第5話 手紙

 生ぬるい風が吹く。

 視界を、ほの暗い漆黒の靄が侵食してくる。


 瘴気。


 邪悪な気を辺り一面に発散させながら、その男はユリウスの前に立った。

 遠目には人の形をしてはいたが、やはりこうして見れば紛うことなき異形であった。

「ああ」

 男はユリウスの持つ剣の鈍い輝きに目を細め、嘆息した。

「憎い」

 低い声で呟く。

「憎い。憎い」

「何が憎い」

 ユリウスは静かに尋ねた。

 魔人と話すことに、意味などない。

 奴らは、人の言葉を解したふりをして、それらしいことを喋るが、その実、何も喋ってなどいない。

 それは単なる鳴き声であり、発する音の連なりが意味するものなど分かってはいない。

 それが、多くの騎士の認識だった。

 事実、リランを始めとするユリウスの同僚の騎士たちも、魔人とまみえれば問答無用で討ち果たすことを選んだ。

 だがユリウスは、魔人と剣を交える前に言葉を交わすことを好んだ。

 無論そうしたところで分かり合えたことなどないが、それでも言葉を交わすことで、殺された者たちの無念を感じることができた。

 無機質な邪悪を討つというだけではない、血の通った何かを感じられる気がした。

「憎い輝きだ」

 男は囁くように、息とともにその言葉を吐いた。

「ああ、かゆい」

 やはり会話にはならなかった。

「なぜ村人を殺した」

 ユリウスはなおも尋ねた。

「食うためか」

「失せろ」

 男は無感情に言った。

 男の腕から生えていた、ぶよぶよとした無数の触手のうちの一本が、矢のようにユリウスに飛んだ。

 だが、ユリウスの剣が一閃すると、触手はちぎれて吹き飛んだ。地面に転がったその先端は、牙のついた口をぱくぱくと開けて痙攣した。

 緑の体液を撒き散らしながら、触手が男のもとへと戻っていく。

「痛い」

 そう言って男はにやりと笑った。

「ああ、痛い」

「痛いという言葉は、そのような表情で使うものではない」

 ユリウスはそう言って一歩前に出た。

 地元の人間から“地虫”という名前を与えられたこの魔人は、両腕に無数の触手を生やしていた。その全てに、牙の生えた口がついていた。

 ああ、と男が呻いて身をよじると、触手が伸びた。次の瞬間、まるで男の意思を具現化したように、無数の触手がいっぺんにあらゆる方向からユリウスに襲い掛かった。

 ユリウスは身を低くして“地虫”に向かって駆けた。

 それと同時に、その剣が二度、三度と閃いた。

 触手が飛び散る。

 地面にばらばらと触手の残骸が散らばった。

 だが、触手の攻撃をまるで寄せ付けずに目の前に迫ったユリウスに、男は舌を出して嘲り笑いを浮かべた。

「ばあ」

 緑がかった白い舌だった。

 その首筋に向けてユリウスが剣を振り下ろそうとした時、突如地面から触手が突き上がった。

「あはは」

 “地虫”が嗤う。

 触手のうちの数本を、地面に潜らせて忍ばせていたのだ。

 とっさに身をのけぞらせたユリウスの眼前を、ナイフのような牙が通り抜けていく。

 かわしきれずにかすめたユリウスの頬から、赤い血が舞った。

 だが次の瞬間、“地虫”は笑顔を引っ込めた。

 地面から突き上げたはずの触手が、緑の体液とともに刈り取るようになぎ倒されたからだ。

 ユリウスの振るった目にも止まらぬ斬撃は、身をのけぞらせながらでもその速度をいささかも衰えさせなかった。

 百戦錬磨のユリウスには、この程度の小細工は通用しなかった。

「それで終わりか、“地虫”よ」

 ユリウスは剣を構えて大きく踏み込んだ。

「策はせめて二つは用意しておけ」

 身をよじろうとする“地虫”。だが、ユリウスはもう何もさせなかった。

