第5話  カーラ(1)

 翌日から、わたしは毎日ロザンナさんの家に通った。

 朝、アルベルトさんと一緒に小屋を出る。畑でアルベルトさんと別れ、歩いてロザンナさんの家に行く。縫い物や糸紡ぎをして午前中をすごし、お昼をいただいて、また仕事。夕方になると畑に向かい、アルベルトさんが小屋に帰るときに、一緒に帰る。

「アルベルトさんは、お昼をどうしているんでしょう?」

 わたしはロザンナさんに聞いた。

「ああ、お屋敷の使用人には、まかないが出るのさ。――だからあいつも困ったんだよ。あんたの分がないからね」

 なるほど、それで気を使わせてしまったのだ。

 ロザンナさんの家には、結婚した娘さんの他に、娘さんがもう一人と、弟のマルコがいる。旦那さんは農夫で、近くに自分の畑と、村から借りた放牧地を持っている。

「上の娘のイルマは、しばらく、お屋敷で女中をしてたこともあるんだよ。行儀見習いみたいなもんだね」

 とロザンナさん。

「前の旦那様が生きておられた頃には、あすこはいいお屋敷でね。若い娘をかどわかしてくるなんて、考えられなかった。でも、大旦那様が亡くなられてからはね……」

 そう言って顔をしかめ、

「だから下のロレッタは、お屋敷に勤めさすのはやめたのさ。イルマのツテで、街に働きに出したんだよ。とりたてて器量のいい子じゃないが、若様の目にでも止まったらことだからね」

「ああ、あのとき、お庭で洗濯物を干してた人ですね」

 わたしは思わず言ってしまった。

「へっ? なんのことだい?」

「あっ……」

 しまった、あれはのぞき見だった。

 わたしは恐る恐る、あの日丘にいたこと、そこから庭が見えてしまったことを話した。ロザンナさんはからからと笑った。

「そうそう、それがロレッタだよ。あの日は半日お休みで、家に戻ってきてたんだ。よく気のつくいい子だが、まあ、じっと座ってるのが苦手でね」

 なるほど。


 ロザンナさんはいい雇い主だった。仕事は楽ではなかったが、それは、ロザンナさん自身もそうなのだった――台所仕事に家の掃除、家族の世話と休みなく働き、さらに、請け負った裁縫もこなす。その合間にはマルコを叱り飛ばし、庭の草取りや畑の手伝いをさせるのだ。

 マルコは十二歳。いつも、何かしら遊びの種を見つけて飛び回っていた。男の子というものをわたしは知らなかったけれど――尼僧院にはもちろん女の子しかいない――マルコは楽しい話し相手だった。あるいはわたしが、マルコの楽しい暇つぶしなのかもしれないが。

「なあマルティナ、これなにか知ってるか?」

 わたしが仕事をしていると、マルコはいつも邪魔しにやってくる。

「あら、きれい。なんの実?」

 緑の葉っぱの真ん中に、つやつやした大きな赤い玉がついている。

「気に入った?」

 そう言って笑うマルコ。

「気に入ったわ」

 そう言って笑うわたし。

「そうかー。中身、虫だけどな」

 そう言って、マルコは葉っぱについた大きな赤い玉をひねり潰した。すると中から、うにうにとした芋虫が出てきた。わたしは葉っぱを取り落し、硬直した。マルコはしげしげとわたしの顔を見て、腕を組み、考え深げに言った。

「うーん……あんまりびっくりしねえんだよなあ、マルティナは」

 違います。驚きすぎて声が出なかっただけ。

 マルコはお屋敷の果樹園にも出入りしていた。トニオお爺さんが忙しいとき、手伝いをしているのだ。アルベルトさんとも知り合いで、時々、お使いを頼まれていた――というのは、ロザンナさんの家から帰るとき、よく、マルコにパンやチーズを持たされたからだ。

「こら、配達はお前の仕事だろ!」

 ロザンナさんが叱っても、

「だってどうせマルティナ、アルベルトんとこに帰るんだろ。だったら俺まで行くことないじゃん」

 とケロリとしている。おまけに、

「なあマルティナ、なんでアルベルトんとこに住んでんだ? 結婚したのか?」

 なんて聞いてくる。まったく、本当に油断がならない。


 そのアルベルトさんは毎日、遅くまで仕事をしていた。よほど忙しいのか、日没後にランタンをつけて、畑仕事をしていることもある。暗い畑にぽつんと灯るランタンと、そのそばで苗を植えつけるアルベルトさんの背中を、わたしはじっと眺めながら待った。

 べつに、小屋にいてもいいのかもしれない。今のお屋敷の雰囲気が、あまり良くないのだとしても、わたしのようながりがりの小娘に狼藉を働く人など、誰もいないのかもしれない。

