第6話 カーラ(2)
半時間ほどでカーラが帰ると、わたしはふたたび一人になった。
松の木の根元に座る。
秋の林を楽しむ気持ちは消えていた。どうしてそんな気になれるだろう。
背が高く、綺麗で、金髪のフィオと、わたしはほとんど話したことがなかった。別に気が合うわけでもなかったし、寝起きする建物も違っていたからだ。それでも、聖歌隊では一緒に歌ったし、毎日、院の食堂で一緒に食事もした。仲間だった。
本当は、あの尼僧院だって、それほどいい場所だったわけじゃない。規則は厳しかったし、食事も足りなかった。栄養が足りないために、病気になって死ぬ子が何人もいた。――わたし自身、その一人になりかけた。
でも、少なくとも、旧教徒の女の子相手なら、何をしても許される、なんて考える人はいなかった。……それとも、もしかすると、わたしたちの国では、新教徒の女の子が、今のわたしたちのような目にあっていたのだろうか?
ともかく、ここではフィオもカーラもわたしもみんな、同じ人間として扱われないのだ。好き勝手に囲ったり、売り飛ばしたりしても許されるのだ。同じ女の人同士の、お屋敷の女中たちでさえ、カーラやフィオに同情するどころか、いじめている。
帰りたい、と思った。
どこか安心できる場所に帰りたい。
でも、わたしに家はない。尼僧院も、もう失くなってしまった。
+
持ってきたパンを食べ、午後は畑でアルベルトさんの仕事を手伝う。
畑仕事そのものは手伝えないが、畑の外の草をむしったりとか、そんなことならできる。
やがて、日が暮れた。夕暮れの薄明かりの中、畑の柵を修繕する彼のそばで、わたしはしゃがんでランプを掲げた。
吐く息が白くなる、寒い夕暮れだった。木々の向こうの空に、一つ、また一つ、星が輝き始める。アルベルトさんが打つ金槌の音が、暗い畑にカンカンと響く。
そのうちに、林の裾をまわる道の先で、小さな明かりが動いた。わたしは立ち上がった。暗がりに目をこらす。
見間違いじゃなかった。誰かがこちらに歩いてきている。
近づいてみると、それは、片手にカンテラを下げたマルコだった。もう片方の手に何かをぶら下げ、畑のふちをまわって、こちらに近づいてくる。
「マルコ!」
わたしは手をふった。アルベルトさんが、金槌を置いて振り返る。
「――よう!」
もうすぐ夜だというのに、マルコは元気いっぱいだった。
「アルベルト、これ見てくれよ! さっき、あんたが教えてくれた罠にかかってたんだ!」
白い息を吐きながら言って、マルコは持っていたものをアルベルトさんに差し出した。
「言われたとおり、ちゃんと持ってきたぜ。一匹につき銅貨一枚、くれるって言ったろ?」
驚いたことに、それは死んだ栗鼠だった。ふかふかの毛皮に包まれている。
「とどめは?」
アルベルトさんが聞く。マルコは満面の笑みを浮かべ、何かを振りまわす真似をした。
「言われたとおり、一撃できめたぜ」
「血抜きは?」
「まだだ。母ちゃんが、そんなんうちですんなって言うんだもん」
「なら、うちの小屋でやれ」
「がってんだ。おいマルティナ、手伝え」
って、えっ? ええっ?
マルコと一緒に小屋まで歩く。何がなんだか、よく判らない。
小屋の井戸端につくと、マルコは栗鼠を逆さに吊るし、首のあたりを切って血を抜いた。
「や……やったことあるの?」
ためらいのない手付きに、思わず聞いてしまう。
「ねえけど、鶏と変わんねえだろ」
そ、そうかもしれないけれど。マルコはなかなか肝が座っている。
「っていうか、どうするの? この栗鼠」
「え? 知らねぇ。食うんじゃねえの?」
「えっ」
血抜きということは、もしかして。とは思ったけれど。
「り……栗鼠って、食べられるの?」
頭の中を、くるくるふわふわの栗鼠が飛びまわる。
「ええ? マルティナ、食ったことねえの?」
「ないよ!」
「えーっ、そうなのかよ。俺はてっきりマルティナが食べたがってんのかと」
はっ? マルコったら、何を言ってるの? 思わずぽかんとしたわたしに、マルコがうなずく。
「――まあ、いいじゃんいいじゃん、気にすんなよ。たしかに変わった好みだけどよ、栗鼠ならこのへんにうじゃうじゃいるもんな。パンやチーズに高い金払うより、よっぽど気がきいてらあ」
見直したぜ。とよく判らない褒め方をされる。って、それってもしかして、わたしのこと、栗鼠を食べたがる変な子だと思ってる??
