第2話

 一条の外れに物の怪邸と言われるほど荒れ果てた宮家の邸がある。無人ではなくつい最近まで女人二人が暮らしていた。一人は宮家の姫で一人は姫に仕える老齢の侍女だった。

 そう由綱が車の外から説明するのを、惇長は扇を口元に添えながら聞いていた。

「その侍女が路なのだろう?」

「はい」

「おかしな侍女だ。なぜ自分が死ぬまで誰の世話にもならずにいたのだ?」

「私めの母によりますと、当初頼ってきていたらしいのですが、その頼った相手が義行様でございまして」

 源義行。惇長にとって二番目に当たる兄だ。そして仲が悪い。

「あの兄にか? 何故だ」

「妹が義行様にお仕えしていたとか。むろん義行様のあのお人柄ではとても受け付けられない事柄だったので断られたようです」

「ふうむ。今なら一も二もなく飛びつくだろうにな。後宮に送り込む駒を異常なほどほしがっておいでだ」

「まことに。それでつい最近思い出したかのように宮家に出入りしては、路に叩きだされていたようなのです。姫君の御年は十八で匂い立つようなお美しさとか……」

「すげなく断っておいて手のひらを返されたらそうなるだろう。まあ構わぬ。路とやらは私のような男を待っていた様子だったのだろう?」

「さあ、ま、義行様よりはましではないかと」

 日頃の素行を知っているだけに義綱の口調は冷ややかで、惇長は苦笑した。

 目当ての邸は、もうすぐそこだった。




(かわいい姫や)

 そう言って可愛がってくれた珠子たまこの父、冬の宮は、彼女が物心がつきかけた頃にこの世を去った。従って珠子が覚えているのはその優しい声だけだ。母は珠子を産んだ後直ぐに亡くなったという。幼くして一人ぼっちになった珠子に家を切り盛りする度量があるはずもなく、家財や荘園などはあっという間にこすからい家人達に奪われてしまった。

 貪欲な家人達はどこまでも畜生な人間だった。邸から金目の物をすべて奪うと、最後には主家の姫である愛らしい珠子自身を人買いに売ろうとした。

 珠子にその時のことは記憶に無い。恐らく貴族の屋敷に似つかわしくない野卑な輩が乗り込み自分を品定めしていたに違いないのだが、全く思い出そうとしても思い出せない。あるいはあまりに恐ろしい出来事に記憶ごと封印してしまったのかもしれない。

 何も出来ずにいたであろう幼い姫を守りぬいてくれたのが路という侍女だった。老齢の彼女は冬の宮が子供の頃から仕えていたが、子供の赴任先に伴っていたため冬の宮の逝去を知らなかった。都から来る便りで宮家の危機を知って単身都へ戻り、珠子を救ってくれたのだった。

 ずっと自分が宮家に仕えていたら珠子をこんな目には遭わせなかったのにと、路はその時を思い出すたびに悔しそうに語った。当初路は、路の妹が権門に仕えているのでその伝手を辿って珠子を預けようとしてくれたらしい。しかし、落ちぶれた貴族の姫君はごろごろいる時代で珠子のような姫は珍しいものではなく、すげなく断られてしまった。

 広大な邸にひとりぼっちで暮らす幼い珠子は、父宮を求めて度々泣いた。せっかく人買いから護ったのにこのままではまた目をつけられてしまうと、路が不安に思うほど珠子は美しい容貌をしていた。普通なら親に愛されて笑顔でいる年頃なのにまた捨てられると思っているのか、珠子はなかなか心を開かなかった。大人達に売られようとしていたのだからそうなって当たり前だ。

 路は、冬の宮の母に乳姉妹として優しくしてもらい、家族の面倒を見てもらった恩義があった。今こそそれを返す時かもしれないと思い、子供の受領にもそう伝えて援助を乞い、宮家に残る決心をした。

 とはいっても、路は下級貴族の身分で学者の居る家でも無かったため、貴族の姫君が知るような学問や歌や琴、香の調合は教えられなかった。彼女が教えたのは裁縫や菜の育て方、煮炊きや漬物などの方法でとても姫君のする事ではなかった。それでも珠子は自分のもとに残ってくれた路に母のようになついて、水が砂に吸い込まれていくようにそれらを習得していき、中でも裁縫は裁縫上手の路が唸るほどの腕前になり、それだけで慎ましやかに生きるには十分な糧が得られるようになった。姫君としての教育は受けられなかったが、路が教えた生きる術を知らなければ、珠子は他の不幸な姫君たちのように何も出来ずに死んでいく未来になっただろう。

 路に愛されて珠子はすくすくと育ち、身なりはみずほらしいが、漆黒の髪を重たげに背中に流す美しい姫君に成長し、姫君の教養は無くても珠子に流れる宮家の血筋がそうさせたのか、とても素直で純粋でそれでいて高貴な印象を路に与えるようになった。