 けれど、それでもやっぱり怖かった。

 アルベルトさんの仕事が終わると、わたしたちは二人で小屋に帰った。そして、麦のお粥やパンとチーズで夕食をすませる。その頃には暖炉はぱちぱちと燃え、藁の寝床はじんわりと温まっている。食事が終わると、わたしは寝床に潜り込み、アルベルトさんにお休みなさいを言う。たいていの場合、返事はない。とても口数が少ない人なのだ。

 会話はなくても、わたしは彼に感謝していた。一日一日、この場所で、わたしが怖い思いをせずに暮らせるのは、彼のおかげだ。

 そうして、一月が経った。



 その日は月に一度、ロザンナさんの下の娘さんが、半日、家に帰ってくる日だった。ロザンナさんと娘さんは、毎月この日に、家中のリネンを洗濯するのだそうだ。

「その日はあんたも休みなよ。この一月、よくやってくれたからね」

 そう、ロザンナさんは言った。

「つっても、あのアルベルトと一日顔を突き合あせてるんじゃ、退屈だろうけどね」

 まあ、そう言ってしまえばそうなのかもしれないが、でも、アルベルトさんが畑にいる間、松林を歩くのは楽しかった。そろそろ冬いちごが実る時期だし、もうすぐ咲きそうなクリスマスローズも見つけられる。

 松の樹のあいだの日だまりを、わたしはあちこち歩き回った。枝の上にいるリスを探し、足元で赤く実ったいちごを見つけては食べる。赤や黄色に紅葉した小枝を集めてブーケを作る。秋の林には、綺麗なものがいっぱいある。

 そのうちに、声が聞こえた。

「おい――おい!」

 アルベルトさんだ。畑の縁に立って呼んでいる。

「降りてきてくれ。あんたにお客だ」

 お客?

「はーい!」

 わたしにお客なんて、誰だろう。斜面を駆け下り、畑に下りると、アルベルトさんのとなりに、女中の黒いお仕着せを着た、すらりとした女の人が立っていた。

「……カーラ!?」

 その顔を見て、わたしは驚いた。このお屋敷に来た日、あの納屋で別れたきりのカーラだった。もっとも、つやつやした黒革のブーツを履き、糊のきいた女中のお仕着せを着て、綺麗に髪を結ったカーラは、別人のように大人びて見えた。

 向こうは向こうで、わたしをまじまじと見た。――つんつるてんの尼僧服と、男の子のような髪を。

「マルティナ……良かった、無事だったんだ」

 そう言うと、カーラはちらりとアルベルトさんを見た。

 それからわたしの方を向いて、

「女中頭がさ、実のついたナナカマドの枝をとって来いっていうの。場所はトニオって人に聞けって。奥様とお嬢様が、聖誕節の壁飾りを作るのに使うんだって――でもその、トニオって人が見つからなくてさ」

「トニオは今日は休みだ」

 アルベルトさんが言った。やっぱり、とカーラは顔をしかめた。

「絶対それ、判っててやってるんだわ。どうせまたいつもの意地悪よ。そんなことばっかりやってるんだから、あの人達」

「ナナカマドならわたし、どこにあるか判るわ」

 と、わたしは勢い込んで言った。

「林の中で何本か見つけたの。案内するわ」

「本当? なら助かる」

 とカーラ。

「あの人達の思惑どおり、探し回らなきゃいけない理由なんてないもんね」

 そこでわたしたちは林に入り、二人でナナカマドの木を探した。

 この季節に、赤い実をたくさんつけるナナカマドの小枝は、冬のお祭り、生誕節の飾りつけによく使われる。輪にしてリボンでくくったり、ブーケにして壁にかけたり。尼僧院でも、聖堂を飾るために、みんなで採りに行ったものだ。