って、ううん、そうじゃない。問題はそこじゃない。
「もしかしてアルベルトさん、これ、わたしのために……?」
「そりゃそうだろ。マルティナに栄養つけさせるって言ってたもん」
そのために、わざわざ栗鼠を?
っていうか、違う。そうじゃなくて。
「もしかして、わたしが持たされてたパンやチーズも、わたしのために買ってくれてたの?」
何を今さら、という顔でマルコがうなずく。
「そりゃそうだろ。前はアルベルト、お使いなんか頼まなかったもん」
「って言うことは、もしかして」
心臓が嫌な感じにどきどきして、わたしは胸を押さえた。
「……もしかして、毎日、あんなに遅くまで働いてるのも、わたしのせいなの?」
わたしひとり養うだけの食べ物を買うには、相当なお金が必要なはずだ。
「うーん……まあ、そっかもな? ちょっと前まで、こんなに働いちゃいなかったもんな」
言いながら、マルコはポケットからナイフを出し、栗鼠の毛皮をはぎにかかる。
「これ、頭と足は落としちまうか? いらねえよな」
「あ、う、うん」
「でも、尾っぽはそのまま毛皮につけとこうぜ」
「そ、そうだね」
相槌を打ちつつ、わたしの頭の中は、今聞いたことでいっぱいだった。
きれいに皮をはいだ栗鼠を、手頃な大きさに切りわけると、マルコはそれに塩をふり、木の枝に刺して、暖炉の火にかけた。
ほどなく、じゅうじゅうと油が落ち始めた。油の焼けるいい匂いが、小屋に立ち込める。
「うーん……こうしてみっとなかなか美味そうだな。やっぱ俺も食って帰ろうかなあ」
そんなことを言いながら、マルコが帰っていったあとで、ようやく、アルベルトさんが戻ってくる。泥だらけの手を井戸で洗い、暖炉で焼けている栗鼠を見る。
「あっ、これ、マルコがほとんどやってくれたんです」
わたしは言った。
アルベルトさんはうなずいただけで、何も言わなかった。そのまま木の腰掛けに座り、水につけてあった栗鼠の毛皮を取って、ナイフで裏側をこそげはじめる。
やがて、栗鼠がこんがりと焼けた。アルベルトさんは栗鼠を暖炉から上げると、ナイフで切り分けた。半分がわたし、半分がアルベルトさん。
「……アルベルトさんは、食べたことあるんですか、栗鼠」
両手で受け取りながらたずねると、
「山の方では、みんな食べる」
なるほど……。
たしかに、飴色に焼けて、じゅうじゅうと油が落ちている栗鼠は、栗鼠であるということさえ気にしなければ、とても美味しそうだった。
勇を振るって、かぶりつく。見た目のとおり、とっても美味しい。こんなに美味しいものは食べたことがないってくらいに美味しい。脂が乗っていて、塩味がきいていて、胡桃のような風味がある。
わたしは夢中になって食べた。そもそも、お肉の串焼きを食べること自体、初めてなのだ。尼僧院では、こんなお料理は出なかった。七面鳥とか、鶏とか、そういう美味しそうなものは、もっと身分の高い人が食べるものだった。わたしだけじゃない、まわりの誰もが、そう思っていたはずだ――
と、そこまで考えたところで。不意に、思い出した。
そうしたら、涙が出てきた。
だって、美味しくて。
美味しすぎて。
なんなの、わたし。昼間、あんなことを聞いたあとなのに。
「……っ」
ぼろぼろと、涙がこぼれる。だって。……だって、とにかく滅茶苦茶な一日だったのだ。カーラと再会し、カーラの話を聞き、フィオの話を聞いたあとで、いきなり、マルコに栗鼠を渡された。栗鼠が好物だと誤解され、さらにはその栗鼠を料理してもらい、こうしてご馳走してもらって、美味しく食べている。
「う……っ」
仲間たちがその身を慰みものにされていることを聞いた、そのあとで、アルベルトさんがその身を削って、わたしを養ってくださっていることを聞いた。
「…………うっ……」
ずっと、泣き言だけは言うまいと思っていた。落ち込んだりなんかするまいと思った。だって、ただでもとんでもなく迷惑をかけているのだもの。そのうえさらに、面倒をかけてどうするの。
でも、限界だった。わたしは泣いた。泣きながら、ああ、でもこれではまるで栗鼠を食べるのを嫌がっているようだと思って、どうにか涙を止めようとし、でも止まらなくて、言葉も出なくて、なのにそのうち、こんなときにまで美味しく栗鼠を食べている自分がなんだかおかしくなってきて、急に笑い出した。
「……どうした」
驚いたように。いや、むしろ、唖然としたように、アルベルトさんが言った。