(姫様は珠のようにお美しいのですから、良い殿方を迎えられませんと)

 路は珠子の見事な黒髪を梳くたびに口癖のように言い、そのくせ言い寄ってくる男を片っ端から追い払っていた。どうやら宮家に釣り合った殿方でないと路は許せないようだった。血筋は良くてもこんな家の姫を誰が拾うのと珠子が言うたびに、路は必ず居るのだと何やら確信を持ったように珠子に返して困らせた。

(いつまでもそばに居ておくれね)

(もちろんでございます)

 そう言ってくれた路も年月には逆らえなかった。珠子の元へ戻ってきた時すでに老齢だったが、珠子が裳着の式を迎えないまま十八の齢を重ねた今年の正月から床に伏せるようになり、桜が咲いた数日前に風邪をこじらせて呆気無く亡くなった。この十何年の間に路の子供の受領を始め血縁の者は皆亡くなっており、看取ったのは他人の珠子一人だった。


「……はあ」

 珠子は朽ち果てて今にも折れそうな廂で一人、色褪せたボロボロの袿一枚を胸の前で掻き合わせてため息をついた。春先の冷たい風がことさら冷たく感じる。

 目の前にはかつては水が豊かに湛えられていた池の跡があり、腐敗してボキリと折れた橋がある。その向こう側にある松の木には得体の知れないつる草が絡み立ち枯れしていて、その黒茶けた姿が何とも言えない不気味さをかもし出していた。うっそうと繁った草木の向こう側にはぼろぼろに崩れた塀がある。広大な敷地を手入れする人手も財力もない一人ぼっちの宮家の姫君……それが今の珠子だった。

「路……」

 後ろを振り返っても路はおらず、代わりに仕立てて欲しいと頼まれた布が山のように積まれていた。縫い物をして米や魚やいろいろな物と交換する。それが今の珠子の生き方でこれからもそうでなくてはならないのだ。

 珠子は洗いざらしの袿の袖で最後の涙を拭った。路が居ない寂しさでまた泣いてしまいそうだったが、いい加減に立ち直らなくては路はうかばれないだろう。

 路の遺体は庶民達と同じように川へ流したが、こんな有り様の珠子を心配して魂だけが近くに居るのかもしれない。路は絶対に極楽に行ってもらわなければ困る。自分も死んだらそこへ行くのだから。そしてまた二人で楽しく過ごすのだ。

 路が教えてくれたのは生きるすべだけではなかった。この頼りない、浮き沈みの激しいこの世の中を生き抜いてこそ、人は御仏に導かれて極楽へ行けるのだと常々諭してくれた。幸せばかりを望み、悲しみや不平不満をぶつけるだけではいけない。悲しみや不幸の中にこそ御仏の慈愛がたゆっているのだと。目の前にある事柄にとらわれて盲目になるのは地獄への近道になるから気をつけるようにとも。

 思えば路も子供に先立たれたりして、珠子と似たような境遇だった。それに対して彼女がいつまでも嘆いたのを見たことはない。

 珠子は微笑を浮かべた。

「……路、私は大丈夫だから早く先に逝った人達の所へ行ってね。そして私の父様母様によろしくと言ってね。私が何十年先に行った時に思い切り路を褒めてあげるから。……ね」


 最後の涙を拭った珠子は屋内に入り、頼まれていた縫い物の布を広げた。見事なその刺繍の文様は路を弔う前のままで止まっていた。路が完成を楽しみにしていたものだと思うと疎かにしてはならない気持ちが沸き上がってきた。

 道具箱を開けて座り、布を手にとって、一刺し一刺し丁寧に刺繍していく。

(このように見事な衣を羽織る姫様って素敵な方なのかしら。きっと美しいのでしょう。私のように落ちぶれてなくて、沢山の女房や家族に大切にされて、掌中の珠のように柔らかな……)

 ふと牛車の車輪が草を踏む音がしたような気がして、珠子は緊張気味に庭へ目をやった。それは気のせいではなく本当に誰かは知らないが勝手に入って来るのが見えた。

 妖(あやかし、物の怪ともいう。妖怪や霊の類)を見ようとして時々こういう興味本位に屋敷に入ってくるふざけた輩がいる。路が死んだ今は一人で追い払わなければならない。珠子は寝殿の入り口に立てかけてある鋤を慌てて手にした。

「珠子姫はおいでか」

 崩れた築地の向こう側から、涼し気な声と共に、卯の花の色の狩衣を来た貴族の男がもう一人若い男を連れてこちらへ歩いてきた。いつも来るような輩ではない。もしかして検非違使(平安時代の警察のようなもの)が自分を捕まえに来たのだろうかと珠子は震え上がった。何もしていないが、何か罪を知らないうちに犯したのかもしれない。見たこともない素晴らしい公達ぶりの男に珠子は完全に怖気つき、鋤を放り出してボロボロの几帳の影に隠れた。

