第19話
陣定の席で、惇長は渋い顔を隠しきれなかった。それは中心となっている左大臣も同様で、先ほどから重い沈黙が場を占めている。
「漢文の才を見出されて、かの越前に向かわせたというのに、まったく役に立っておらぬ」
右大臣の追及の声ばかりが響き、左大臣方は黙している。
「そもそも、学者ごときに何ができると左府はお思いか? 大宰府に任官した経験もない者が、どうして他国の者と渡り合えるのか!」
隣に居る次兄、中納言義行は小さくなって辺りをきょろきょろと見回している。誰か助けてはくれないかと思っているのだろう、すがるような目つきが不愉快だった。彼がこの除目を決行したのは昨年の秋で記憶に新しい。それ見たことかと惇長は内心で思っている。
事の発端は、日本海に面する越前の国の若狭湾に、最近頻繁に来航する宋の国の商人達だった。唐の国の衰退で外交を一旦取りやめていたのだが、唐の国に代わって宋という国が立ち、それから商人たちが外交を求めて来るようになったのだ。
商人の影には侵略が常に控えている。こちらに対等な武力があれば左大臣も頭を悩ませない。しかし、今、発展しているのは都と大宰府の一部だけで、それ以外は未開の地と言っても過言ではないほど廃れている。そして国の富も貴族達に集中していて、多くの民、国の財政は疲弊していた。
代表的なのが都の入り口の羅城門だ。
いい加減に改築せねばならない時期に入っているのに直せないままなのは、国の金庫が空っぽなのと、私財を投入してまで直そうと言う貴族が居ないからである。皆己の財を守るほうが大切だった。
朽ち果てた門などを、どうやって他国の人間に見せられようか。それだけで侵略を導くようなものだ。外交は何が何でも避けるべきだった。
それで漢の言葉に堪能な学者の貴族を越後の国司に任官させたのだが、これが一向に役に立たない。商人たちは、話がわかる者を連れて来いと言っていると助けを求めてくる始末だ。
「なまじ漢文ができるせいで、相手が貿易を許可してくれるのではと期待している羽目になっておりますぞ」
痛烈な右大臣の皮肉は、中納言義行にぐさりと来たようで、握られた拳は震えて、滝のような汗だ。権力欲があるくせに気が小さい男なのだった。
そんな男が、秋の除目で、漢文ができるというだけで学者を越前に任官させたのだ。渋る意見が多く出たが、義行が陰陽の暦などを持ち出してきて、今はそうするべきだと押し切った。もちろん義行一人でできるわけがなく、他にも賛同した者が居たのに、彼らは皆黙して何も言わない。押し切られた右大臣は強気に出ており、ここぞとばかりに非難する声を張り上げた。
「どうなさる? 義行の中納言殿!」
「し、しかし、左大将も何も言われなかったのですぞ」
突然義行に名指しされ、惇長はまたかと内心でため息をついた。右大臣が惇長を見た。
「反対しなかったのは、すなわち賛成と同じこと。どうなさるおつもりです」
惇長はいつもこの無能な次兄の尻拭いをさせられている。今回も義行は丸投げしてきた。
こうなるだろうとはわかってはいたのだが、惇長は微妙な立場に居る自分を守るために沈黙を通していたのだ。
前右大臣の娘を正室にしたばかりに、何かと右と左の仲介役にいつも彼はさせられる。他に右大臣のつながりがある兄弟がいても、惇長ほどの有能な人間はいない。出る杭は打たれるのだった。
皆の公卿の視線が集中する中、惇長はうなずいた。
「今更取り消しにはできますまい。今の状態では、学者殿に相手をさせるしかないかと」
「押し切られたらどうされるおつもりか」
「山城、近江の国の国司に止めさせればよろしい。いずれも武の者です」
彼らを任官させたのは惇長だった。こうなるのを見越して、ごくさりげなく、しかし用意周到に彼は公卿達にそれを承知させた。惇長は自分の父である左大臣を見た。左大臣は言った。
「確かにこのたびの除目は失敗のきらいがある。われらとしては商人があきらめるのを待つしかない。学者殿、山城、近江の国司の力を試させていただきましょう」
「そうじゃ、加持祈祷をより一層致しましては?」
場が収まったと見るや、義行が言う。あまりの調子のよさに惇長はあきれ返ったが、最初からの渋い顔を崩さなかった。並ぶ公卿も義行の意見に賛成し、商人たちを追い払う加持祈祷をより多くさせる事で、この問題は一旦収まった。
この時代、それほど祈祷や修法を行う僧侶や陰陽師達の力は幅を利かせており、本気でその力がどんな難題をも解決するのだと思っている者が多かった。陰陽道や仏法に明るい者が皆に支持されているのである。