「トニオ爺さんは、お屋敷の果樹園の世話をしてるの。ここに来る途中に、りんごの果樹園があったでしょ」

 落ち葉を踏んで歩きながら、わたしは言った。

「でも今日は孫娘が帰ってきてるから、娘さんの家に行ってるのね」

「そんなことより、あんたはどうなのよ」

 とカーラは言った。

「さっきの男、あんたがついていった男でしょ。どうなの。ちゃんと食べさせてもらってるの」

 誰も彼もが、わたしを見ると、ちゃんとご飯を食べているのかと心配する。……まあ、自分でも、ちびのがりがりだという自覚はあるのだけれど。

「大丈夫よ。昼の間は、そのトニオ爺さんの娘さんの家で、裁縫の仕事をさせてもらってるんだ。そこの家で、お昼ごはんが出るから」

「そう」

「……カーラは?」

 とわたしは聞いた。

「その……お屋敷のほうの暮らしはどう?」

「まあまあよ」

 とカーラは言って、唇を引き結んだ。

「……あたしなんかは、まだましな方ね。旦那様付きだから。フィオなんか大変よ。若様付きだから」

「若様……って、あの栗色の髪の?」

「そう。長男のエラルド坊っちゃん」

 言ってから顔をしかめ、

「……あれは人でなしよ。あんなのが次代領主なんて、どうかしてる」

「ど、どうかしてるって……」

 たしかに、あの時、あの栗色の髪の若様に、まったくいい印象はもたなかった。冷たい目で見下ろされて、ぞっとした。わたしの髪を見て、疫病病みかと大げさに飛びのいた。

「自分より弱い立場の人間をいじめるのが楽しいのよ。あんなのの相手しなきゃならないなんて……」

 カーラが唇を噛む。それから、低い声で付け加えた。

「若様が怖いって、フィオは毎日泣いてるわ。もういっそ、死んでしまいたいなんて言うの……信心深い子だから、なおさら」

 新教徒と同じく、旧教徒の間でも、婚姻していない男女の関係は罪だとされる。

「夜、時々、泣き叫んでるのが聞こえるのよ。……たまらないわ」

「…………!」

 わたしは言葉が出なかった。カーラは顔を上げた。

「それと比べれば、わたしなんか、ね。ああ見えてあの旦那、もうずいぶん枯れてるのよ。それに奥様が怖いもんで、奥様がお屋敷にいる間は手を出してこないの。奥様の御実家の方が、ずっと金持ちなもんだからさ」

 だからまだ、全然ましよ。そう言って笑ってから、カーラが心配そうにわたしを見る。

「そういうあんたはどうなの? あの熊みたいな人にいじめられてない?」

「あっ……」

 一瞬、わたしは迷った。本当のことを言ったら責められると思った。

 自分だけ上手く逃げた、裏切り者。仲間を置いて逃げた、卑怯者。そう言われても仕方がない。あのとき、たしかに怯えて夢中だったけれど、間違いなくわたしは、わたしひとりのことしか考えなかったのだ。

 でも、アルベルトさんを悪く言うことはできない。

「あの……なにもされてないの。……そういうことは、何も」

 わたしの言葉に、カーラが目を見開いた。驚いたように。わたしは言い訳がましく続けた。

「たぶん、わたしが子供っぽいからだと思う」

「何もって……何も?」

 わたしはうなずいた。

「本当に何も? ただ養ってもらってるだけ?」

 また、うなずく。

 カーラはしばらく、驚いた顔のままこちらを見つめていた。その口が何かを言おうとして、けれど、結局、言葉にならず――やがてカーラは、ふう、と息をついた。

「そうなんだ……。……あんた、上手くやったんだね」

 その言葉に、わたしはぎゅっと身を縮めた。とても、辛かった。

 なぜなら――なかったからだ。カーラの声にも言葉にも、わたしを責めるようなところは、一つもなかった。

 あんただけずるい、とか。あたしたちを置いて一人だけ逃げて、とか。そんなふうに責められたのなら、まだ、判る。

 でも、そうじゃなかった。カーラは、ただ、ひどく懐かしいような顔をした。ひどく懐かしいような顔で、わたしを見た。二度と戻らない、幸せな時代を思い出すように。だからこそ、判ってしまった。伝わってきた。この一ヶ月、カーラがどんな目にあったのか。

「カーラ……」

「――さてと。さっさと樹、探しちゃおう。ぐずぐずしてると、また嫌味言われるわ」

「カーラ、あの、怒らないの? わたしだけ……」

 聞いてはいけないことだと思うのに、わたしは思わず聞いてしまった。

 するとカーラは、一瞬、どこかが痛んだような、ひどく辛そうな顔をした。そして、ふいと身を翻すと、少し笑って、こちらを向いた。

「……前にさ。あんたが熱病で死にかけたとき」

「え、あ、うん」

「あんた、命は助かったけどさ。ばさばさ毛が抜けて、大変なことになってたじゃない。あのときあたしたち、確かに思ったのよ。自分じゃなくてよかったって――」

「…………」

「だからさ、なんていうの? こういうのも、運っていうか……。――大体、あんたみたいなちんくしゃ、一人減ろうが増えようが、あたしらが楽になる訳ないじゃない」

「カーラ……」

「っていうかあんた、あのままお屋敷に来てたら、相当まずかったわよ? みっともないとか疫病病みとか言われて、女衒に売り飛ばされてたんだから」

「ええっ」

 女衒!?

「そうよ。お屋敷の男たち、言ってたんだから。あんなのどうせ置いとけないって。あのまま居すわられたところで、どっかに売り飛ばすしかなかったって」

 それは……かなり、危ないところだったかもしれない。今さらながらどきどきする。

「だから、さ。紙一重ってことよ。――ほら、ナナカマドってこれでしょ? さっさと採っちゃおう」

 気づけばわたしたちは、明るい松林の中に立つ、背の高いナナカマドの樹の前まで来ていた。幾重にも枝分かれした灰色の枝先に、緑の葉と赤い実がびっしりとついている。

 わたしたち二人は、それから、飛び跳ねたり、よじ登ったりして、真っ赤な実をたくさんつけた綺麗な枝を、エプロンいっぱいに採った。

 楽しかった。まるで木登りをする子供に戻ったみたいで、カーラも声を上げて笑った。

 

 ――せめて、それだけでも良かったと思った。

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