第2章 翠野
第12話
師走も中旬に入り、雪が舞い、凍えるような寒さに、人々は火桶に火を起こして暖を取っている。
京から望む山々はもう真っ白で、雪が降ると何も見えない。
珠子は美徳が持ってきた琴を弾く練習をしていた。
弾いているのは、姫君がよくする「
すべて自分の指で覚えねばならないし、ちょっとでも違うところを押さえると全然違う音になってしまったりして、異国を思わせる魅惑の音には程遠い。
一条によると七弦琴を扱える者は、都広しといえどこの美徳しかいないと言う。
弦は爪弾けても、曲にできる奏者がいないらしい。
なぜそれを天上人でもない美徳が弾けるのかと、本人に聞くと、木津一族で代々伝わっているのだそうだ。
お手本に美徳が爪弾いてくれる音色はまさしく古楽で、素朴で微妙に揺れるやわらかな旋律が、妖しい魅力となって聞く者の心を掻き乱し酔わせるのだった。
「……お兄様、私は殿方になる気はありませんよ」
七弦琴は男性がおもによくする楽器だったのだと、一条が言っていた。珠子は普通の筝のほうがいい。でも美徳は首を横に振る。
「そんなふうに頬を膨らませても無駄ですよ。珠子はなかなか筋がいい。諦めずに練習なさい」
「それにこれって尊い方が弾かれるものなんじゃ……」
「姫は宮家の女人。また鬼の血筋誉れ高い木津の血も流れています。十分貴女も尊い身分ですよ」
「これなら歌の練習のほうがましだわ」
ぶつくさ言うと、美徳がじろりと睨んだ。
「何か言いましたか?」
「いえ、別に……」
美徳に何か術を教えて欲しいと言ったら、美徳はそれはそれは喜び、なぜか持ってきたのがこの七弦琴だった。これで一体なんの術が会得できるというのだと、珠子は首をかしげながらも毎日練習をしている。
それも同じ箇所の繰り返しで、珠子は琴に飽き飽きしていた。
そして、とても寒い。
朝から火桶の火を掻き回しているのに、まったく部屋はあたたまらず、火桶に抱きついていないと指の先が凍えてしまう。
だから少し弾くと火桶に抱きつき、指先が温まったらまた琴に向かうといった按配だった。
そんな珠子に対して、美徳は寒さなど感じていないかのように、ふんわりと座っている。火桶に抱きついたり、手をかざしたりという様子も見受けられない。
寒くないのかと聞いたら、もっと寒い場所に数年居たからたいした寒さではないと言う。
「私、惇長様の御衣装を少し手伝わせてもらえるはずだったのですけど……」
「たくさん女が居るあの男は縫い手に困りません。さあさ、もう一度初めから」
美徳は惇長を徹底的に嫌っていて、彼に話が及ぶといつも冷たく笑う。
正月に貴族は衣装を新たに揃える。
本来、妻の実家が夫の衣装を揃えるのだが、惇長の衣装は正室の詔子が亡くなってから、左大臣の正室である惇長の義理の母君が揃えている。
当然その母君の女房達が今縫っていて、その一人が一条だった。そして契約結婚とはいえ妻である珠子に、一条は手伝わせてくれると約束してくれていた。
それなのにそれどころではない急用が入ってしまい、一向に一条が布を持ってくる気配はない。
珠子は術を習いたいなどというのではなかったと思いながら、火桶を押しのけて、しぶしぶ琴の弦を押さえた。
飽き飽きだと思いながら爪弾くと、琴が咎めているようなへんな音を立ててしまった。
じろりと美徳に睨まれて、袿の中で首を竦めて返しているところへ、その一条が来た。しかし、手にあるのは飲み物の器などで、布の入った箱ではなかった。でもこれでまた少し琴がさぼれると珠子はうれしく思った。
「遅くなりました」
「待ちくたびれたわ。でも忙しいのにありがとう」
「てんてこ舞いですわ。撫子の御方様のお里帰りが突然今日になって……まったくもう。三日後と聞き及んでおりましたから、まだ細かなところまで準備が行き届いておりませんの。なにしろ女房方だけでも二十名ほどおりますから」
撫子の御方とは、惇長の義理の妹にあたる、東宮妃だ。
今年の春に入内して、東宮を独占する寵愛ぶりだと一条から珠子は聞いている。
初めての里帰りが、当初は左大臣邸に里帰りする予定だったものが、何故か急遽、この桜花殿に変わったのが師走に入って直後のことだった。