 この妖屋敷に訪れるまともな男といえば、路の知り合いの爺や、縫い物を頼みに来るどこかのお屋敷の女房の従者しかなく、壮齢の公達が訪れたのは初めてだ。実は路が宮家の姫君である珠子に手を出そうとする素行が良からぬ公達を、門前でことごとく追い払ってくれていたからなのだが、そんな事実を珠子は知らない。

「そちらか。隠れていないで……とは無理か」

 ぎしりと廂を踏む音がする。勝手に屋敷に上がりこんできたのだ。

「……古びて荒れ果ててはいるが、すっきりとした佇まいですね。路は最後まで秀でた女だったようだ」

 路の名前が見知らぬ男の口から出て、珠子はボロボロの几帳の影でさらに緊張した。路は殿方の名など死ぬまで口にしなかった。そうこうしているうちにさやさやと衣擦れの音が近づき、とうとう男が隠れている几帳を押しやってしまった。男の袖が伸びてきて、震えている珠子の身体を抱き寄せた。恐ろしいというのに高雅な香の匂いが漂うのが場違いに思われた。

「な、何をするの!」

 珠子は恐怖にかられながらも怒った。しかし、返って来たのは楽しそうな含み笑いだった。

「路が言った通りだ。優しい声をしている」

「離して!」

 男の声は優しいのに態度は荒々しく、嫌がる珠子の長い黒髪をかきやった。無礼極まるがか弱い姫君には逆らいようもない。

「何を……」

 今度は向かい合うように両肩を掴まれた。眉目秀麗な凛々しい男が珠子を見下ろしていて、その澄んだ目に恐怖以外の何かが珠子の胸のうちに生まれ、じわじわと甘く蝕んでいく。

「お迎えに参りました。姫」

 迎えという言葉の意味がわからない珠子は、びくともしない男の胸を両手で強く押して引き離そうとした。男は珠子の抵抗を気にしたふうもなく微笑んでいる。

「貴方を私は知りません。どこへ連れて行くと言うのですか」

「この屋敷よりよほど住みよいところです。きちんとした貴族らしい生活が約束されます」

 よもや遊び女にされるのかと珠子は背筋が凍り付いた。男がどれだけ丁寧にこれからの生活の素晴らしさを説明しても、珠子の頭に浮かぶのは路から聞いた没落貴族の姫の哀れな生き様だ。どこかの権門の家の女房になるのはまだましな方で、大抵は遊び女になるか身分の低い金持ちの女にされるかだった。それすらない姫君は、骨と皮ばかりになり荒廃した邸の中で人知れず死んでいく……。

 冗談ではない、自分は路から教えられた生きる才覚があるのだから。縫い物だけで十分生きていけると珠子は思った。姫君の様な生活は無理でも庶民のように生きていけるのだ。

「こんなおぞましい屋敷は捨てておしまいなさい。貴女にはもっと貴族らしい生活がふさわしい」

 珠子の拒否を読み取った男が諭すように優しく言う。しかしもう珠子も負けてはいない。

「いずれ出るわよ。でも貴族のような生活なんていらないわ。六条辺りに行くつもりだったんだから」

「宮家の姫が下賎な賤の女になると?」

「構うものですか! むしろ宮家の誇りなど邪魔よ」

「私に顔を見られるのも恥ずかしがっている、世間知らずの貴女がですか?」

 くすくすと馬鹿にされるように笑われて珠子は怒りで顔を赤くした。さっきまでの怯えはどこへやら、勝手にやってきてなんと無礼な男だろうかと腹の中が煮えくり返ったが、当たっているだけに何も言い返せず、泣かないように睨みつけるのが精一杯だった。

「花のように清らかな姫、そんな顔をなさってはいけない」

 男は柔らかく微笑み再び珠子を抱きしめた。どれだけ抗ってもやはり男の力には敵わない。額に汗がじっとりと滲みなんだか珠子は気持ちが悪くなってきた。胸の鼓動がさっきからやたらと高くて身体が震え、男を押し返す力もだんだん弱まっていく。

 はらり……と桜の花びらが降ってきた。御簾内に桜びらが入るわけがなく、庭の桜が男の袖に降りかかったものが落ちたのだ。それに気を取られた珠子は男の挙動から注意を離してしまい 気付いたら男の顔が間近にあった。男の顔は真剣で眼光が鋭く、珠子は目が離せなくなった。更に男の顔が近づいた。

「桜の精は男、その季節に姫は私に出会われてしまわれた。きっと前世からの約束だったのです」

 その言葉で呪縛から解き放たれ、背けようとした顎は男の手によって正面に向けられた。

「見せてあげましょう。醒めない夢を」

 男がそう言うのと同時に風が吹き荒れ、破れた御簾の隙間から桜の花びらが舞い込んだ……。

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