第13話

 几帳を挟んだ向こう側の縁にいる女房に向かって、

「弾いていたのは私です。貴女は?」

 と、珠子が警戒しながら返事をすると、

「こちらは一条殿の局のはずですが、あ、名乗らず失礼を。私は撫子の御方様付きの女房の中務ともうします」

 すぐさま相手は名乗ってきた。

 どことなく探るような言い方が不気味に思われ、珠子は美徳の水干の袖をぎゅっと握った。

「一条殿とは、わけあって同じ局に住んでおります」

「では、つい最近いらしたという、惇長様の縁の方は貴女ですね」

 ひやりとした物が背中を伝った。

 惇長と珠子の仲を知っている人間は限られている。彰親と一条、そして惇長の従者の由綱だけだ。他の者は一条つながりの女としか知らされていない。それを向こうの女は知っている。

 珠子と美徳は警戒して沈黙し、次に女房がなんと言い出すのかと待っていると、荒々しく走るような男の足音が複数近づいてきた。

「中務! こちらの対へは来ないように言ったはずだが」

 久しぶりに聞く惇長の声だ。

 彰親もいるようで、彼の声も聞こえる。

 一月あまり聞いていなかった二人の声に、珠子はなつかしさとうれしさで胸を弾ませた。

「一条殿がいらっしゃらないから、こちらへはるばる参りましたのに」

「一条は私の部屋に居ると知っているのだから、私の部屋までくれば良かろう! 里として進呈はしたが、はばかりというものがあろうが」

「まあ、ほほほ。惇長様がこちらに麗人を住まわせておいでなのは事実ですのね。まるで若紫の君のよう。いかなるゆかりでいらっしゃるものやら」 ※1

「ゆかりないそなたには関係の無い話だ。言ってもいないのに嗅ぎまわるのは無粋というもの」

 殿方二人を相手にするのはかなり度胸がいるものだろうが、中務という女房は全く動じていなかった。二人が元の場所へ戻そうとしても、てこでも動かない。

 女はなよやかでいなければならないと言っていた一条の言葉は、宮仕えの女房には当てはまらないらしい。豊富な知識に打てば響く才気を中務は持っていて、公達と対等に渡り合っている。

 羨ましいと珠子は思った。

 自分にはそんな才覚も自負もない。一体何が誇れるのだろうか。

 己を貶めるのは苦しいだけなのだとわかっていても、中務の堂々とした態度を目の前にすると、やっぱり考え込んでしまう。

 それにしても人の部屋の前で、ああだこうだと言い合うのはみぐるしいことこの上ない。

 一向に終わりそうにない押し問答を止めてくれたのは、美徳だった。

「……人の部屋の前で騒ぐのはお止めなさい。用件は一体なんですか?」

 ぴたりと声が止んだ。

 代わりに小声でひそひそと話し声が聞こえた後、中務が寝殿のほうへ戻っていく気配がした。

 美徳の声を聞いた途端に帰って行ったあたり、何の為かはわからないが、中務はここに珠子と美徳が居るのを確認しにきただけなのだろう。

 しばらくして美徳が妻戸を開け、彰親と惇長をむっつりとした顔で招き入れた。


 惇長に逢えてうれしい一方で恥ずかしい珠子は、美徳の背後にそそくさと隠れた。

 しかし惇長は珠子をちらりと見ただけで、代わりに部屋の隅に積み上げられている男達からの贈り物や文の山を目にして渋い顔をし、座って袖を直すなり、

「東宮妃のご滞在は知っていよう。貴女は身辺が何かとだらしがないから気をつけるように」

 と、説教した。

 久しぶりに逢って言う言葉がそれなのかと、珠子は呆気に取られ、彰親がおかしさに耐え切れぬという風に忍び笑いをもらした。

 美徳は相当気に障ったらしく、ぎらりと惇長を冷たい視線で貫き、

「だらしがないとは珠子に対してか? は! 人を道具扱いした後は捨て置いたくせに恐れ入る」

 と、言い放った。

「私は出て行くように言ったはずだ。お前が連れて帰れば良かったんだ」

「そうしようとしていた所を連れ去ったのはお前だ。珠子は一条の妹としてここに居るせいで、男がひっきりなしにきて大変なのだぞ! どれほど危険かお前はわかっていないのか。いい加減な男め!」