どうしたって。どうしたのかって。
ぐるぐると。今日一日の出来事が、頭の中でぐるぐるとまわる。そうして最後に、カーラのあの、張り詰めたような横顔が残る。必死に歯を食いしばって、耐えがたいことに耐えるあの顔が。
「だってカーラが……!」
そしてまた、わたしは泣き出した。
「どっ……どうして、こんなことしてくれるんですか」
やがて、しゃくりあげながら、わたしは聞いた。
「パンも、チーズも高いのに」
言いながら涙をふこうとして、手が栗鼠の脂でべたべたな事に気づく。
「一日中働いて、疲れてらっしゃるのに、どうして」
ぐずぐずとしゃくりあげるわたしを前に、アルベルトさんは困ったような顔をした。理由など深く考えたことはないという顔だった。
しばらくそうしたあと、アルベルトさんは言った。
「だってあんた……そのままじゃ、冬を越せんだろう」
その言葉に、わたしは驚いた。なぜかわからないけれど、驚いた。
つまり、わたしはアルベルトさんの目に、そんなふうに見えているのだ。栄養不足で、がりがりで、春までも持ちそうにない子だって。
もっとも、それ自体は、それほど意外なことではなかった。夏以来、体重が減ったままであることも、ひどく疲れやすくなっていることも、自分でちゃんと判っている。
だから――そうじゃなくて。
そうじゃなくて、わたしが驚いたのは、アルベルトさんが、ただそれだけの理由で、わたしを助けてくれているということだった。ただそれだけ、そんな理由で、毎日遅くまで働いてくれているのだ。赤の他人のわたしのために、食べ物を買ってくれているのだ。自分だって決していい食事をしているわけではないのに。
「どうして? どうしてこんなに良くしてくれるんですか? わたし、迷惑をかけてばかりです。なのに、何もお返しできていません。ほかの屋敷の子達は、あの、ほかの、ほかのお屋敷の男の人達は、その」
支離滅裂なわたしの言葉を、アルベルトさんは時間をかけて飲み込んだ。そして、首の後ろに手をやると、やっぱり、困ったような口調で言った。
「どうしてって、言われてもな」
息をつき、さらに付け加える。
「…………あんただって、困るだろう。そうしろと言われても」
わたしはたまらずしゃくりあげた。そう、そのとおり。そのとおりだ。
困る。……困る。
あなたは今日から、知らない男の人のものになったのだ、なんて言われても困る。
あなたは今日から、見知らぬ誰かの好き勝手にされるのだと言われて、死ぬほど嫌だと思わない子が、どこにいるだろう。
なのに、そんなことも判らないような人が。わたしたちに気持ちがあることにさえ気がつかないような人が、どれだけこの世にいることだろう。泣きながら嫌がる相手に対して、心を痛めもせずに無理強いできる人が、どれだけたくさんいることか。
なのに。
……あんただって、困るだろう。
アルベルトさんは、そう言った。そうして、黙々と働いてくれた。わたしのために。
そんな人が、一体どれだけいるだろう。
尼僧服の黒い袖で、わたしは涙をふいた。またあふれてきたので、またふいた。何度もそんなことを繰り返していたら、アルベルトさんがぽつりと言った。
「…………ともかく、食べたらどうだ」
そう、わたしはいまだに、両手で栗鼠を持っていたのだった。だって、置くところがないんだもの。
わたしは大きくしゃくりあげ、それから、涙でべたべたの顔で、冷めてしまった栗鼠に噛みついた。硬くなってしまったが、それでも美味しい。
アルベルトさんも、残りの栗鼠にかぶりついた。狼みたいにばりばりと、骨ごと噛み砕いている。……えっ? そんなふうに食べてしまって、大丈夫なの?
わたしはアルベルトさんの顔を見た。そうして、少しためらったあとで、同じように骨ごと噛みついてみた。細い栗鼠の骨を、がりがりと噛み砕く。飲みこむときに喉に引っかかるんじゃないかと思ったけれど、そんなことはなかった。むしろ、なんだか体に力が湧く感じがする。
二人で黙々と栗鼠を食べる。見て可愛らしく、食べても栄養たっぷりなんて、栗鼠ってすごく良い生き物だ。
「……アルベルトさん」
やがて、勇気を出して、わたしは言った。
何かの用事以外で、彼に声をかけるのは、たぶん、これが初めてだ。
「その……栗鼠、美味しいですね」
アルベルトさんは顔を上げた。そして、黙ってうなずいた。
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