第1章
第1話
平安の御世。政の中心は数百年前から変わらず、玄武、白虎、青龍、朱雀による四神の守護の恩恵を受ける平安京という都の中にあり、帝を中心とした一部の貴族達の摂関政治が行われていた。
唐の都の長安を模倣して造られたと言われる平安京の規模は、南北を一条から九条までに区切り1751丈(約5.2km) 、東西それぞれ四つの坊に区切り 1500丈(約4.5km)の大きさで、それらは都の中央を走る朱雀大路によって右京と左京に分けられていた。一つの坊を構成する単位は町で四十丈四方を一町とし、十六町が合わさって一坊としていたという。
都の北部に位置する十四の門に囲まれた大内裏があり、朝学院、豊楽院、左近衛府、右近衛府、太政官符、神祇官府、八省庁、令外官府などの政府機関が置かれ、大内裏に囲まれるように内裏があった。九つの門に囲まれている内裏には行事が行われる紫宸殿、帝が住まう清涼殿、仁寿殿、宜陽殿、春興殿、校書殿、安福殿、左近と右近の陣と陣座がある。そして清涼殿から北側の後宮と呼ばれる場所に女御更衣を始めとする帝の寵妃たちの住まいの弘徽殿、貞観殿、宣耀殿、承香殿、常寧殿、登華殿、麗景殿、宣耀)殿の七殿および、昭陽舎、淑景舎、飛香舎、凝華舎、襲芳舎などがあった。
そして今権力の実権を握っているのは左大臣、
実和には三人の男子がいる。長男の大納言
当然ながら、この左大臣一家への貴族達の嫉妬は凄まじいものだった。表では笑顔を浮かべて友好的な態度で接していても、一家の目が届かない場所では口汚く罵ったり、小さな失敗をあら捜ししては面白おかしく酒の肴にすると言ったような軽いものから、政を妨害するように、なすりつける悪事を拵えて足を引っ張るという重いものまである。少しでも隙を見せるとたちまち襲いかかってくる貴族達は、まさしく地獄の餓鬼や妖の類だ。
そしてその餓鬼や妖に一番悩まされているのが、惇長だった。それは惇長の生まれによるものと有能さ故だった。他の四人が全て先々帝の女七の宮である正妻の子であるのに対して、惇長だけが左大臣つきの女房という身分の低い人間の子なのだ。高貴な血筋と身分が全ての貴族社会で中納言と大将を兼任する有能な彼は、そんな事柄が人々の興味を誘い、いい意味でも悪い意味でも注目の的だった。
さらに惇長は微妙な立場にいた。出身こそは時の権力者である実和の側の人間なのだが、死んだ正妻が先の政変で破れた右大臣の姫、
夜。
惇長は、後宮の殿舎のひとつに忍び込み、待ち合わせの妻戸の前に腰をおろした。夜の闇に紛れて恋人に逢うような甘い雰囲気はない。
御格子越しに仄かな灯りが漏れてくるほかに灯りはなく、廂はおぼろげな月をわずかに通すだけでかなり薄暗かった。起きている女房たちの気配がわずかに伝わってくるが、惇長に気づいている様子はない。
平安時代の夜の闇は深い。おぼろげな月明かりや松明や紙燭、燈台がなければ一歩踏み出す事すら躊躇う暗闇であり、闇夜になると目の前に誰かが立っていたとしても気づかないほどだ。
夜は魑魅魍魎や盗人、強盗の支配域だった。当然ながら人はそれらを恐れ、占いや暦を得意とする陰陽師、怨霊調伏をする僧侶、侍などを雇って己を守ろうとした。もっとも彼らを雇えるのは一部の権力を握る公卿のみで、それ以下の貴族や庶民たちは本物かどうかもわからない怪しげな陰陽師や僧侶たちに縋っていたようだ。
一方で夜は慕われてもいた。貴族達は己の権力を誇示するために夜通し華やかな管弦が催したり風流な歌あそびや舞を披露しあった。その中で政治的なやりとりがされていたのは間違いないだろう。華やかな色彩の向こう側ですべてが覆るような密談が交わされていたりするのは、現代も今も変わらない権力者の姿だ。
また、夜は秘めやかな場であり、事に恋人同士たちには必要なものだった。忍ぶ恋ほど尊ばれた平安時代ならではの感覚で、秘密の恋を隠すには夜は最適な時間だった。
ぱたぱた。さらさら。
惇長に向かって衣擦れの音が近づいて来た。いつもはその音のみなのだが、今夜は軽い足音が纏わりついていた。その足音が誰のものかあっさりと察しをつけた惇長の顔に微笑が浮かんだ。
