第17話

 子の刻(深夜0時)。

 燈台に明るく火が灯され、色鮮やかな衣装の花が咲き乱れている中、珠子は必死に欠伸をかみ殺していた。

 東宮のお召しがない夜は、こんなふうに夜遊びが繰り広げられるものらしいが、いつも早く寝ていた珠子にはとんでもない苦行だった。ひたすら眠りたい。後宮へ来て一番辛いのがこの夜通しの語り明かしで、いつも夢うつつに相槌を打っていた。そう思っているのは珠子だけではないらしく、そこかしこの几帳の影などでこっそり寝ている女房達がいる。でも珠子は、撫子の御方が傍から離されないのでそれができないのだった。

 一体なんでまた、こんな夜遅くまで遊ぶのだろうかと不思議に思う。やって来る殿方達も、御簾の外から楽しげだが、この寒いのに辛くはないのだろうか。

 東宮の殿舎になっている昭陽舎へ撫子の御方が夜のお召しに上がる日は、撫子の御方に付き従う女房達にとっては、宿直と称して東宮のお目にかかれる絶好の機会らしい。機会とは、あわよくば東宮のお手つきに……ということらしい。

 そんな彼女達から見て、さっさと局へ下がっていく珠子は変な女の部類に入る。

 珠子は上つ方にお目にかかりたいとは全く思わない。東宮は次の帝で、帝は神の化身のような方だ。そんな恐れ多い方のお住まいに行くなど、緊張の連続が続くだろうし、むしろ嫌だ。

「ねえ中将これを見て。素晴らしい絵巻物なのよ」

 以前使った通り名で呼ばれた珠子は、眠いのを我慢しながら撫子の御方にいざり寄った。

 皆が眺めているのは、継子いじめに遭っている美しい姫君が、優しい貴公子に救い出されている絵だった。姫君は貴公子に優しく牛車からおろされながら、心も身体も緩んでほっとした顔をしている。描かれている御殿は素晴らしいもので、金箔が至る所に押され、美しい屏風や几帳、居並ぶ着飾った女房達がその中で恋人達を出迎えている。

(綺麗で美しいけど……つまらなくて退屈)

 物語は都合の良い所の寄せ集めのような感じがして、どうしても珠子は好きになれなかった。

 理想とするべきものを物語としているのだから、当然かもしれない。

(こんなに都合よくお姫様が助けられるものですか。本当なら、この気持ち悪い貪欲受領の愛人がいいところよ)

 現実で辛酸を舐めている珠子には、都合のいい物語の展開が、子供っぽくて馬鹿らしく思えてしまう。撫子の御方も好きではないと言っていたのに、さすがに毎夜毎夜いろんな遊びをしていてネタ切れになるらしい。

 絵巻物と照らし合わせて物語が読まれるのを聞きながら、珠子は檜扇の陰で欠伸をした。

「あら、中将はつまらないようね。ふふ、物語よりも胸が弾むような毎日を送っていらして当然かしら」

 嫌味っぽく言うのは、隣に座っていた右京という同じ年の女房だ。この女は何かにつけ珠子につっかかってくる女房の一人だ。

 歌を詠みかけたり、わからない漢詩の続きを聞いてきたり、突然現れた殿方の相手をさせようとしたり……一言で言えばかなり意地が悪い。

 一条がなんとか取り直してくれてすべて事なきを得ているが、これがまた撫子の御方の目の届かぬところでするのだから恐れ入る。また珠子も告げ口する気にはなれなかった。

 本当に面倒くさい女で、敵に回すとやっかいだから、角を立てないようにと一条から注意されていたのに、眠すぎる珠子は気がついたら、

「本当にくだらないですわ……」

 と、正直に口にしてしまい、場をしーんと白けさせてしまった。

 眠くてたまらない珠子は、その空気すら読めず、ぼんやりと絵巻物を見下ろしている。

 後ろに控えていた一条が、慌てていざり出て来た。

「ちゅ、中将殿は疲れておいでのようですね。御方様、私たちはもう下がらせていただきます」

「……疲れてなどおりません」

 珠子は夢うつつに言う。撫子の御方はくすくすおかしそうに笑った。

「そうね、この物語は中将の言うとおりあまり面白くないわね。中将、もう下がって良いわよ」

 白けた場を撫子の御方がうまくとりなしてくれ、珠子はやっと褥に伏せられたのだった。






 翌朝、珠子が起きたのは昼前で格子はすでに皆上げられていた。

 撫子の御方より、御傍に行くのは午後でよいとの許しを得ていたのでのんびりしたものだ。

 綿入れの袿を脱ぎ、袴を履いて何枚も重ねた袿を羽織り、お湯を一条からもらって顔を洗ってすっかり綺麗にした頃、食事の膳を持って彰親が入ってきた。

「またいらしたの?」

 迷惑顔の珠子に、彰親はにこりと笑い、

「よくおやすみで、もう昼ですよ」

 と、膳を置いた。

 珠子の押し出す火桶を、彰親は必要ないと押し返した。彰親の膳を持った来訪はこれが初めてではなく、珠子は気にせずに遅い朝食を食べ始めた。

 夜通しの遊びはあれから続いたのかわからないが、他の局から女房のおきている気配がそこかしこからする。一度撫子の御方の元へ参上して戻ってきて寝ているものもあれば、人が多すぎるからと帰ってきているものもいるのだろう。

