第11話

 暴風で、閉められた蔀戸がたがたと震えた。

 降り出した雨が縁や庭の草木を叩きつけ、たちまち濡れそぼっていく。縁も風雨によってびしょぬれになり、煽られた御簾の内側まで雨水が入って来た為、大慌てで女房や家人たちが格子戸を降ろしていった。

 おかげで、夕方に入りかけたばかりだというのに、夜のように暗い。

「美徳殿の仰る通りだ。私は姫が消え去るのを承知で、姫の身体に詔子という愛した女を宿らせようとした」

 燈台の灯りを受けながら、惇長がついに秘密を白状した。

 珠子は自分の身体の異変の正体を知り、袿ごと自分の身体を抱きしめた。そんな恐ろしい術をかけられていたとは知らず、自分は惇長への恋心で一杯になっていたのだ。

「一年間の契約というのは……」

「貴女を繋ぎとめるために必要だったのです。詔子が貴女の身体になじむのに一年かかると聞いておりましたのでね。もともと解放する気などありませんでした」

 今の惇長は感情さえも消え去っているようだ。返す言葉は今までにない冷たさで、優しさなど微塵も感じられず、珠子の訴えかけるような眼差しにも応えない。視界にすら入れていなかった。

 事はすべて露見した。

 おそらく美徳が珠子の心のうちを知り、はっきりと表に出す必要を感じて、なんらかの術を発動したのだろう。

 こうなれば、珠子も惇長がどういう男か悟らざるを得ない。惇長を想う恋心がなければもっと早くこの時間は来ているはずだった……。

「もう術は破れたも同然だ。姫の中にある皇族の血が勝ったのでしょう。母君の鬼の血が勝れば成功したものを。……まったく、兄がしゃしゃり出てくるとはね」

「……まったく悪いとは思っていないようですね、貴方は」

 美徳が閉じられた扇を手の内で叩き、空気を切り裂いた。惇長はそれに対して小さく笑う。

「悪い? どこが? 姫はあんな見るも汚い屋敷から、こんな美しい所へ住める。美しい衣装に埋もれて、雲の上の身分の私に愛される……、良いこと尽くめでしょう?」

「本気で言っているのだとしたら、まさしく人の皮を被った獣ですね。救いようがない!」

 何もかもが裏返しになっていく心地がして、珠子は信じられない思いだ。

 敵はやはり惇長だった。

 そして惇長が、自分のことなど愛してもいないというのが、言葉の端々から感じられ、心の芯から冷えていく。

 美徳が、そんな珠子の心を壊すまいと優しく抱き寄せてくれた。

「よくわかったでしょう珠子。この男はこういう人間なんです。貴女を人と思っておりません」

「…………」

 珠子はそれでも惇長から目を離せない。

 そんな珠子を一条は涙ぐみながら、彰親は気遣わしげに見ている。

 美徳が励ますように、珠子に言った。

「さあ、私の家に行きましょう。小さいですが穏やかで気持ちのいいところです。このような現身の鬼もいないし魂を引き裂く術もない、人らしく生きられる」

 家という言葉に珠子は反応した。

 自分の手を取ろうとした美徳の手を、そっとはずして首を横に振る。

「いいえ、行きません……。契約は来年の春まで続いております」

「何を言っているのですか。聞いたでしょう? この男は貴女を利用しているだけなんですよ? 私が暴かなければ貴女は大変な状態になっていたのです!」

「それでも……です。約束を違えるなんて私にはできません。私は来年の春までは惇長様の妻なんです」

「この男は最初から約束など守っていません。そんな契りは無効です!」

 噛んで含めるように言う美徳に、珠子はかたくなに逆らった。

「とにかく私はここに居ます。来年の春までは動きません」

 珠子は美徳に言っているようで、実は惇長に言っている。それがわかっている惇長は目を細めた。

「私が愛しているのは詔子だけです。貴女への愛などありません。それでも?」

「ええ……」

 惇長は、くっと笑って扇を広げ、先ほどから一言も発していない彰親を睨んだ。

「おい彰親。この姫はこんな危険な屋敷に留まるそうだよ? 良かったですね、想いが叶うかもしませんよ?」

「……そのようですね。私は姫が欲しいのでこちらにずっとおいででしたら助かります。大笑いですよ、お目出度い姫君に……」

 しかし彰親はまったく笑っておらず、珠子に対して怒っているかに見えた。

 四対一で、惇長は孤立していた。彼以外は珠子の味方であり、保護者であり、彼女の幸せを願う人間だった。少なくとも他にこの場を見ている者がいたとしたら、そう思うだろう。

 惇長はすっと立ち上がると扇を閉じて懐にねじ込み、彰親を睨みつけた。

「彰親、お前は私を裏切っていた。お前の術がこれくらいで破れるはずがない、最初から破られるように手加減していたんだろう? 都中の人間が恐れる力を持つ屈指の陰陽師である安倍彰親が、こんな世間知らずの兄妹に負けるはずがないんだ!」