桜花殿と呼ばれるこの屋敷は、惇長が左大臣から譲り受けたものを今年改修したものだ。それゆえ、お里帰りにふさわしい美々しさではないかという話になったのだという。
女御などの里帰り先に自分の屋敷を進呈するのは、かなりの財力と権力を必要とする。他の兄達を差し置いてそれをやってのけた惇長は、権力に限りなく近い場所にいる。数多くの駆け引きが裏であったのは言うまでもなく、そんな彼がここへ渡ってくるなど思いも寄らないことなのだった。
惇長は、自分の計画を暴露されてから、一度も珠子の前には姿を現さない。言伝は全て一条を介していた。
「どうぞ」
一条が椀に温かな甘酒を注いで、美徳と珠子にすすめた。
「朝からこちらのお世話ができず、ずっと気にしておりました」
「お気になさらず。好きにやっておりますので」
美徳の微笑に一条はわずかに顔を赤らめ、いえいえと言った。
「お支度で忙しくて、時々珠子様のお顔を拝ませていただくのが今の楽しみですの。御方様の女房ったらまったく、意気高だわ、やたらと妙な話に引き込もうとしてくるわ、わけのわからない歌を詠みかけてくるわで気が落ち着きませんのよ」
「そうなんですか? 成程、才気あふれる女人方がお集まりなんですね」
「そりゃ内裏でやっていくのですからさもあらんでございますが、何も知らぬ私たちにまで試すようにするんですもの。意地が悪いですわ」
「ははは」
さんざんやられている一条は、珍しく感情のままに捲くし立てる。相当な鬱憤が溜まっているようで、人とのやり取りに慣れている一条ですらこれなのだから、自分だったらどうだろうと珠子は不安に思った。それなら琴を弾いているほうがましだ。
「撫子の御方様にとっては入内されてから初めてのお里帰りですから、屋敷の者も気が張るというものです。何しろ未来の中宮でいらっしゃるのですから。あ、さすがに気が早いかもしれませんね、ほほ……」
「さぞお美しい方なんでしょうね」
珠子が目をきらきら輝かせると、一条はおかしそうに笑った。
「確かにお美しい方であらせられますが、殿方のようなご気性の方です。剛毅と申し上げるべきか……」
「は? 剛毅?」
きょとんとしている珠子に、一条は袿の袖で必死に大口で笑っているのを隠した。
「ええ、一族の殿方はどなたも撫子の御方様には頭があがりませんもの。剛毅でなくてなんでしょう、ほほほ。姉君の中宮様はおしとやかであらせられますのに、あの方は……。でも内裏ではさすがに控えておいでですので、東宮もご存知ありますまい。世の人は撫子の御方とか申しておりますけれども、我々はそれがおかしくて、ほほほ! あのあらくれ姫が撫子なんですものっ……ほっほっほ!」
「…………」
慎み深い一条がこれほど笑うとは、いったいいかほどの変身ぶりなのだろう。
珠子は静かに微笑している兄を見上げた。
「お兄様は撫子の御方様をご存知なの?」
「私が? 御簾内深くお暮らしの方を知るわけがないでしょう。上臈の皆様にすら会えないのですから」
「でもお兄様のそのお顔なら、女君は皆惹かれておしまいになるでしょ? そうしたら……」
現に、誰に言い寄られてもなびかない一条ですら、美徳の前では少女のようになっている。
美徳は珠子と同じように、人を素直にさせる何かを持っている。おまけに上品な美しい顔立ちに、迷いのない清らかな所作だ。惹かれない女のほうがおかしいだろう。
覚えがたっぷりある美徳は困ったように笑いながら、それでも頭を横に振る。
「無位無官の私は殿上できませんし、妻以外はいらないのでね。珠子もあんな薄情けな男はさっさと捨てて、他の情深い殿方を相手にしなさい」
「…………」
珠子はそれには何も言い返さず、甘酒を静かに啜った。
惇長に逢わなくなってもう一月近くになる……。そして珠子の中にいる詔子も出てこない。
美徳が言うには、あの時のように話しかけることは、現身を持たない者にとってはかなり疲れるものなのだそうだ。
ともあれ、記憶が飛んだり香が香らなくなったので、珠子はあれから快適に過ごしていた。
「それにしても、なぜ日にちを繰り上げてお戻りに?」
「それはわれわれにも知らされてないんです。殿が珍しい唐渡りの香炉をお持ちになったから、それを一刻も早く見たいとの仰せというのが理由として聞かされましたが、撫子の御方様はおおよそそんなものには興味を示される方ではありませんし」