 隣の局の一条はお湯を届けに来た後はいないようで、物音ひとつしなかった。珠子と一緒に参内してくれた彼女は、いつも何もできない珠子の代わりを務めてくれているのだった。彼女には感謝してもしきれない。

 珠子にできることはと言えば、できるかぎり姫らしくして、面倒ごとを起こさないようにおとなしくしていることだけだった。

 なのに昨日、眠くてたまらずあんな失態をおかしてしまった。

(またやってしまったわ、私)

 ずんと落ち込みながらも、食欲だけは衰えないのが珠子で、いつもより時間がかかったがすべて平らげた。

 食べ終わる頃を見計らって、彰親が言った。

「見つかりましたか? 例の物は」

 周りの局の女房達の聞き耳を警戒して極端に声を潜めた彰親に、珠子は残念そうに頭を横に振った。

 例の物というのは、この淑景舎のどこかにまだあるという、撫子の御方を病におとしめた呪物だった。彰親はおそらく金属類だと言い、珠子もそれとなく探しているがそれらしきものは見当たらない。もう敵方と通じている女房が取り去っているのではないかと言う珠子に、まだ気配がするから必ずあると彰親は言う。

 危険なものだからとうに捨て去っていると思うのは素人の考えで、危険なものだからこそおいそれと捨てたりできないものらしい。

「まだ見つからないの」

「そうですか。余程巧妙に隠されていると見えますね。引き続き探してください」

「うん」

「そうそう、姫に贈り物があるのですよ」

 するりと彰親の長い袖から大きな猫が出てきた。

 見覚えがあるなと思ったら、すっかり大きくなった猫の桜だった。

 夏の終わりごろに姿を消したままどうしたのだろうと思っていたので、珠子はうれしそうに目を輝かせた。

「まあ桜。どこに行ったのかと思ってたのよ」

「殿上する為に位を授かりましたよ、猫なのに」

 金色の目をした桜は小さく鳴き、のそりと歩いてきて珠子の膝の上に乗った。冬の寒さに猫の毛皮付きの柔らかな身体は、酷く優しい温かさだった。

 柔らかく撫でていると、彰親がしみじみと言った感じで目を細めた。

「姫は本当に猫が好きなんですねえ」

「だって、かわいいもの」

「犬は? 撫子の御方は犬がお好きだから、よく外の庭を歩いているじゃありませんか?」

「嫌いではないけれど、犬は自由じゃないから悲しくなるの」

 くっくと彰親が笑った。

「何をおっしゃるやら。犬は好きだから主人の傍にいるだけでしょう」

「対等じゃないわ。現に主人に逆らわないじゃない。逆らうと主人はしつけと称して餌をくれなくなる。立てと言ったら立つ。待てといったら待つ。命令を守らないと馬鹿犬と呼ばれるじゃない」

「ほーう」

「猫は違うわ。猫は自ら望んで傍に来るの。何をしようがそれは猫の自由。主人なんてものはないの。お友達なんだわ」

 桜が今までずっとどこかへ行っていたように。自由にあちこちと行けるほうがいい。

 惇長の檻になら自ら入りたいが、こんな後宮の檻になど居たくはない。珠子は桜の自由がうらやましいのだった。

「姫は、本当に型破りな考え方をなさる。ずっと愛しい人の腕の中に居たいとか、尽くしたいとか思わないのですか? 犬はあれで幸せなのですよ」

「心に綱をつけられているようでは、幸せとは思えません」

 珠子は自分の膝の上で丸くなった桜を、袿でそっと包んでやった。

「では、後宮の女人方はみな不幸せなのでしょうか」

「……私の考えから行くと、貴族の女人方は皆そうよ」

「惇長殿が約束を破ったから、すねていらっしゃる?」

 心中を覗かれたかと思った珠子はキッと彰親を睨み、腹立だしく思いながら背を向けた。

「別に。この淑景舎にいらっしゃるだけで私の元へ通っていることになるわ。お兄様とのお約束は違えていないでしょう」

「まあ……確かに」

「存じませんでしたわ、こちらに恋人がおありだなんて」

 右京が珠子にやたらと火花を散らしてくるのは、彼女が惇長の恋人の一人だからだ。

 それは他の女房も知っているし、本人が何より自慢に思っている。右京はやり手の受領の娘でとびきりのお姫様暮らしをしていたためか、ひどく我侭で自意識が異様に高かった。

 美しく垢抜けしている右京なら、身分を飛び越えて惇長の北の方になるのも可能だろう。そんな彼女にしてみたら、どこぞの落ちぶれ貴族の、琴しか得手でない同じ年の珠子が、惇長に囲われていたという事実は悔しくてならないものなのだろう。

「惇長様はあのように、才気あふれて美しくて世渡りの上手そうな方がお好きなのでしょ。よーくわかりましたから。もういいです」

「彼女は確かに他の公達にも人気ありますからねえ……。頭がいいし。この間も面白いやり取りがありましたし、そうそう……」

 彰親は、珠子にとってはどうでもいい、右京がもてはやされている当意即妙な公達とのやりとりを話し始めた。

 大嫌いな女の得意顔が見え隠れする話など、どうして聞かねばならないのか。

 この男もああいう女が好きなんだなと珠子は思い、やれやれと思ったが何も言わず、聞いているふりをして桜を撫でていた。

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