 彰親は何も言わない。じっと惇長の視線に耐え、惇長の怒りの波動を受け止めている。あのいつもの俗世を感じさせない不思議な色は、その瞳には出ていなかった。

 事が露見したのは惇長だけではなく、彰親もなのだ。

 惇長の言葉に対して黙っているのは肯定を意味する。彰親は惇長のたくらみに加担すると見せかけて、実際のところは彼の思うとおりの術をかけていなかった。

 公卿の、それも大将である惇長より、何の後ろ盾もない、政治的価値もない宮家の珠子を彰親は取ったのだ。惇長の怒りは相当なものだろう。 

 無言の返答に、惇長は腰に帯びている刀の柄を左手で握り締めた。

「姫の美貌に心を奪われたか? 愚かな……愛執の炎で出世の道を焼き尽くしてしまうとは。次の除目での昇進はあり得ぬぞ。いや、この先もあるまいて!」

「惇長様!」

 咎める一条にも惇長の態度は冷たい。

「お前もだ。あれほど言ったのに姫に情を移していた! お前も信用がならぬ。詔子も良い幼馴染を持ったものだ。まさか、詔子を死に追いやったのはお前ではあるまいな」

「あんまりなお言葉です!」

「もうよい!」

 指貫(さしぬき、袴)の音も荒々しく、惇長は部屋を出て行った。


 燈台の明かりが揺れた。

 雨風はいよいよ激しい。

 外の嵐に対して局はしんと静まり返っていたが、美徳がその沈黙を破った。

「最初から、術を完成させる気はなかったのですか?」

「反魂ですら禁呪でありますのに、生身の人間の身体へ鬼籍に入った者が摩り替わるなど、自然の摂理に反するばかりか、あの方の来世にどれほどの不徳を積み上げるかと恐ろしく思われました。詔子様の魂が惇長殿の傍から離れないのをずっと気になっておりましたので、珠子姫の御身体を通じてお話でもできたらと思っていたのですが、なかなか波長が合わず……」

「さもあらん。あの男は現実的過ぎて、その姫の叫びなど届かぬでしょう」

「私も一条も珠子姫に憑いている詔子様に気づいておりました。惇長殿に会わせても、気づく事無く……」

「詔子殿があの世へ行けぬのは、語り足りないなにかがあるという事ですか?」

「はい。ですが、我らでは詔子様は語ってくださいません。おまけに時期があるようで……」

 美徳は深くため息をついた。

 鬼籍に入った人間はより一層の制約に縛られる。結局のところは、詔子を珠子に憑いたままにさせるしかないようだ。珠子は明るみに出た事実をきちんと把握しようと、二人の会話に聞き入っていたが、一段落したと見て兄を見上げた。

「お兄様、私のお母様はどういう方なのですか? 鬼の血とはなんです?」

「珠子……、われらの母は近江の浅井郡を預かる豪族、木津一族の姫です。たまたま父の冬の宮が寺院参詣に参られた折に、木津の屋敷に宿をとられ、そこで二人は出会ったのだと聞いています」

 初めて聞く出生の話だ。彰親と一条も美徳に注目している。

「……木津は鬼の血をひく一族なのです、姫にも私にもその血は流れています」

「私、角なんか生えてません」

「当たり前です。角がある鬼など人が書いた幻想に過ぎない。まあ妖などには沢山居ますね。われわれは鬼とは言えど、主上と同じく神の血を引く者。そして冬の宮は皇族。私と姫は二重に神の血を引いているのです」

「私はなんにもできないわ。お兄様はお力があるみたいだけど……」

「鍛錬したからです」

 彰親が美徳に、ふと思い出したように言った。

「貴方は、あの冬の宮の屋敷にお住まいではありませんでしたね?」

「……ええ、子供ができない木津の当主である叔父が、どうしても跡取りが欲しいと言いましてね。私だけが浅井に残ったのです。ちなみに母は姫を産んで一年ぐらいで亡くなりました」

 母親や父親について、詳しい話が聞けると思っていた珠子はがっかりした。家族の記憶が少ない彼女にとって、美徳から聞く話は興味深いものだった。

 美徳はそんな珠子を思いやって、微笑んだ。

「母について知りたいなら叔父上がまだいらっしゃるから、浅井へ来たらいい。私の家族も一緒に居るから楽しく暮らせるよ」

「お兄様は結婚していらっしゃるの?」

「そう、妻と一人だけ姫がいる……」

 彰親は嘆息し、珠子に謝った。

「……姫に苦しい思いをさせました。許してほしいとは思いませんが、どうか詔子様を疎ましく思われないでください」

「今は疎ましいとは思わないわ。でも、どうして私は憑かれているのに今は元気なの? 一時期病気みたいに具合が悪かったわ」

「兄君がおっしゃった、二重の神の血の成せる業でしょう」

「?」

「すべてが明らかになって、害のある術のほとんどが破れました。だから回復しているのです。普通の人間ならまだ寝込んでいる状態ですが……。そうなったらまた邸にお引取りして看病させていただこうと思っていました」

