第3話

 春の嵐が吹き荒れた。

 容赦の無い風は今が満開とばかりに咲き誇っていた桜を吹き散らし、花を愛でていた人々はしきりに残念がった。おまけに夜に入った頃、一条の片隅の邸で火の手が上がり、風に煽られた炎は瞬く間に燃え広がって黒煙を巻き上げ、検非違使が出動する程の大火になった。検非違使や周辺の住民を合わせた数十人が延焼を避けるため消火にあたり、奇跡的に炎を火事の起こった邸の敷地内におさめた。

 検非違使達は焼死者が居ないか確認をしたが、住んでいるはずの人間は確認されなかった────。




 気を失っている間に、邸から連れだされたのだと知った珠子の戸惑いは小さなものではなかった。路と二人で邸を切り盛りしていた珠子でも、やはり姫君と傅かれていたので、屋敷の外へ出たことはそうそうなかったからである。

 色鮮やかな文様が刺繍されている几帳(布のしきりのようなもの)がまず目に入った。手先に触れる着物の質感は間違いなく絹だ。梅の香のような芳しい香りが被せてある袿に焚き染められており、そういうものと無縁の生活をおくっていた珠子を言いようのない孤独で包み込んだ。

(気を失ってしまうなんて、どうかしてるわ)

 恐らくここはあの公達の邸なのだと思いながら、珠子はゆっくりと起き上がった。倒れたのは緊張が極まっただけではなく、路が亡くなってからの心労による疲れで発熱したせいもあるようだ。頭が重だるくぼんやりとしている。

「お目覚めですか」

 几帳の陰から美しい女房が顔を出した。言葉尻に気位が高そうな感じを受けて珠子はしり込みし、かけられていた袿を胸元にかき寄せた。

「……こちらはどちらですか?」

「何も知らないでいらしたのですね。こちらは左近衞大将惇長様の二条のお屋敷です。貴女のお屋敷からそう離れた場所ではありません」

「左近……? 二条……」

 よくわからないでいる珠子に女房は面倒くさそうに付け加えた。

「左大臣源実和様の五男であられる方です。大将と中納言の職を兼任されておいでです」

「兼任……」

「とにかく惇長様が貴女をここにお連れになったのです」

 珠子にはわからない。どうしてそんな雲の上の身分の貴族が、あの荒れ果てた邸に住んでいる自分をさらってきたのか。宮家の姫である珠子も雲の上の身分に入るが、庶民のような生活をしていたせいで自分が貴族だという意識が欠片もない。そんな姫を自分の住んでいる邸へ連れてくるとは尋常ではない。やはり何かに利用されるのではないだろうかという疑念が心に湧き上がった。

「……どうして私を?」

「知りませんよ。全く、いくら路の妹のお願いだからって律儀に迎えに行かれずとも良いものを」

「路の妹?」

「鈴と言って、惇長様の乳母の母ですよ。もう亡くなりましたけどね」

「…………」

 大きな邸らしく、女房や家人などの気配がそこかしこからする。珠子は落ち着かない気持ちを抱えた。

 褥で人と話をするのは気が引けるので、珠子は重だるい身体を引きずりながら褥から出た。すると申し合わせたように別の女房が膳を運んできて珠子の前にしつらえ、お礼を言う間もなく女房はさっさと部屋を出て行った。

 膳には強飯(米を蒸したもの)を始め、鰯や漬物、さまざまな物が入ったあつものが並べられてあった。よくて川魚が並ぶくらいで、米どころかいつも雑穀のおかゆだった珠子の食生活とは違いすぎる。

 美味しそうな匂いに珠子は空腹を思い出した。路が死んでしまって悲しくてぼんやりと数日を過ごし、食べる事をすっかり忘れていた。女房が何も言わないので食べていいのかどうかわからない。女房はつんとしている。珠子はおそるおそる聞いてみた。

「食べてもいいですか?」

「どうぞ」

 いずれもとてもおいしく、空腹も手伝って箸が進んだ。そんな珠子を見て女房がいやに大きなため息をついた。

「……品のない。本当に宮家の姫かしら?」

 いちいち癇に障る言い方をする女房だとさっきから気になっていた珠子は、持っていた椀を丁寧に折敷に置いてほとんど喧嘩腰に睨んだ。路に食事の作法については厳しくしつけられている。品がないなどと言われるのは、路を馬鹿にされているようで我慢がならなかった。

