贋作東京日記

さるサル

傘の鳴る電車

 雨は憂鬱だ。憂鬱だが、用があるから外に出た。もう暖かくなってもいい頃だが、雨のせいだろう、冷気が身にしみる。


 用というのは旧来の友人との食事である。会わなくなって久しかったから、喜んで遠出の約束をした。最寄り駅までは徒歩で10分ほどかかり、そのかん傘をさした多くの人達とすれ違った。傘をお互いさしていると、身長差もあって中々相手の顔が見えない。見えない上に傘が自分の身体より大きいから、こういうときは避けるのも一苦労である。大体は私が譲って車道にはみ出す羽目になる。


 何とか駅に着いた。屋根のあるところに入るとすぐ、雨脚が強くなってきた。まだ激しいとまでは言えないが、雨は煙のように辺りを取り巻き、その匂いは一層濃くなって私の下に届いてくる。友人との再会に水をさされたような気分だ、文字通り。


 少し濡れたズボンを不快に引きずりながら、スマホをかざして構内に入り、ホームへの階段を上がる。人が少ない地域だからだろう、あまり人は見かけない。ホームに着くと、向かいのホームに電車が来ていた。ほとんど人は乗っていないし、乗り込む人もいない。ただ空虚に明るいそれは、雨に包まれて次の駅へと消えていった。妙に目にその映像が焼き付く。


 こうも雨が強いと、電車の走る様すら不思議に映るものかなと思った。

 

「2番線は、各駅停車――」


 雨の中からぬっと電車が突き出てきて停車した。ぼうっとしながら乗り込んだところ、うっかりして普段は乗らない3号車に乗っていた。


 今まで知らなかったが、3号車は人気なようで、通勤の時間帯を避けてなお多くの人が乗っていた。ドアが閉まる。動き出して、立っている人が揺れた。私も揺れた。人にぶつかってしまった。慌てて外に視線を固定して、何とか誹りの眼差しは見ずに済んだ。


 体臭が香るほど人はひしめいているのに、いやに静かだ。学生や若者なんかも乗っているはずだが、みんなむっつりして一言も喋らない。東京というのはいつもこうである。人間が多く集まれば集まるほど、むっつりして外界への興味を失う。目の前の若者は、陽気なハウスミュージックがイヤホンから漏れ出ているのに、身じろぎ一つしない。指だけがスマホの液晶を滑っている。


 何駅か過ぎたあと、目的地まで半ばくらいの駅で、どどどと人が乗ってきた。押し合いへし合い奥へ奥へと追いやられ、変な挟まり方をして人の背中しか見えなくなった。みな雨を嫌ったのだろう。しかし電車ですし詰めになるのとどっちがいいのか、これでは分からないな、と傍観者のように思っていた。


 コツ……コツ……。


 何かを叩く音が左方でした。傘の先で床でも叩いたのだろう。やけにその音が響いた。静寂。もう走行音しか聞こえてこない。


 こうもすし詰めだとバランスも取りづらいだろうし、ましてや傘を持っているなら尚更だろう。自分の身体ですらないものを、上手にコントロールするのは中々難しい。手もふさがって本も読めなかったから、傘を床に打った人のことを考えていた。


 コツ……コツ……。


 何だかびっくりしてしまって、少し身体がこわばった。耳に力が入って血流の音が聞こえた。


 コツ、コツ。


 しまったな、と思った。わざと鳴らしているのだろう。どうにも音が気になって仕方がない。車両を変えようにもすし詰めで奥に追いやられているから難しい。


 目的地まではまだまだかかる。本当なら1号車に乗って座り、気になっている本の続きをゆっくり読んでいたはずだったのだが。


 コツ、コツ。


 身体は動かない。耳だけがぴくぴく動いて、傘の打音を意識に伝達し続ける。心理学か何かの実験を受けている気分だ。この実験では、被験者の身体を拘束し、ある音を鳴らし続けた際に被験者に起こる変化を観察するもので、仮説としては被験者の精神に神経過敏および種々の異常をきたし――。


 コツコツ。コツコツ。


 また左方から音がして妄想はき消えた。もうその音に意識が行ってしまって、考えも何もまとまらなくなってしまう。車両に響くその音。不規則に鳴らされる中高音。終わったかと思うと鳴り、いつまで鳴るのかと思えば終わる。


 流石に我慢ならなくなってきて、首を動かして辺りを見回した。音は鳴り続ける。あの音以外は静かな、動きのない車内である。前の座席のサラリーマンは日経新聞から目を離さない。マスクでメガネが曇って、その奥はうかがえない。さっきの若者も、スマホをじっと見つめたまま。もうハウスミュージックも聞こえなくなった。


 近くに立っている人たちもいることだから、見回すのは流石に憚られた。しかしこの音は聞こえているのだろう。それなのに動きがないとはすっかり東京暮らしが染み付いていると見える。


 コツコツコツコツ。何だか断続的に鳴り続けている気がしてきた。音量もますます大きくなって、まるで耳元で打ち付けられているかのよう。


 ゴツゴツゴツゴツゴツゴツ。ゴツゴツゴツゴツゴツゴツ――。止まらない。どんどんと苛立たしげに打ち鳴らされている。威力も頻度も跳ね上がっていく。


 これは豪雨だ、と思った。この車両の中に傘の豪雨が降っている。


 その響きで身体がぶるぶる震え、いきおい音の鳴らし主を見てやろうという気持ちがどんどん高まってきた。ここまでうるさければ周りも分かっているし、私のいらだちにも同情こそすれど、迷惑げにすることはないだろう。


 うるさい。うるさい。そう言って殴りかかり、相手を黙らしてやりたいが、そこまで怒りを見せるのは紳士的ではない。ただ見て、眼差しで刺し、それで駄目なら少しの小言で済ませるのがいい。

 私は段々と外に向けて固定された眼球に力を入れて、思い切り横にむけんと身構え始めた。


 ゴツ――そら、鳴った。今だ。


「――? 何ですか」


 隣の人が訝しげに私を見返していた。その人に阻まれて傘の主は見えなかった。


「あ、いえ、すみません、どういうわけもなく――」


「はあ」


 隣の人の顔はしかめられてぴくりとも動かない。能面のように私を見返してくる。私はすぐに目線を反らしてしまって、しどろもどろに返事をしてしまった。また目線を外に。もう首を回せないだろうことは明白だった。


「2番線は、各駅停車――」


 また途中の駅に到着した際のアナウンスが聞こえたところで、傘の音が止んでいることに気付いた。


 目的地に着いて、ホームへの扉が開いた。あれからすっかり音は止んで、静かな車両だった。


 あの音は何だったのだろうか。自分の傘で地面を打ってみる。コツコツ。随分と軽い音に聞こえる。あれは傘ではなかったのだろうか。では何が? 答えは出ないだろう。あのとき音の主を見られなかった私には、納得のいく答えを出すことなど到底出来ない。


 気を取り直して、ホームから改札へ向かい始める。友人との再会に暗い顔ではいけない。


 後ろでと音がして、すぐにゴツ、と音が聞こえた気がした。

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