている。
「今すぐにとは言いません。お願いですから私の気持ちもわかってください。苦しくて苦しくて、もう偲ぶのに疲れてしまいました」
「…………」
「貴女はいつか言いましたよね? 身分など低いほうが恋人にいいのだと。ですから……っ」
確かに言った。
言ったけれど、どうしたって心は振り向いてくれない惇長へ向かっていく。
不思議と怖いとは思わなかった。思わなかったが惑乱はひどくなった。
いつもからかうようでいて、何にも執着を見せなかった彰親に向けられた狂おしい熱情が空恐ろしく思われる。
あの笑顔の影に隠れていたのは、自分と同じ相手をひたすら乞う想い。
口付けを繰り返すだけで、それ以上は彰親は求めないが、離れてもくれない。
こんな目に遭っていても惇長は来ないのだ。
それがひどく悲しくて、また、彰親へ想いを返せないのが申し訳なくて、珠子は彰親の抱擁を甘んじて受けているしかなかった。
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