 惇長はと美徳はとにかく仲が悪い。惇長が珠子に仕掛けた企みを思えば当たり前だが、それがなくともおそらく二人は仲が悪かっただろう。

 この時代、貴族と庶民は同じ人間とは思われていない。

 殿上が許されている天上人の惇長から見たら、無位無官の豪族の美徳など塵芥と同じ様なものだ。その塵芥が身分の壁を鼻で笑って接してくるものだから、一挙一動が癪に障って仕方がない。

 品がなければ世間知らずの雛の男よと嘲笑えるのに、美徳という男はみすぼらしいなりであるのにもかかわらず、気品のある所作に美しい顔立ちのすばらしい公達ぶりだ。一条に聞くと琴の名手で歌や舞、学問すべてに精通しているらしい。それが余計に惇長を刺激する。

 美徳は、全ての人間は同じ命を持っているという考えの持ち主だ。

 珠子に宮家の人間だからなどと常々言っているが、基本そんなものはどうでもいい。ただ現実に主上の覚えもめでたい、左近衛大将の身分をいただく、将来の栄達が確実な惇長と結ばれるには身分が必要だから言っているだけだ。

 内裏での彼の実務能力の評判は素晴らしくよい。一部の貴族達がさんざんにこきおろしていても、嫉妬されるくらいの存在だという事実が強まるだけだ。そんな彼には毎日のようにあちこちの公卿の娘から縁談が舞い込んでいる。後ろ盾がなくて政治的にも何の価値もない珠子が、彼女達に太刀打ちできるわけがないのは一目瞭然だ。