かたりと音がして妻戸がわずかに開けられた。惇長が振り向くと、案の定かわいい子供の笑顔が仄かな灯りに照らされていた。
「たいしょ、きてくれたの?」
「夜が深うございますのに、まだおねむではございませんでしたか?」
初老の女房と共に現れたのは、まだ御歳二歳の
「きょうは、なに、もってきてくれたの?」
「すみません、今日は何も持っておりません」
「じゃあこのじゅじゅ頂戴」
束帯の長い袖の中に隠して持っている数珠を引きずり出され、惇長は苦笑した。
「親王様いけません、それは大将のだいじ、でございますよ」
初老の女房、
「安芸、宮様はおすこやかでいらっしゃいますか?」
「はい、先月風邪を召された以外は何も……」
「風邪を召されていたのですか。知らなかった」
「大将のお心を煩わせてはとの事で、宮様に止められていました」
幼い親王はじっとしているのが苦痛になってきたのか、探しに来た別の女房に抱きつき奥へ戻っていった。それを見送ってから惇長は安芸の弁に真剣な顔を向ける。
「私に遠慮はご無用です。何かお困りの事があればなんなりと申し付けてください」
「そのお言葉だけでも我らの支えになっておりますゆえ、ご心配あそばしますな」
宮様──
時道の弟で幾子の叔父にあたる
幾子の母のような存在の安芸の弁は、女主人を思っていつも毅然としているが内心はかなり不安だろうと惇長は察している。女房達への禄もままならないと聞いているので、惇長はたびたび支援していた。しかし大っぴらにやると、今度は惇長が危うい立場に立たされる為できるのはほんのわずかであり、惇長は歯がゆい思いをしていた。
「安芸、主上のご寵愛はますます深いと評判だ。宮様は聡明な方だとも……」
「わかっております。それゆえこちらの事は」
「……また来る」
惇長は最後まで聞かずにさらりと立ち上がり、何かを言おうとする安芸の弁を振り向きもせずに殿舎を出た。
やわらかな春の風が頬を撫でるのに惇長の心は暗い。大将と中納言を兼任しているせいで多忙を極めているのもあるが、世の中の流れが自分の思うのと反対の方向へ流れていくのがやるせない。誰も彼も父の実和のご機嫌とりに必死な中、惇長だけはそれを良しとしない。または出来ない。家の衰運を感じ取り、姉の行く末を心配していた詔子が惇長をとらえて離さないのだ。
「殿」
左近衛府に戻り、帰り支度をしている惇長に、公私共に彼に付き従っている
「どうした?」
「
惇長は人が亡くなったというのに、にんまりと笑った。いよいよこの時が来た。
「そうか。では明日早速行くぞ。一条に手配するように言っておけ」
「あまり気が進みませんね」
「人助けだと思えばよい」
「殿が情け深いとは思っておりません。こと女人に関しては。ああ、お一方だけは別ですが。今日はこんなものが届いておりますよ」
明らかに恋文だとわかるそれが、手折られた桜の枝に結ばれて差し出される。覚えが多分にある惇長は黙って受け取り、文は見ずにその桜をしげしげと眺めた。八部咲きのそれは散りもせずに華やかに咲き誇っている。
「こんな場所に持ってこさせるなんて、そうとう浮かれてる女なのでしょうね。趣味が悪いのではないですか、殿?」
惇長は手にしている笏でこめかみを突き、聞いていないふりをする。随身が牛車の用意ができたと告げ、惇長は桜の枝を手に、ぶつぶつ言う由綱を置いてさっさと外に出る。こんなに気分が高揚したのは久しぶりだ。もうすぐ願い続けていた夢が現実になる。これが心躍らずにいられようか。牛車はすぐに彼の今現在住んでいる、本邸──京極二条邸へ向かう。
「浮かれている……か。確かにそうだ」
惇長は桜の花をちぎり、その花びらをはらはらと落とした。
一部の貴族の摂関政治による治世は爛熟の時期に入っており、腐敗の度の進みが早くなっていた。末法の世が近づき、静かに密やかに武士達の雄たけびが都へ向かって地方から生まれている。武士の世は確実に迫っているが、まだそれは何十年も先の話だった────。
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