 女房は、またため息をついた。

「全部食べるなど、下賤のもののする事なのです」

「……下賤?」

「出されたものを残すのが貴族の礼儀なのです」

「…………」

 女房の言い草には身分蔑視の匂いがぷんぷんする。珠子はこういう人間が心の底から嫌いだった。珠子の変化に気づかないまま女房は続ける。

「いいですか、このお屋敷に来たからには私の言うようになさってください。おわかりですか?」

「……ない」

 珠子は箸を置いて勢いよく立ち上がった。本調子でないため一瞬立ちくらみが起きたが、何とか堪えて踏みとどまった。深窓の姫君は立ち歩く事すら稀なのにと言わんばかりの女房の視線を珠子は無視した。それは珠子には通用しない言葉だ。立ち歩かねば死んでしまう。

「冗談じゃないわ。私、帰ります!」

 するとその女房も立ち上がり珠子の行く先に立ちはだかった。大柄な女房を前に小柄な珠子はそれだけで動けなくなり、勢い余ってたたらを踏んだ。

「どちらに帰ると言うのです? あの物の怪屋敷なら、昨晩火事にあって跡形もないと言うのに」

「うそ」

「うそではありません。全くどこまで貴女は悪運が強いのやら……。火はまたたくまに燃え広がって、今は燃えかすに煙があがっているだけだそうです」

 屋敷が火事で無くなったうえ、一晩眠っていたという事実に珠子は愕然とした。


 信じたくないし信じられない。

 この意地悪な女がうそをついているのだ。

「どちらにしても、私はこんなところは嫌。そこをどいて」

「私だって出て行って欲しいです。でも惇長様のご命令ですからね」

「指図される謂れはないわ!」

 珠子は土起こしで鍛えた腕力で思い切り女房を突き飛ばした。珠子のか弱い容貌に完全に油断していた女房は後ろにひっくり返り、女房がすぐに起きられないでいる間に簀子(すのこ、濡れ縁、廊下)へ滑り出た。手入れが行き届いている簀子は磨かれてすべすべしており、腐って木目が毛羽立っていた珠子の邸とは大違いだ。

 外は曇り空なのに妙に明るい。

 出口らしき場所を求めて珠子はひたすら顔を隠して歩いた。

 ところがさすが権門の屋敷と言うべきか、歩けど歩けど出口らしい所に辿りつけない。途中で何人もの女房にぶつかりそうになり、何度も空いている局でやり過ごした。それがまたいくつもあるものだから、一体どれだけの人数がここに住んでいるのだろうと、気が遠くなりかけるほどだった。

 何度目かの女房達との遭遇で誰かの局に忍び込んでやり過ごしていると、一人が今珠子が一番知りたいことを口にしながら歩いてきた。

「ねえ聞いた? 一条のはずれにあるなんとかの宮様の物の怪屋敷、火事で燃えたんですってね?」

「聞いた聞いた。姫君と端女だけでお暮らしだったとか?」

「その姫君と端女、見つからなかったんだって……。可哀想よねちょっと」

 やはり事実だったのだ。

 珠子は足元が冷えていく心地がし、うなだれてその場で伏してしまった。

 衝撃が強すぎて、女房たちが通りすぎて居なくなっても珠子はしばらくそこから動けないままでいた。

 荒れ果ててはいたが、それなりに思い出がたくさん詰まった屋敷だった。一般の寝殿造りの邸をすべてを手入れするには女二人ではとてもむずかしく、それでもできるかぎりは見苦しくないようにしていた。小さな畑や、植えた草花。そういえば仕立て物はどうなっただろうか。やはり燃えてしまっただろうか……。

 物思いに沈んでいた珠子は、背後から忍び寄る影に気づくのが遅れた。

「ひ……」

 気づいた時には男に抱きしめられていて、それがあの男……惇長とは違うのでさらに緊張した。香の香りが全く違うのだ。惇長は重厚な香りで、背後の男のものは妙に甘くそれでいてどこか浮世離れしている感じだった。

「客用の局とは言え、いきなり入っていらっしゃるのはどうかと思いますね」

 香と同じように飄々とした声だ。さらりと黒髪をすくわれ首筋が涼しくなったかと思うと、露になったそこへ男の唇が吸い付いてきて珠子は仰天した。

(やっぱり私は遊び女など無理! こんな事……、これ以上されるのは絶対に嫌)