 珠子が惇長を愛していなかったら、美徳はとっくに浅井の自分の家に連れ帰っていただろう。

「二人とも静かに。姫が怯えています」

 彰親が間に入り、止まりそうもない言い合いを止めた。

 珠子は別に怯えていないのだが、そう言いでもしないと話は先に進まなそうだった。二人が黙ると、彰親がはにこやかな笑みを美徳に隠れている珠子に向けた。

「姫はこの邸の男達のうわさの的のようですね。ふ……、でも大して広がっていないのは、ここの朴念仁が必死に消しまくっているからなんです」

「余計な話をするな」

 からかう彰親に惇長が怒った。

 珠子は美徳の後ろから、惇長をそっと覗き見た。

 黒の束帯を着ている惇長はぐんと凛々しく見え、珠子の心を根こそぎ奪ってしまう。

 ふいにこちらを見た惇長とまともに視線がぶつかり、珠子は慌てて再び美徳の後ろに隠れた。

 その拍子にびぃんと七弦琴が鳴った。

「これが……?」

 彰親が固唾を飲みながら美徳を見ると、美徳はゆったりと微笑んだ。

「さすがは、ですね。それは「翠野」です」

「「枯野」と対になっているという……、なぜ珠子姫が?」

「父の冬の宮が所持していたものをお譲りしただけですよ。琴も姫が好きみたいでしてね」

「……そうですか」

 彰親は考え込むように閉じたままの扇を額に当てた。しかしそれも一瞬ですぐに顔を上げる。

「姫、お願いがあります」

「彰親! このような下賎の者に話して、他の者にぺらぺら喋られたりしたらどうする!」

 惇長が怒鳴った。

 珠子は何に惇長が怒っているのかわからない。

「貴方とて今の私の考えとほぼ同じはず。実行するほかに撫子の御方をお救いする手立てはないでしょう」

「しかし」

「良いのですか? 最愛の妻も、妹も亡くしてしまって……」

「…………」

 笏を握り締め、惇長は勝手にしろとばかりにそっぽを向いた。


 美徳は彼らが話し出そうとしている内容をわかっているようで、ため息をついて袖を払った。

「私も珠子も、そんな話は聞きたくありませんね」

「ですが、姫が撫子の御方をお救いできるかもしれません。その「翠野」の力を引き出せる貴女なら」

「……やれやれ、やっぱりそう言う話ですか。あの時強引にでも珠子を浅井に連れて帰るのだった」

「われわれにとっては幸いです。姫、琴を少し爪弾いて下さい」

 彰親に真剣なまなざしで見つめられ、珠子はどぎまぎしながらも素直に爪弾いた。

 同時に彰親が小さく何かを唱えた。すると次の瞬間に、まるで音の幕が広がったように周囲の音が聞こえなくなった。

「琴の力を借りて局の外を歩く人間に、我々の話を聞こえなくしました。姫、お願いがあります。ただし受けられるにせよ受けられないにせよ、話した内容は他言無用に願いますが、できますか?」

「……私は一条とお兄様としかお話できないわ」

 ただでさえ人見知りだ。路とボロ邸に住んでいた時は、路が居たから他人と一緒でも生きていけると思っていたが、自分は人見知りが激しく、そうそう人に打ち解けられない性質だとこの半年でわかった。現実、言い寄ってくる男に対応しているのは、兄か一条だ。一人で居たらあっという間に強行突破されて、誰かの物になっていただろう。

「それはいい。一条も美徳殿も口が堅い」

「褒められている気がしませんね」

 美徳が言ったが、彰親はそれを無視して珠子に打明け始めた。

「此度の東宮妃の里帰りは、実は病によるものです。内密に伏せられておりますが、実はかなり重いもので、最悪穢れになるとご本人が懸念されて東宮に里帰りを願われたのです」

「……え」

 珠子が惇長を見ると、惇長は黙って頷いた。

「先年の政変に続き、今回の東宮妃の病です。それが広く知れたらまた宮中を騒がす輩が出没するかもしれない、それを主上は心配されています。夏の終わりにお倒れになり、ずっと原因不明でしたが呪詛によるものだと本日わかりました」

「何故今日までわからなかったんですか? もう幾月も……」

「私は内裏では東宮妃のお傍には寄れません。専門の者がおりますのでね。行けてもお付きの女房方まで」

「…………」

「でも、今日はっきり呪詛によるものとわかりました。貴女の七弦琴でたちまち威力が弱まる病……。普通の病ではあそこまで覿面に効果はでません」

 何も言えないでいる珠子の代わりに、美徳が、

「珠子の七弦琴の力など微々たる物。東宮妃付きの侍医や陰陽師は何故わからなかったのです。もっと力があるはずでしょうが」

 と、言った。お前達は能無しかと言外に言っている。珍しく惇長は怒らずにゆっくりと横に首を振った。

「あやつらは何もしていない。もしくは診ている振りをしてるだけだ。だから、彼らから引き離す為に里帰りをお願いした。ここに居ればいずれ尻尾を出すだろう」

「その為に妹と琴を利用するのですか」

 美徳の言葉が、部屋の中に不穏な空気を撒き散らした。

 珠子は何のことか分からずぼんやりする。難しすぎて頭がついていかない。そんな珠子に一度振り返ってから美徳は二人に改めて向き合った。

「珠子の力を利用するのは止めていただきたい。珠子の力は自分を護る為に使うのであって、貴方達の渡世のいざこざの道具に使われるなどまっぴらだ。ふざけるなと言いたい」

「しかし、今、撫子の御方の病を治せるのは……」

「私はこれからしばらく女人禁制の熊野の奥深くへ行かねばならぬ。その間に誰が珠子を護るのです? 翠野を使って撫子の御方の病を治したりしたら、どうせ敵とやらにすぐに知れる。二十名の女房の中には密偵が幾人も居よう。特に先程の中務など最も信用ならぬではないか。何故数人しか知らぬはずの、惇長殿と珠子の仲を知っているのですか! 東宮妃ですら呪殺するような輩が珠子に手を下さないわけがない!」

 政治の冷え切った暗い世界を垣間見、寒さが這い登ってくる心地がして、珠子はそっと白く灰がちになっている炭をかき棒で掻き起こした。たちまち炭は赤く燃え上がって火鉢は熱くなり、それをそっと静かに抱きかかえた。