「……私、鬼になるの?」

「なりませんよ。ですが、神の血を引く貴女は、そこに居るだけで尊い。貴女なら奇跡を起こせるような気がします」

「奇跡?」

「ええ、我々では起こせない奇跡です」

 美徳が珠子の中に居るという詔子を消滅させなかったので、今も珠子の身体に詔子は眠っている。だから惇長もそれについては何も言わなかったのだろう。

 彰親が美徳と珠子に、再び深く頭を下げた。

「災いをもたらした上に、この様なお願いは筋違いだとわかっています。でも、お願いします……、どうか、どうか惇長殿を救ってやってください。あの人は現実に蠢く魑魅魍魎のせいでおかしくなってしまった。本当はとても優しく誠実な男なんです。きっと詔子様はそれゆえまだこの世に漂っておいでに違いないのです」

「わ、私からもどうか……」

 一条も慌てて平伏した。

 救うも何も、いったい何をどうしたらいいのか珠子にはわからない。

 惇長はきっともう、前のように優しくはしてくれないだろう。ひょっとすると渡っても来なくなるかもしれない。

「どうする?」

 

 美徳が言ったが、珠子は視線を自分の袖口に落として何も言えない。彰親と一条が頭をあげようとしないのに困惑し、どう言ったらいいのだろうと考えあぐねてしまう。

 自分の正妻を甦らせようとした惇長。

 それを上手くごまかして、助けようとしてくれた彰親。一条も珠子の味方になってくれていたらしい。

 その二人が頭を下げて、惇長を救ってほしいのだと言う。

(惇長様は、私を愛してはいらっしゃらない。今回の件でお厭いになったかもしれないのに)


(珠子様、それはありません。惇長様にとって貴女は必要な御方です)

 突然、身体の内から鈴を振るような美しい女の声が響き。ぎょっとして珠子は周囲を見渡した。

 一条と自分以外に女は居ない。

(……誰?)

(詔子です。勝手に貴女の中に入ってすみません。惇長様をお救いしたくて黄泉の国に行けないでいるところを、彰親様に導かれて貴女の中に入ったのです)

 直に頭に響く声に珠子は驚いた。でも確かに詔子が語りかけているのだ。

(私は貴女のお身体を自分のものにしようとは、最初から思っていません。ただ、惇長様を氷の国から救い出してあげたいのです)

(氷の国……)

(あの方は将来この国を背負っていかれるはずのお方、今のままでは内裏に巣くう魑魅魍魎に食い殺されてしまいます。珠子様、貴女になら絶対にあの方を救えるはずです)

 珠子はそっと袖で袂を押さえた。

(貴女も私も、惇長様を愛しているのです。そしてあの方が愛をお求めである限り、必ず想いは通じます)

(貴女はどうするの? 貴女だって惇長様が……)

(現世の身ではないいまはあの方のお幸せが私の望みなの。……お聞き届け下さいますか? 私も微力ながらお手伝いさせていただきます)

 どう答えたらいいものかと珠子は悩み、見上げた美徳の優しい目に気づいた。

 美徳は詔子の声が聞こえているわけでもないのに、わかっているかのように、珠子の頭を優しく撫でて微笑んだ。

「姫の思うとおりにしたらいいよ。私は姫が姫らしくしていてくれたらそれでいい」

「…………」

 傲慢で冷たい計算の元に行動する惇長。でも一方で、退屈している珠子の為にわざわざ近江へ遊びに連れて行ってくれたり、寂しがっている夏の夜に来てくれた優しい惇長。

 乱暴に抱きながらも、珠子を熱く蕩かせてくれたあの時だけは、自分を求めていてくれたのだと思いたい。

 ふと、桜の花びらが舞う日に現れた惇長を思い出した。惇長はあの日、優しく微笑みながら珠子にこう言った。


『見せてあげましょう。醒めない夢を』

 惇長はまだ愛する人の死を受け入れられず、あの桜の夢の中で眠り続けている。

 現世(うつしよ)で、こんなに自分を愛して心配している人間がいるのだと気付かずに、愛していた女が心配して極楽浄土へ行けないでいるというのに……。

 愛する気持ちを、今の惇長は夢だと思っているのだ。珠子と出会ったことさえも。

 珠子は袖の中で手を握り締めた。

(いいえ違う。惇長様に逢う前こそが夢だったのよ)

 惇長が現れなければ、珠子はきっと一生知らなかった。この美しい世界、歌も、花も、湖も、人をこんなに深く想ってときめかせる、燃えるような想いも。

 美しいだけではなく、時にどろどろとしていて、愚かさや悲しみに満ちたとしても、それでも生きているのだと強く信じられる気持ちは、この現世でなければ分かち合えないのだ。

 それを珠子に教えてくれたのは惇長だ。

(それなら)

 珠子の瞳に力が灯る。 

 それなら私が夢から目覚めさせて差し上げよう。

 じっと自分を見守る三人に、珠子はゆっくりと顔を上げた。

 決意した顔を見て、それぞれがそれぞれの思いで珠子を見つめ、珠子は期待にこたえるように頷いた

「できる限り、やってみます」

 そこには世間知らずの姫君も、鬼の傀儡になりかけていた姫君もおらず、花のように美しい女人の姿があった。

 外ではいつしか風雨がやみ、月が雲の合間から光を投げかけていた。

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