 すぐに出て行かなくては。懸命にもがいていると相手が耳元で囁いた。

「貴女ですね、惇長が連れて帰ってきた珠子姫は」

「離して」

「まだ惇長のものではあるまいに」

 男は歌うようにつぶやき、強引に珠子を几帳の中に引きずり込んだ。そこは褥がしつらえてあった。男はさっきまでそこで臥せっていたのだろう。

 これからされる事を考えて珠子ががたがた身体を震わせると、背後の男はくすくす笑った。あまりに優しい笑い方だったので珠子は意を決して恐る恐る振り向いた。

「やっとこちらをご覧いただけた」

 惇長と同年くらいの壮年の男が、水干を着崩してにこやかに笑っていた。切れ長の目に色素が薄い茶色の瞳。惇長とはまた違う凛々しさだが、どこまでも細く、それでいて折れない柳の枝を彷彿とさせた。

「私の名前は安倍彰親あべのあきちか。陰陽寮に勤め、今は天文を主にしております」

 彰親のどこか余人と違う不思議な目に吸い込まれそうだ。かすかに青みがかった美しい瞳は、どこか記憶に懐かしいものが蘇ってくるような色彩を放っていた。


 しかしこの彰親に会ったのは今が初めてだ。

 誰だったのかどうしても思い出せないと思いながら、さっきまでの恐怖を忘れ、珠子は彰親の眼の奥を、その誰かを探すように覗きこんだ。

「そんなにじっと眺めるなんて大胆な姫君だ。ふふ。それにしても珠子姫は私が想像していた通りお美しい」

「え……と?」

 やっぱり誰にも似ていないし、こんな軽そうな男は知り合いにはいない。

 腰にはがっちりと彰親の腕が回りこみ、珠子は立ち上がる事すらできない。先ほどまでの恐怖は彰親の持っている明るさが振り払ってくれたが、このままではやはり良くない。

「お離しくださいますか?」

「どうして? しのんでいらしたのはそちらなのに」

「まさか殿方の局とは思っていませんでした。だから」

「へえ」

 小さく笑った彰親が珠子の黒髪を一房その手に取り口付けた。何もかもが珠子の周りにいた人々と違う動きで、妖しい雰囲気に飲み込まれまいと珠子は髪を引っ張った。だが彰親は離さない。

「気が強い姫だ。ここまですれば普通は折れるだろうに」

「生憎、私はお姫様暮らし稚児の間に終わったの。今では名ばかりの宮家の姫です。名を覚えてもらっていたらの話だけど」

「成る程、おとしがいがあるというものだ」

「髪を離してください」

「私と寝ようよ」

「お断りします。私は財のある男にしか興味ないの」

 おおよそ姫君がいう言葉ではなく、彰親は大笑いした。

「色恋より世俗にまみれてる姫か。面白い」

「だから離して。ちなみに身分は低いほうが好きよ。低ければ低いほうが良いわ」

「何故?」

「身分の高い人間は嫌いなの。人を人と思わない態度が大嫌い。命は皆同じ重さよ。雲の上の方はそれがわからない人が多いのよ」

 珠子の言葉に、彰親は切れ長の目を見開き、髪を離した。

「貴女は」

 先ほどとはうってかわった真剣な瞳で見つめられて珠子は怯えた。彰親の右の手がそっと頬に触れ、妙に震えているのが気にかかった。今、自分が口にした言葉があまりに意外なものだったようだ。

 まるでずっと探し続けて見つからなかった宝石が、ようやく目の前に現れたかのような彰親に奇異なものを感じずにはいられない。

「妖も……、鼠も、皆同じだと思うのですか?」

「当たり前でしょ!」

 当然突き放すような言い方になった。

 命は命だ。良い生命悪い命と、命に区別などあるはずもない。しかしそう思っているのは珠子だけなのか、彰親は信じられないという心をそのまま切れ長の目に現して珠子に再度聞いてくる。

「本当に……?」

「本当よ。それより私は遊び女になるつもりもないし、ここに住む気もな……」

 唐突に珠子は顎をつかまれ唇を奪われた。それは先程の彰親の動きからは想像もつかない荒々しいもので、珠子にとって初めての接吻なのに情緒も何もあったものではなかった。

 世に流れている物語では、殿方から歌や花やその他もろもろの文の応酬があって、それからこういう秘め事に発展していくものが多いのに、それらをすっ飛ばされての行為は一体なんなのだろう。

「ん……」

 珠子は長い口付けに息の仕方も忘れて朦朧とし始め、全てはじめてづくしでどうしたらいいのかわからずされるがままになり、それに勢いづいた彰親に畳の上へ優しく押し倒された。よくないと思っていても、雰囲気に完全に飲み込まれて太刀打ち出来ない珠子の扱いは、こういう色事に慣れている彰親にとっては簡単なものらしい。