そんな中で惇長は貴族らしからぬ徹底した現実主義者だった。そんなもので状況が変わるわけがないと心の底から軽蔑している。今の段階ではなあなあにするしかないので、惇長としても積極案は出せない。最高権力者の左大臣を無視した意見は言えないのである。近江と山城の国司を自分の息のかかった、頼りがいのある貴族にできて、本当に良かったと思った。
陰陽師の彰親が惇長の親友で居られるのは、彰親の力が本物であるのと同時に、それを過信しない理性の持ち主だからだ。力がありながら俗世間に染まらず、権力者に媚びず、常に一歩引いた冷静な目を持っている彰親を惇長は信用していた。
陣定が終了すると、さっそく義行は、
「うまく左府や右府を言いくるめたものだ。すべてをお前ごときがまわせると思うなよ」
と、笏で惇長の胸を叩き、顔では笑いながら目だけは鋭く睨みつけて部屋を出て行った。
惇長は左大臣と長兄の大納言頼胤をちらりと見たが、二人は蔵人の頭と話をしており、こちらを見ていなかった。主上に、この陣定で話し合われた内容について、どのように報告するのか相談しているのだろう。
数人が話しかけるのを、惇長は簡単に流し、内裏に当てられている自分の曹司に戻った。
その場しのぎの意見しかでない陣定には、いつも疲労感しか残らない。そして身内に対する怒りもわいてくる。荒れ狂う自分の感情をなんとか沈めようと、とりあえず座った所へ、会いたくない人物がやって来た。
亡き詔子の実の兄、藤原成時だ。
「左大将殿、何おありでしたか、恐ろしいお顔だが?」
「何か用でしょうか?」
「そう言わずに。私は貴方の義理の兄なのに」
「……詔子はもういない」
惇長は嫌なやつが来たと思いながら、それでも積まれている書類を隅に追いやって、成時の為に座る所を作った。書類は諸司・諸国の上申書などがほとんどだった。これらは惇長が選別して、必要なものだけ左大臣に廻している。
成時は詔子と同母であるために顔が良く似ている。だが中身はというと似ているとはとても言いがたい。先の政変の時に失脚した右大臣側の人間であったというのにも関わらず、上手く立ち回って地位を失わずにいるのだから。不器用で人に誤解されやすい惇長が嫌いな部類……相当な世渡り上手なのだ。
「冷たいですね。あれからもずっとお一人でいらしているそうで。ああ、なんとかいう女房に手を出されてたか」
「そんなくだらない話でしたらお帰り下さい。私は忙しい」
つっけんどんに言う惇長に、成時は首を竦めた。
「……いえね、一条が美麗な妹を持っているようで。一条を女房にしている貴方ならご存知かと」
珠子だ。惇長はここまで珠子ついてうわさが広がっているとは思っていなかったので、思わず眉を顰めた。
「何度か歌を送っているのに、一条はなかなか会わせてくれない。そこまで出し惜しみするからにはさぞや……と普通思うだろ?」
「私は知りません。色恋の話はよそでやってください」
「そうおっしゃらず。翠野の弾き手と聞いたが?」
惇長の表情に変化は無かったが、内心愕然としていた。
発信源はおしゃべりの右京だろうが、敵方ともいえる藤原に、まだ宮中に入って半月も経っていない間に珠子の存在が知れ渡っている。噂を殊更に広めようとする輩が広めたのに違いなかった。明らかにこちらの出方を伺っているのだ。
「……どこからそんな話を? 一条が言ったのではありますまい」
「義行の中納言殿だよ。なんでも東宮妃の病を治したとかなんとか……」
(やはりか)
内心で舌打ちしながら惇長は次兄を心内で汚くののしった。彼は愚鈍と言ってもいいほど仕事ができないくせに権力欲だけは旺盛な役立たずだ。
弟の惇長が上位の大将でさらに自分と同じ中納言も兼任し、陣定では惇長が上座に座るのが許せないのだろう。年が八つも下の惇長を小僧扱いし、何かと絡んでくる。そして今日のように自分の失敗の尻拭いをさせるのだ。
惇長は近くにあった書類を手に取りぱらぱらと広げた。ああしろこうしろと貪欲な国司達はうるさい。そしてその土地に住む者達も……。
「私に聞かずとも、一条と親しい貴方が直接聞けばよろしいでしょう。兄に関しては私の知るところではありませんしね」
「はは、そう来たか。まあ……、もう直ぐ詔子の三周忌だ。来るだろうね?」
「……ええ」
どうやら本当に言いたかったのはそちらだったようで、成時はそれを言うと直ぐに席を立って曹司を出て行った。立ち上がる刹那、成時の細面の顔が一瞬苦渋に歪んだのが妙に心に残る。
「何を今更」
彼なりに妹を愛していたのはわかるが、どうしても惇長は彼が許せない。彼の身勝手な行動が詔子を殺してしまったのだ……。
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