 一息に、肩から斜めに斬り下げる。

 人間とはまるで違う色の血を噴き上げて、男は倒れた。

「痛い」

 そう呟く“地虫”には、もう笑顔はなかった。

「そうか」

 ユリウスはそこに歩み寄ると、両手で捧げるように持った剣の刃を下に向けた。

「お前が殺した村人たちも、さぞかし痛かったことだろう」

「あはは」

 思い出したように笑い出した“地虫”に、剣を突き立ててとどめを刺す。

 魔人の死とともに、視界を覆いかけていた黒い霧のような瘴気はたちまち薄らいでいった。

 それと入れ替わりにして、清浄な空気が辺りに戻ってくる。

 ユリウスはそれを確認すると、身を翻した。

 しばらく歩いたところに、武装した男たちの一団が待っていた。

 この近辺を治める豪族の私兵たちだった。

 いずれ劣らぬ屈強そうな体格の、普段は肩で風を切って村を歩くであろう彼らも、魔人が相手では手も足も出なかった。

 今日も、瘴気の沼の出現したこの場所までユリウスを案内してくるのが精いっぱいだった。

「終わりましたか」

 私兵たちの隊長格の男が、歩み寄ってくるユリウスに、おそるおそる尋ねた。

 戻ってきたのが本当の騎士なのかどうか、怪しんでいるようでさえあった。

「うむ」

 ユリウスは頷いた。

「汝らにも分かるであろう。瘴気の霧が晴れたのが」

 そう言われて、男たちは辺りを見回した。

 まるでユリウスの言葉を証明するかのように、生ぬるい風の代わりに、冷たく清々しい風が彼らの間を吹き抜けた。

 おお、という歓声が誰からともなく上がった。

「さすがは騎士様」

 隊長格の男が恭しく頭を下げた。

「まことにお疲れ様でございました。村まで、帰り道を先導いたします」


 村を治める豪族の家でもてなしを受けながら談笑していると、家に仕える召使いの男が、騎士様にお手紙が届いております、と言いながら一通の手紙を持ってきた。

 旅先に手紙が届くのは、珍しいことではなかった。

 それは、国からの転戦指令である。

 新たに魔人が現れた村。

 魔人討伐に向かった騎士が敗れ去ってしまった村。

 ユリウスの次に向かうべき目的地を、手紙が知らせてくる。

 新たな戦いの始まりを告げるのは、いつも手紙の役目だった。

 だからユリウスは当然のようにそれを受け取り、それから封筒を見て眉をひそめた。

 あて名は、見覚えのある女文字で書かれていた。

「ルイサからか」

 それはユリウスの妹、ルイサからの手紙だった。

 昔から、仲の良い兄妹だった。

 兄を慕うルイサは、以前はちょくちょく旅先に手紙を送ってきたものだったが、ユリウスがあまりにも返事を書かないものだから、兄上のほうから手紙を書いてくるまで、もう私から手紙は書いてあげませぬ、と言って送ってくるのをやめてしまった。

 無論、筆を執るのが大嫌いなユリウスが、それで実家に手紙を書くことなどありはしなかったのだが。


 家で、何かあったのか。


 久しぶりの妹からの手紙は、ユリウスに嬉しさよりもむしろ心配をもたらした。

 両親も健在とはいえ、もうそれほど若くはない。

 書かないと言っていた手紙をルイサがわざわざ書いて送ってきたということは、何か急いで兄に伝えねばならぬようなことが起きたのではないか。

 まさか、家族の身に良からぬことが。

 嫌な予感に駆られて封を切ったユリウスは、中の手紙を見て目を見開いた。

 封筒の中には、妹からの手紙とは別に、もう一通の手紙が入っていた。

 その差出人の名を見た時、ユリウスの心臓が、ばくん、と鳴った。

 差出人は、シエラのカタリーナであった。




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