 見えない敵は怖い。怖いけども……。


「お兄様、私の琴で撫子の御方様がお救いできるのなら、お役に立ちたいです」

「珠子。貴女は何もわかってはいない。子供が猫を助けるようにはいかないのですよ」

「……私には、猫の命も人間の命も同じです。お助けできるのに知らぬふりなど、できません」

 美徳は小さくため息をついた。いくら説得しても必ず珠子は撫子の御方を救おうとするだろう。愛してくれない惇長を助けようとしているように。

 珠子はとても純粋で優しい。その優しさが、値せぬ男に向けられているのがどうにも納得いかない。

 内心で舌打ちしながら、美徳は、惇長に厳しい視線を向けた。


「惇長殿、珠子を護るのでしょうね?」

「できる限りは」

「頼りない答えだ。北の方が成仏できぬわけがわかる」

「……お前はまるで全てが見えているかのように言う」

 ぽつりと言う惇長に美徳は笑った。

「鬼の血を引いている上、木津は情報収集に長けておりますのでね。木津の人間は全国に散っており、浅井にはほとんど住んでおりません。その意味はわかりますね?」

 惇長はお手上げだと言わんばかりに嘆息した。

「……つまり、内裏の出来事は皆お前達に筒抜けという事か。何のために?」

「いずれ尊い方が教えてくださるでしょう。とにかく命がけで珠子を護ってください。隠しても必ずばれますからごまかしはききません。熊野から帰ってきて珠子が幸せでなかったら、ただではおかない」

 その言葉には突きつけられた真剣の刃のような鋭さがあり、そういった気配に慣れているはずの惇長でさえも緊張させた。彰親は黙って聞いている。

 珠子だけがぼんやりとしていた。

 美徳の言葉は男二人には理解できても、珠子には話の半分もわからない。珠子に関わる話であるのに彼女は何もわからない。兄の背中を見上げても美徳は振り向かなかった。

 惇長と彰親が二人で顔を見合わせて頷きあい、惇長が言った。

「わかった。珠子は全力で護ろう」

 美徳が黙ってうなずくのを確認すると、隠れている珠子に彰親が手を差し出した。

「では姫。撫子の御方の近くで琴を披露してください。何、あの方は琴はてんで駄目ですから多少下手でも大丈夫ですよ」

「あの、でも、私が弾くだけで、本当に撫子の御方様をお救いできるのですか?」

「できます。そうですよね、惇長殿?」

 珠子は惇長を見上げた。

 惇長は先程からじっと珠子を見ていたらしく、すぐに見詰め合う形になった。

 焦がれていたこの黒い目。

 今は何の熱情も映していなかったが、驚くべきことにこの誇り高い男が珠子に深く頭を下げた。

「……頼む。撫子の御方を助けてくれ。助けてくれるのなら、何でもやる」

「なんでも?」

 まさかそんな言葉を惇長が言うとは思わなかったので、珠子は思わず聞き返してしまった。それは他の男二人も同様でびっくりしている。

 妹を思う兄なら当然だと思う一方で、珠子は常にない嫉妬の棘を感じた。きっと自分ならこんな風にはしてくれないに決まっていると。

 再び頭をあげた惇長はじっと珠子を見つめた。

「ああ、お前は何が望みだ」

 珠子の望みなど決まっていた。

 普通の姫なら誇りが邪魔をする上に恥ずかしがって絶対に言わない。

 けれども珠子は普通の姫などではない。恥ずかしいが、うれしさのほうが勝り、今感じた嫉妬と気持ちの高まりが後押しして望みを口にしていた。

「前のように私と逢って下さい。夜も、昼も……」

「……わかった。今宵から出向く。別の局をしつらえよう」

 惇長の表情は珠子とは正反対で氷のような冷たさだった。

 なんという冷たい男だと皆言うだろう。

 兄は再び反対するだろう。

 でも珠子はそれで良かった。逢えない寂しさに比べれば何でも我慢ができる。

 珠子は琴を抱えて立ち上がった。


※1ねは見ねど哀れとぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草のゆかりを(源氏物語)

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