 何か空恐ろしい情熱を秘めた男の目に、先程までの余裕に満ちた雰囲気はない。それでいて女をかき口説く動作は淀みないのだった。

「賤の間に入り混じってお育ちだというのに、ひどく素直で可愛い方だ。大丈夫。悪いふうにはしませんから、ね?」

 嫌だと思っても、そうかき口説いて再び口付けようとした彰親を避けられない。顔を背けるのが珠子の精一杯の抵抗だった。

「怖がらないで、姫」

 無茶を言う男だ。いきなり押し倒されて怖くない女が居るだろうか。

 もう駄目だと珠子が思った時、

「そこまでだ」

と、男の声がした。

 聞き覚えがあるその声は、あの惇長だ。

 珠子は何故か助かったと思った……。




 珠子に圧し掛かっていた彰親は、忌々しそうに舌打ちをして起き上がった。珠子は緊張の緒が切れてまた気を失っており、入ってきた惇長はその珠子を優しく抱き起こし、重そうな袿ごと横抱きにした。

「女房から逃亡したと聞いて探していたのだ。やはりここか」

「………………」

 惇長は気を失い何も言わない珠子を見て、ついで彰親を睨んだ。

「珠子と知っていてやったな。どういうつもりだ」

「惇長殿の新しい恋人でしたか。お美しい姫君だったものですから」

 彰親は悪びれずニッコリと微笑んだ。先ほどまでの男その物の情熱が綺麗に消え失せた花も恥じらうような美しい笑みで、その妙な色気が惇長にはうっとうしい。

「女と見れば見境がない。そのうち妖に食われようぞ」

「乱暴ですね」

 厳しい惇長の視線にも彰親は動じず、彰親は珠子に触れようとして惇長にその手を強く引っぱたかれた。

「身分をわきまえたほうがいい。仮にも宮家の姫だ」

「珠子姫は身分の低い男がいいそうですよ? そして財がたっぷりとある男が好きだそうで。つまり私です」

「なんだそれは?」

「貴方のように身分が高い男は嫌いだと言っていました。姫は私の妻にぴったりだ、理想そのもの」

「まさか」

 驚いている惇長に本当ですと付け加え、彰親は文机の上に置いてあった扇をぱらりと広げた。

「血筋なのでしょうか。姫本来のものなのでしょうか。気高い魂を姫はお持ちだ」

 口元を隠しただけで彰親の切れ長の目が微妙な色彩を帯びた。それはさっき珠子が感じ取ったこの世ならぬ陰影で、この目をした彰親を目の前にするとどんな人間でも、人ならざる者の存在は確かにあるのだと思わさせられるのだった。

「……惇長殿、貴方は本気でその姫を犠牲にするつもりですか?」

「もとより、お前は私の言うとおりにしてくれたらいい。姫に手を出すのは構わないがばれないようにしろ」

「…………」

 惇長はそう言い捨て、気を失ったままの珠子を抱いて出て行った。

 そよと涼しい風が入り込み、妙な静けさに空気が冷えた。昨夜降った大雨は朝にやんだばかりで、まだ太陽は顔を出しておらず、屋外の簀子と違って局の中は薄暗い。

 惇長に乞われて来たものの、なんとも言えない切なさが彰親の胸を支配していた。

「さて、どうしたものやら」

 彰親は扇をぱちんと閉じ、それでぽんぽんと片手を叩いた。

「雲の上の者ほど命をわかっておらぬ、か。あの姫が惇長殿の心の鬼をなんとかしてくれるといいのだが。妖相手なら私にも手立てはある、しかし、人の心は……」

 希代の陰陽師、安倍晴明の孫の彰親も、祖父同様に術で人の心は動かせない。

 人は母から生まれ、母もまた人から生まれた。命の営みを動かしているのは陰と陽で、その陰と陽ですら広大な宇宙の規律に従って動いているのだ。純粋なその力は誰にも惜しみなく注がれているのに、この世界ではそれに大小があるような錯覚を受けてしまう。貧富の差、美醜の差、身分の差などがその代表例だ。目に見えるものが全てだと思い込む愚かさが、思い通りにならない恋心や境遇への不満へと繋がっていく。

「命は皆同じ重さだという姫を、私達はどうしようというのだろう」

 彰親は扇を文机に戻した。

 惇長に抱かれて局へ連れ戻された珠子は、まだ自分が置かれている立場をしらない。

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