美徳と一条が話しているのを聞きながら、珠子は椀を置いた。そして七弦琴をまた膝の上に載せて弾きはじめる。
惇長に逢いたい。
でも自分から逢いに行く姫など品がないにもほどがある。
いくら珠子が世間知らずでもこれはできない。
この時代、女人は殿方の訪れをひたすら待つしかない。
何で来ないのと詰るのもはしたないことで、そんなことをしたら今度こそ惇長は珠子を見限ってしまうだろう。
歌や手紙を書くという手もあるが、彼は歌は不得手で筆不精だと常々聞いている。見られずに捨てられてしまうのがわかっていて書くなど、考えるのも愚かというものだ。
詔子と惇長を助ける約束をしたが、逢えない日が続き、どうすればいいのかわからない。
一体、惇長は夜、何をしているのだろう、自分以外の姫と一緒なのだろうか。
時折、あの閨での激しさで、惇長が自分をめちゃくちゃにしてくれないだろうかと思ったりもする。
でも優しくして欲しいと思う時もある。
優しいだけでも激しいだけでも駄目で、さらにあの冷たさの下に見えた寂しそうな表情も忘れられない。
皆欲しいとは、なんという欲深さだろうか。
胸がやたらと切なくなり、ざわざわと心が落ち着かない。珠子は物苦しい想いを最近ずっと持て余しているのだ。
きっとこれが、世に言う心の鬼なのだろう。
(どうしたら逢って下さるのかしら、誰か教えて……)
透明感のある弦の響きが、珠子の心に共鳴してその指先から想いが流れていく。
いつしか珠子は泣いており、美徳がその背をゆっくりと撫でてくれていた。
一条は席を外していておらず、居るのはこの世界でただ一人、血を分かち合った兄だけだ。
「珠子、その琴の名前は
「……古事記の
「珠子は古事記も読んだの。すごく頑張ったんだね。そう、これは枯野の妹なんだ」
「とってつけたようなお話」
珠子は泣きながら静かに笑った。
枯野とは古代の琴で、元はとても大きな木だったという。
しかし、大王の水の調達のために淡路島と本州を繋ぐ船の材料とされ、人の手によって切り倒された。
その船はとても早く走ったが年月が経って古く老朽化し、分解され、その木片でたくさんの塩が焚かれた。
だがどれだけ焼いても焼けきれない芯が残った。
不思議に思われた大王がそれで琴をおつくりになり爪弾かれたところ、妙なる清浄な音色を遠くまで響き渡らせたという
「その大きな木のそばに小さな木があってね。それが翠野。兄を慕って泣くから同じように琴にしたんだって。だから、珠子が持つのがふさわしいよ」
「どう見てもこれ、唐渡りです……」
くすりと珠子は笑った。
美徳の優しい慰めがこの上なくうれしい。
「珠子は本当に情緒がない。普通の姫君ならうっとりする所ですよ」
「そうではなくて、このような高価なものをいただくわけには」
「珠子」
珠子は美徳に包み込まれた。水干にたきしめられている伽羅と花の匂いは、とても優しく心安らかな気持ちにさせる。
「翠野は珠子のそばに居たいと言ったんだよ。聞こえなかった?」
「え?」
琴は普通に珠子の膝の上にある。
「ふふ、どんな術も楽の音色には敵わない場合があるのです。祈祷や祈願では必ず歌ったり楽器をならしたりするでしょう? だから私は珠子にこれを渡したいし、翠野も貴女のそばに居たいと言う。つまり、珠子にこれは必要というわけです。おわかりですか?」
「……これでは空は飛べないわ」
子供っぽい珠子に、美徳は呆れたようにため息をついた。
「馬鹿ですか。そんなことができるわけないでしょう。第一姫君はそんなはしたない真似はしないものです、それこそあの気難しい惇長が嫌うところでしょうよ」
「でも、お兄様は屋根の上に飛び上がったと、彰親様が」
「それは体術で幼い頃から鍛錬しているからです。しかも、生まれつきその才がないとできません。珠子の身体では無理です」
「お兄様の意地悪」
「珠子……」
言いかけて、美徳が静かに人差し指を己の唇に当てた。
さやさやと優雅な衣擦れの音が近づいてきて、部屋の前で止まる。一条のものではない。
「今、七弦琴を弾かれていた方は、こちらですか」
廂から聞きなれぬ女の声がした。
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